事の発端は、今朝のこと。
『本日でメガロニア開催まで九十日!
出場四枠の内、残りの三枠を巡り、日々トーナメントは盛り上がりを見せています。
現時点で有力候補として名前が挙がっているのは……』
「あとちょっとで会場も完成か。いよいよって感じだな、勇利」
建設中のスタジアム映像を背景に語るアナウンサーを見つつ、キャットはトーストをかじった。
何もつけてないのに、甘みがあって柔らかい。
パン一つとっても、高級品はこんな違うのかと思いながらもぐもぐと咀嚼したが、
(ん?)
呼びかけたのに返事がないのをいぶかしんで、正面に目を向けた。テーブルをはさんで、朝食を取っている勇利は、
「…………」
テレビ番組に集中している――いや、ぼんやりしている?
「勇利。……勇利? 勇利!」
「! ああ。何だ」
何度か声をかけると、やっと我に返って、こちらへ視線を向けた。キャットは眉根を寄せてしまう。
「何そんなぼけーっとしてるんだ。もしかして、飯がまずかった?」
「そんな事はない。予想外に美味いさ」
「……予想外ってなんだ、予想外って。
飯くらい作れるからな、レストランで働いてたし。まあ、あんたほど上手くはないけど」
人の家、しかも勇利の家のキッチンで料理するのは緊張したが、一応そこそこの見栄えの朝食は準備出来た、と思う。
トレーナー見習いとして、栄養メニューを勉強していたのも役に立ってよかった。
ふ、と笑った彼は、食事を再開する。
「謙遜するな。美味いと言ってるだろう」
「ならいいけど……。そういや勇利、昨日からおかしいよな」
思い返せば昨夜、オーナーとの会場視察から帰ってきてから、ずっとこの調子だった気がする。
「……そう見えるか」
対して勇利は、あまり自覚がなかったのか、目を伏せて考えこむ様子を見せた。
そうだよ、と軽く身を乗り出して、顔を覗き込む。
「何か気になる事でもあるのか?
スタジアムの建設遅れてるとか?」
「そうじゃない。……野良犬に会っただけだ」
「野良犬?」
聞いてみれば、何という事もない。道端で突然チンピラにからまれた、という話だ。
勇利達が工事の視察で訪れた、未開通の道路。
その男はそこへ無断で入り込み、バイクでオーナーを曳きかけ、勝手に転んで事故った。
その挙句、メガロニアにケチをつけてきて、勇利に喧嘩まで売ったという。
……呆れるどころではない。
「何だそりゃ。確かに野良犬に噛まれたって感じだな。オーナーに怪我なくてよかった」
スクランブルエッグを口に運びながら感想を述べると、そうだな、と言葉少なに同意が返ってくる。どうにも気がそぞろだ。
「勇利は何でそいつが気になるんだ?
喧嘩売られて怖かったわけでもあるまいし」
からかうように言うと、相手はかすかに口の端を上げて、オレンジジュースを飲んだ。
「――そいつが、ギアとグローブを持っていた。おそらく、メガロボクサーだ」
は、とキャットは間の抜けた声を漏らしてしまった。
何だそりゃ、ますます変な奴だと口が曲がる。
「メガロボクサーのくせに、あんたの顔も知らなかったのか、そいつ?
そんなの、モグリもいいところだ。少なくとも公式の選手じゃなさそうだな」
「だろうな」
事故の後で気が立ってたのかもしれないが、それで白都の社長や、キング・オブ・キングスに因縁をつけるなんて、馬鹿も馬鹿としか言いようがない。
……なのに勇利は一晩経っても、こうして気にかけている。
(何かよっぽど、引っかかったのか?)
