あんたはノマドだな、と告げられたのは、どこでだったか。
場所は覚えていない。ふらりと入った酒場だったように思う。酩酊するほど安酒を流し込み、カウンターに突っ伏していた時、そばで語るともなく語っていた老人が言っていたような気がする。
「……ノマド?」
聞いた事の無い言葉に重い頭を上げると、老人がぼやけた視界に映る。
この辺りでは見かけない、異国の顔だ。肌は黒く、顎と額は広く、皺だらけの顔に黒々とした目が印象深く映る。
色味を添えるように服は何色も重ねたカラフルなもので、それが老人を妙に陽気に見せた。問いかけに目を細めて笑い、相手はグラスを傾けた。
「そう、ノマド。放浪者って意味だ」
放浪者。そうと知って笑う。
確かに、間違いない。今の自分に帰る場所などなく、あちこち彷徨っているのだから。
「この次はどこへ行くんだい。あてはあるのかい?」
「……さぁな」
行くところなど無い。どこだっていい。思い出から逃げられるのであれば、どこへでも。
その言葉を、酒と共に体の奥へ飲み下し、席を立つ。気をつけてな、という別れの言葉を背に店を出た。
外に出てみれば、湿った風がまとわりついてくる。
雨が降るのか。それとも雪かもしれない。
生まれて初めて見た雪は、息を飲むほど綺麗だったと思い出す。その後すぐあまりの寒さに耐えかねて、毛布を買ったっけ。
そんな事を思いながらバイクに乗ろうとしたが、自分でも思っていた以上に酔っているらしい。
スタンドを外した途端、バランスを崩して倒しそうになったから、辛うじて堪えた。
頭がくらくらする。これではすぐに事故りそうだと判断して、やむなく押しながら歩き始めた。
(どっかにモーテルはねぇか)
自分一人なら野宿でも構わないが、そこいらで寝るとバイクが盗まれる危険性がある。安宿でも駐車場のある場所に置いた方がまだまし、天気が崩れるならなおさらだ。
さびれた街の通りに出て、どこかめぼしいホテルはないかと視線を巡らせた時、
MEGALOBOX
そのネオン看板が目に入って、一瞬息を飲んだ。反射的に目をそらして立ち去ろうとしたが、足が動かない。
「……っ」
歯を食いしばると同時に、グリップを握る手に力がこもる。見下ろした両手にはまだ、拳ダコが居座っていた。それを自覚した途端、顔が歪むのを感じた。
(……俺は、何で)
自分がそれしか出来なくて、それ故に大事なものを全部壊してしまった。
だから全てを置いてきたはずなのに、どうして、まだ。
長くその場で逡巡した後、バイクを押し始めた。
向かう先は、汚い雑居ビルに輝くネオンの下。
まるで誘蛾灯に吸い寄せられる虫みたいだな、とごまかすように笑ったが、胸の奥で開いた傷口の痛みは、刻々と増す一方だった。