早朝、扉を開けて、ジムの中へ入る。
ロードワークにも早い時間、誰もいないだろうと思ったのだが、見当が外れた。
しゅっ、しゅっとこすれる音を聞きとがめてそちらへ視線を向けると、女が一人、床にモップ掛けをしている。
(……以前も同じ事があったな)
彼女がここに来たばかりの頃に戻ったような既視感を覚えて、ふっと笑う。
もっとも、あの頃とは色々な事が変わってしまったが。
「キトゥン、早いな」
その背中に声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせて振り返った。
「勇……利。……ああ、うん、おはよう……」
困ったような表情で視線をさまよわせ、すぐにまた掃除に戻る。
その態度に、勇利は眉を上げた。
最近はぎこちない関係に陥っていたので、キトゥンは以前のように嬉々として話しかけて来なくなったのだが、それにしてもそっけない。
(少し脅しすぎたか)
そう思い至って、ひそかに苦笑する。
先日のエレベーターで久しぶりに言葉を交わし、不自然に避け合う状態はひとまず解消された。
それはいいのだが、彼女が性懲りもなく「そばにいたい」などと、それは顔を真っ赤にして言うものだから、
(俺は、不用意な事を言うなと注意した)
それを承知の上でというのなら、以前と異なる関係になると、耳元で囁いて警告したのだ。
が……どうやら薬が効きすぎたらしい。
こちらに向けた背中は、明らかに緊張して強張っている。
「……キトゥン」
「! な、何? 勇利」
呼びかければ小動物のように飛びあがり、振り返りこそしたが、相変わらず目が合わない。
勇利は腰に手を当て、苦笑いを漏らした。
「そんなに怯えなくとも、取って食いはしないぞ」
「……べ、別に怯えてないよ」
「そうか」
試しにずい、と近寄ってみる。途端、
「!」
すざっと勢いよく距離を開けられた。……さすがに少し、傷つく。
「うっ……ご、ごめん……」
キトゥンも今の反応はまずいと思ったのか、眉を八の字にして謝罪を口にした。
でもさ、とモップを所在なさげに持ち替えながら、
「あ、あんたが変な事言うから悪いんじゃないか……。
何か、どうしたらいいのか、わかんなくなる」
「…………」
まだそこまで『変な事』を言ったつもりはないのだが。
思っていた以上に反応が過敏なのは、自分が相手だからなのか、存外スレていないからなのか。
(取り扱いは慎重に、か)
ますます厄介になったと思わなくもないが、それはそれとして。
(こいつがここまで俺を意識するのも、悪くない)
今まで何の警戒もせずにあけっぴろげだったキトゥンが、自分の前で恥じらう姿を目にすると、何かこみ上げるものがある。勇利は軽く咳払いをして、
「……無理強いをする気はない。
ただ、俺のそばに居たいと言うのなら、お前も相応の覚悟で臨め。俺は神でも、聖人君子でもないんでな」
「っ……わ、分かった……よ」
あえて更なる警告を告げると、キトゥンは息を飲んだ。
その頬がぱぁっと紅潮し、少女めいた無防備な表情が目に飛び込んできたので、
(……そういうところが不用意だと言うんだ、お前は)
つい叱責しそうになって、口をつぐむ。
ここがジムでなければ、それこそ『変な事』を吐き出してしまいそうだ――それが彼女を更に戸惑わせると、分かっていても。