メガロニアを貶されて、かちんと来たんだろう、というのは察しが付く。
オーナーも勇利も長年の夢を叶えるため、プロジェクトに全てを賭けているのは、自分も知っている。
そこいらのチンピラにケチをつけられたら、お前に何が分かると言いたくもなるだろう。
――に、してもだ。
こんなに考え込むほど、その野良犬が気になるのだろうか。普段あまり他人に興味を示さない勇利にしては、相当珍しい。
「勇利。そいつ、どんな奴だったんだ? 何か目立った特徴とかなかったのか」
こうなると自分も、そのチンピラに興味がわく。質問すると、彼は思い起こすように視線を流し、
「若い男だ。黒髪でくしゃくしゃの頭、顔に傷がある……」
そして、軽く目を瞠って、
「ああ、ギアのバッグに『JD』とあったな。名前か何かは分からないが」
そう告げたのだった。
そしてその手がかりを持って、キャットは未認可地区を訪れた。
天敵の藤巻と出くわし、情報を手に入れる為に面倒な取引――足元を見られて、給料一か月分を巻き上げられたあげく、酒をおごらされた――をする羽目にはなったが、
(藤巻子飼いのとなれば、八百長ボクサーか。
そりゃあ、メガロニアなんてクソだと思っても当然だな)
ドランク・モンク。
地下の賭けボクシング会場へ足を踏み入れたキャットは、酔漢暴漢の類をあしらいながら、リングを見渡せる客席に陣取った。
周囲は勝った負けたで一喜一憂する男や女たちの罵声と歓声と嬌声とが入り乱れ、騒々しいにもほどがある。
だが、昔この場所に潜り込んで、こっそり試合を覗き見ていた身としては、なじみ深い空気だ。
(顔見知りに会わないようにしないとな。見つかったら面倒だ)
久しぶりに訪れたとはいえ、子どもの自分が毎日かじりついて観戦していたから、周りの人間に自然と覚えられている。
ただでさえ、公式戦に出て名と顔が知れてしまっているのだから、注意しなければ。
キャットはフードを羽織ったその下で、さらにキャップを深くかぶり直し、ちらりと対戦ボードを見やった。
(次がラストか。メインイベンターは、タイニー笹塚。
それと……JNK・DOG。ジャンクドッグ、か)
電光掲示板の名前を読み取り、ぬるいビールに口をつける。
『JD』が何なのかを散々もったいぶったあげく、やっとその名を教えた藤巻には苛立ちしかない。
が、とりあえず正しい情報にありつけただけでも、良しとしよう。
後は待つだけだ。きしむ背もたれに寄り掛かった時、一人のボクサーがリングに上がった。
(……あれか、ジャンクドッグ)
遠目に見ても、おもちゃのような安っぽいギアを身に着けたその男は、若く細身で、くせの強い黒髪と勇利の言ったとおりの外見だった。
大人しくコーナーポストに立っている姿は頼りなく、おんぼろギアなのもあって、ファイナルマッチの生贄のようにしか見えない。
(あれで勇利に突っかかってったってのは、相当な身の程知らずだな)
白都の贅沢な設備や、鍛え抜かれたボクサー達に見慣れた目からすると、ジャンクドッグはただのチンピラ同然だ。
こちらに背を向けた立ち姿はすっきりして、ばねのありそうな良い体をしているが、しょせん地下の八百長ボクサーというところか。
(ま、いいや。これで勇利の気が済むのなら、好きにすればいい)
珍しくわがままを聞けて、嬉しかったし。そう思いながら、キャットが悠然と足を組んだ時、
「……おい、あれなんだ?」
「笹塚じゃねぇよな。あんなでかくねぇ……」
不意に周囲の空気が変わり、困惑のざわめきが波のように広がった。
その起点になっているのは、自分がいる客席とは反対側。ちょうど一人の男がゆっくりとリングに上がるところだった。
すっと背筋を伸ばして立つその人物は、フードを深くかぶっているため、顔が見えない。
だが、パーカーの下から伸びるしなやかな足腰と、見上げるほどの上背とがひと際異彩を放ち、明らかに並のメガロボクサーとは異なる空気をまとっている。
「選手交代かぁ? 飛び入りかよ」
「ジャンクドッグに鞍替え? あいつ
「新人相手なら勝つんじゃねぇか、いくらなんでも」
突然の事に混乱が広がる中、キャットはフードの影で思わず笑い、頬杖をついた。あの男の正体はすぐに知れる。
「……そこにいる野良犬に野暮用でね。話はついてる」
――勇利だ! あの勇利がいるぞ!
