具合が悪いならこれでもどうだい、と差し出されたものを不用意に受け取った。たぶん、自分でも気づかないくらい弱っていたからだろう。
安住の地から逃げ出して数年。
行先を決める事も出来ず放浪するまま、メガロボクスの看板を見かけては蛾のように吸い寄せられて、リングに立つ。
殴る場所は、どこへいっても事欠かなかった。
底辺の人間はどこにでもいる。ろくでもない日々の憂さ晴らしに殴り合いでスカッとしたい連中が多いという事だろう。そのついでに飲み代を稼げれば御の字か。
からくりは骨身にしみて分かってる。
初めていくところではいつも、八百長を持ちかけられた。
こちらがギアレス・ジョーと分かればなおの事、元チャンピオンの名前でどれだけ賭場が盛り上がるか興奮して、破格の取り分を申し出るやつもいた。
それを全部拒否し、ガチンコの勝負にこだわった。
そしてリングに立ったが最後、自身で抑えがきかなくなるほど、相手を打ちのめした。
最初のうちは、驚きと歓声。しだいにブーイング。いつでも、どこでも同じだった。
客は試合を、お遊びを見に来てる。弱い奴が一方的になぶられる様を見て、いつまでも楽しめるわけがない。ましてレートは下がっていく一方、賭けだって盛り下がっていくばかりだ。
そうなればもう厄介者、ギアレス・ジョーに尻尾を振っていた連中はそっぽを向き、早く出て行ってくれと言わんばかりの扱い。
潮時だと、揉めることなく去るだけだ。
そんな暮らしを続けていたら、次第に体が痛むようになってきた。
粗末な食事、現役時代までほとんど口にしていなかった酒、激しく殴り合った後医者にかかるわけでもない。まして年を重ねている。いつまでもまともでいられるわけがない。
分かっていても、どうする気にもなれなかった。
むしろ、こうあるべきだと思っていたからかもしれない。
(いてぇ)
その日も試合を終えた後、割れんばかりに痛む頭を抱えて酒場のカウンターに突っ伏していた。
酒を飲めば、少し楽になる。単なるごまかしだろうと思いはしてもやめられず、もう酔っぱらって夢のない眠りに落ちる事を願うばかりだ。
そんな様がよほどだったのか、
「よう、あんた。さっきの試合すごかったな。相手の野郎、白目向いて起き上がれなかったじゃねぇか」
気安く話しかけてきたのは、観客だったらしい男だった。何かあれこれと親し気に語ってきたが、半分も耳に入らない。
「…………」
言葉にするのも億劫で、ほっといてくれと言わんばかりに腕を抱えて小さくなっていたら、
「頭でもいてぇのかい、そんなに抑え込んで。具合が悪いなら、これでもどうだい」
目の前に差し出されたのは、白い錠剤が入った瓶だった。
薬。ドラッグ。
目を細めて男を見やれば、相手はにやっと笑う。
「稼がせてもらったからよう、贈呈するよ。そいつなら痛みもましになって、いい気分になれるぜ」
「…………」
いらねぇよ、と普段なら言ったはず。だがその時は本当に頭が痛くて、鉄のやすりで頭蓋骨を削られているようで、耐えられなかった。
一度口にして、その効果を知ってしまえば、もう後戻りはできなかった。
まして、
「よう、相棒。……ひでぇ有様じゃねぇか。てっぺんとったチャンピオンが、地の底這いずり回るたぁな」
――その声を、聴いてしまえば。それが幻だと分かっていても。それでも、
「……ああ、おっさん。今の俺には、似合いだろ。全部ぶっ壊したのは……俺なんだから」
もう二度と見ることも、聞くことも出来ない、片目の男が自分を非難する姿に、縋る事しかできなくなっていたのだから。