「二ラウンドKO。二分十秒、ヒット七十二、トータル……」
スパーリングマシンが終了し、機械的に結果を読み上げる。
それを聞きながら勇利は背を向け、低酸素マスクの内側で息を吐いた。
トレーニングの合間に一息つくか、と立ち去りかけたが、
『……こんなもんかよ! 本物のメガロボクスってのは』
「!」
不意に脳内で響いた男の声に、ハッとした。
(――ジャンクドッグ)
その姿はまだ、記憶に生々しい。
完全にしとめたと確信したフィニッシュブローを受けてなお、立ち上がった男。その姿を脳裏に浮かべると、足が止まった。
(……あの、目)
敵う相手ではないと悟ったはずなのに、あの男の目は生きていた。
飢えた野良犬がやっと獲物にありついたような――噛みついて離すものかと言いたげな、光を宿した目。
「…………」
浅く息を漏らした勇利はきびすを返し、再びマシンに向き直った。振るう拳をペペに向けているのか、あの男に向けているのか、分からないままに。
(結局のところ、俺は欲求不満なのかもしれない)
トレーニングを終え、ロッカールームへ向かいながら、そんな事を思う。
雨の中であの男と対峙した瞬間、確かに何かが血を騒がせた。
それの正体が知れぬまま、未認可地区の違法闘技場までわざわざ出向いて、試合をふっかけた。
常の自分なら、まずしない行動。オーナーが戒めるのも当然だ。血迷っているとしか思えない。
他人事なら、なぜそんな真似をと疑問を投げかけただろう。
だが、それを自身に問えば……確かに自分は、あの熱を求めていたのだろう、と思ってしまう。
(ほんの一瞬。熾火のような、それでも確かな熱を感じた)
あの男は、強い。
もちろん、技術は荒削りでフォームもばらばら、フットワークも見られたものではなかったが、それでも地下にいるのが惜しいと思うほどには、才能の片鱗を感じた。
そして才能云々よりも、あの熱――どこまで勝利にこだわり、しがみつき、噛みつくあの熱が、どこか懐かしく、近しいものを感じた。……そんな気がした。
(ひどい思いこみだ)
自分で考えて、自分で苦笑する。
あれは結局、ただの野良犬だ。
テンカウント後に、まだやれると歯をむき出して威嚇していたが、所詮は強がりでしかない。
続きをしたいのなら俺のリングに上がってこい、と煽り返した勇利にしても、本当にそれが叶うとは考えていなかった。
(オーナーを、メガロニアを貶した罰を与えただけだ)
それだけの事だ。あの目が妙に引っかかるのも気のせい、忘れてしまえばいい。
そう思いながら角にさしかかった時、
「!」
「うわっ!!」
その向こうから箱の山が現れて、胸から腹にかけて、どすんとぶつかった。ぐらぐらっと揺れる箱を、咄嗟に上から押さえると、
「あ、あっぶな! 悪い、前見えてなくて……あれっ、勇利?」
箱の影からひょこ、とシャルが顔を出す。
小柄なくせに、頭を超えるほどに抱えているので、前方が全く確認できない状態になっている。
「何をしているんだ、お前は」
「わっ」
呆れた苦笑を漏らして、半分以上をひょいと持ち上げると、重さのバランスが変わったせいか、彼女はまたよろけた。
何とか箱を落とさずに踏ん張って、照れ笑いを浮かべる。
「いや、プロテイン届いたから運べって言われてさ。
このくらいなら、いけるかと思ったんだけど」
どう見ても無理がある。自分の背丈より、高く積んでどうする。
そう言おうと見下ろした時、軽い違和感を覚えた。
何がおかしいのかと目を細め、そして気づく。
普段はパーカーの前を開けっ放し、袖も乱暴にまくり上げている彼女が、今日は首元まできっちりジッパーを上げて、袖も手首まで覆った状態で着ている。
見慣れない格好だから、おかしい気がしたのだ。
(……俺のせいか)
そしてその原因にも思い至って、気まずい思いがした。
彼女がこうまで露出をガードしているのは、おそらくまだ、行為の名残がくっきり残っているからだ。
――すなわち、後ろの首筋にはっきりとした歯形が。
「…………すまん」
あの時は本当にどうかしていた。改めて申し訳なくなって謝ると、
「ん? ……何が? こっちがぶつかったんだろ?」
シャルはきょとんと目を瞬く。それではなく、と説明しようとしたが、
(つまり俺は、こいつをはけ口に使った事になるのか)
そう思った途端、嫌な気分になって眉根を寄せた。
『勇利、本当はもっとあいつと闘りたかったんじゃないか?』
彼女が失神するほど交わった後、その言葉に不快を覚えたのは、噛みついた事を、ジャンクドッグとの試合を関連付けて語られたからだ。
――試合が物足りなかった欲求を、セックスで処理しようとした。
そう言われているようで、違うと断じた。
勇利はそんなつもりではなかったし、それに加えて、特に不満のなさそうな彼女の態度が引っかかった。
元より野良猫を自称していたからか。あるいは勇利を唯一無二の存在として扱っているからなのか、彼女は自身を軽んじる癖がある。
自分が傷ついたり、軽く扱われても、どうという事はないという態度なのは、これまでよほど虐げられる生活をしてきたのかもしれない。
だが少なくとも今、一人の人間として自立した生活をしている人間が、そんな風に貶めないでほしい。
ゆえに、強い口調でそんなつもりはない、と告げたのだが、
(的を射ていたから、苛立ちを覚えたのか)
今になってそう思い、彼女への後ろめたさが募る。
「……勇利? どうした?」
黙って見つめるこちらがよほどおかしく映ったのか、彼女が訝し気にこちらを見上げてくる。
顎を上げた時、そこにあると知っているからこそ、襟の隙間から噛み痕がちらりと見え、
「…………シャ、」
「キャット! おいキャット、お前それ全部持ってけるのかよ」
呼びかけようとした瞬間、不意に他人の声が割り込んできた。
何かと思えば、指導係のトレーナーがどすどすと、足音も荒くやって来ている。
「ん? あっ、お前、勇利に持たせる奴があるか!」
「うっ……す、すんません。落としそうになってたのを、庇ってくれて」
「そうなのか? 悪いな、勇利。そいつは俺が持っていくから、貸してくれ」
「……ああ」
勇利は箱を渡した。そして、
「気を付けろよ、
ぽん、と細い肩を叩いて、その場を立ち去る。
しばらく歩を進めてからちらりと視線を送れば、トレーナーと並んで歩きながら、彼女は楽しそうに話をしていた。
その笑顔を見て、心が安らぐ感覚を覚えつつ、
(……俺こそ、自重が必要だな)
ジャンクドッグといい、シャルといい、最近の自分はらしくない事をしすぎだ。
あらためて反省し、勇利は自戒を胸に刻むのだった。