パーカーを脱ぎ捨て、一体型ギアをまとう姿をあらわにした、キング・オブ・キングス――その名が会場中に響き渡る事で。
それは試合というよりも、エキシビションマッチのようなものだった。
大人と子どものじゃれ合いに等しい、一方的な展開。
しかし、メガロボクスのチャンピオンが地下のリングに立ち、拳をふるう様に熱くなった観客たちは、勇利コールを上げて興奮冷めやらず。賭けの損得も気にならない様子だ。
「…………」
キングが去り、強烈な一発を喰らったジャンクドッグは、再びダウンして運ばれて行った。
キャットは時間を見計らって席を立ち、客の間をすり抜けるように会場を出た。
視線を合わせず歩を進める。
店を後にし、サプライズに湧く群衆から足早に遠ざかり、通りを何本か進んだところで、やっと顔を上げた。
人気のない路地裏。そこにエンジンをかけた車がひっそりと停まっている。
キャットはそれに歩み寄って、軽く窓を叩いた。鍵の開く音がすぐ響いたので、するりと乗り込む。
運転席へ目をやれば、そこにいるのはもちろん、勇利その人だ。
外では目深にかぶっていたフードを下ろし、こちらが来るのを待っていた彼は、すぐにアクセルを踏み込んで発進する。
滑るように動き出す車内で、フードと帽子を脱いだキャットは、
「……勇利。明日、ラボ行くよな」
開口一番そう言った。相手は眉一つ動かさず、
「いきなり何の話だ」
しれっと言うので、何をとぼけているんだと、腕――正確には、パーカーの下に隠れたギアを指さす。
「あんたの右腕、変な反応してた。自分でも気にしてたじゃないか」
「気づいたか」
「見習いとはいえ、こっちはトレーナーやってるんだ。あれに気づかない訳あるか。
大体そうじゃなきゃ、ジャブ外さなかっただろ」
だから、と今度は顔に指を突きつけて、声を強める。
「明日絶対、ラボにいけよな。絶対だからな!」
「……異常がある訳じゃないが、分かった。そう念を押すな」
根負けしたのか、勇利が苦笑いを滲ませて承諾する。
こうまで言わなくともラボに行くかもしれないが、この人は自分の弱さを隠す癖があるから、油断ならない。
(後でちゃんと行ったかも、確認しておこう)
そう決心しつつ、柔らかな背もたれに背中を預ける。
窓の外を流れていくのは、未認可地区のわびしい風景だ。
自分にとっては嫌というほど馴染みのあるものだが、それを勇利の車の中から見ているというのは、不思議な気分だ。
(地下ボクサーに会いに行くって勇利が言い出した時は、どうなるかと思ったけど)
妙に気にしている様子だから、あんたが会ったのはこういう奴みたいだと知らせたら、直接会いに行くと言われて驚いた。
よほど引っかかっていたのかと意外に思いながら、キャットは店の場所と試合の時間を教え、途中まで一緒に未認可地区へやってきた。
店まで同伴しなかったのは、地下で面が割れてる自分と、正体を現せば大騒ぎになるのが目に見えてる勇利とが、行動を共にしていると知られたくなかったからだ。
(JDを探してると言ったその日に、キングと自分が一緒に来たら、藤巻が絶対かぎつけてくる)
あのやくざものに余計な情報を与えれば、ろくな事にならないだろう。
自分だけならともかく、それで彼に迷惑をかけるのは避けたい。
それ故に別行動をとって、キャットは客として、何食わぬ顔で試合を観戦していたのだが、
「……それはそれとして、勇利。ジャンクドッグ、面白い奴だったな」
頬杖をつきながら言うと、ハンドルを切った勇利が横目にこちらを見た。
どこがだ、と言いたげな視線に肩をすくめる。
「確かにチンピラで、試合でも力任せの荒い動きしてたけど。
あんたのガード跳ね上げたり、右腕使わせたりでいいとこあったじゃないか。それに」
今度はこちらが相手を見て、ニヤッと笑う。
「あんたも結構楽しそうにしてただろ? あんなの久しぶりだったんじゃないか」
「……野良犬を躾けただけだ。楽しむほどでもなかったさ」
涼やかな反論が返ってきたが、嘘つけ、と心中で否定する。
(あんな生きた目をした勇利、初めて見た)
今夜のマッチングは白都と何ら関わりなく、勇利は一人のボクサーとしてリングに立てた。
だからこそ、試合を楽しむ事が出来たのだろうと思う。
まして、噛みついてきた野良犬は、存外しぶとかった。
あの苛烈な右ストレートを受けたのに、それでも立ち上がって、かかってこいよと煽る様は、負け犬の遠吠えにしても格好良かった。
(俺のリングに上がってこいって、勇利もあいつを気に入ったんじゃないか)
未認可地区を抜けた車は、川にかかる橋へと滑り込んでいく。
前方に広がる、煌びやかな光に包まれた高層ビル群に目を細めたキャットは、
(――JD。ジャンクドッグ、ね)
改めてその名を刻みこんだ後、リングに立った勇利の雄姿を思い起こし、一人満足げに微笑んでしまうのだった。