あの夏の日

 過ぎ去ってしまった今、あの日々がどれほど大切な時間だったのかを、知る。

「巧介!」
 呼び声に反応して文庫本から目を上げると、行き交う人の波をかきわけるようにして、真琴が走ってくるのが見えた。
 俺の前までやってくると、膝に手をついてはぁぁ、と大きくため息をつく。夏の日差しで火照った顔から、ぼたぼたと汗が滴り落ちた。
「良く間に合ったな、寝坊したって言ってたのに」
 疲れきったその様子に苦笑した俺は、本を鞄に入れて立ち上がった。真琴は身体を真っ直ぐにして、手で顔を扇いだ。
「もー、家からダッシュしてきたよ……。焦るし暑いし人多いし、死ぬかと思った」
 ほら、とエビアンを差し出すと、真琴は一気に煽る。腰に手をあてたポーズでごきゅごきゅ飲み干し、ぷっはーと心底満足げなため息を吐き出す。
「えっへっへ、ご馳走様」
「親父か、お前は。もう二十になるんだから、少しは女らしくしろよ」
 呆れて口を曲げたが、真琴は一切気にしなかった。まぁいいじゃん、と昔どおりの能天気な顔で笑って、俺の背中を叩いてくる。
「じゃ、行こうよ、巧介。おばさんにはもう連絡してあるから」

 真琴を案内にやってきたのは、真琴のおばさんが勤めている美術館だった。
 平日の昼間だからか、それとも普段からそうなのか、中に入ると穏やかな人のざわめきが微かに聞こえるくらいで、とても静かだ。
 夏のぎらぎらした日差しや、蝉の鳴き声が急に遠ざかって、静寂に耳をふさがれたようで一瞬めまいがした。
「こっちだよ」
 真琴は入り口正面の階段を上りだした。顔なじみの警備員のおじさんと軽く挨拶を交わし、スタッフ証を二枚受け取って、俺に差し出してくる。
「サンキュ」
 紐を首に通して、俺は真琴の後をついていった。
 真琴は勝手知ったるという風にすたすた歩いていく。
 迷いも無く進んでいく真琴は、すっかり美術館の空気に溶け込んでいて、毎年のことだが、不思議な気持ちになる。中学や高校の時の真琴が美術館にいるところを見たら、全然似合わないと思っただろうに。
 そう思いながら何気なく視線を動かしたら、真琴の指先が青く汚れているのが目に入った。多分、絵の具か何かの画材だろう。
 課題の〆切りが昨日だったとか言っていたから、その時ついたものなのかもしれない。

 俺と真琴が作業部屋にお邪魔すると、真琴のおばさんはにっこり笑って出迎えてくれた。
「いらっしゃい。待ってたわよ。真琴、巧介君」
「おばさん、来たよ~」
「すみません、今お仕事大丈夫ですか」
 ぺこ、と頭を下げると、おばさんはいいのよ、と手を振って、用意してくれたらしいグラスに麦茶を注いだ。グラスの中で氷がカラカラカラ、と涼しげな音を立てる。
「ちょうどひと段落ついたところだし、そろそろ来るだろうな、って思ってたから。あ、適当なところに座ってちょうだい」
 そういってグラスを俺と真琴のそれぞれに差し出してくれる。ども、と受け取った俺の横で、真琴はまた一気に飲み干した。
 お前、さっき俺の水飲んだくせに。まぁここに来るまでにもう汗だくになってたから、仕方ないのかもしれない。
 また、大きな息を漏らした真琴は、おばさんに向かって身を乗り出す。
「魔女おばさん、あの絵、見てもいい?」
 おばさんはおかしそうに目を細めて微笑む。
「せっかちね、真琴は。少し休んでからにしたら?」
「見ながら休むよ。だから、ね、お願い!」
 ぱん、と顔の前で手を合わせる真琴に、おばさんは肩をすくめた。
「しょうがないわね、分かったわ。ちょっと待って」
 そう言って、おばさんは部屋の奥に引っ込んだ。がたがた音を立ててイーゼルを動かし始めたので、俺も立ち上がって手伝う。
 真琴は椅子の前に置いてあった机をどかして、イーゼルを目の前におけるようにした。そして俺と真琴が再び椅子に腰掛けたところで、おばさんがあの絵を持ってきてくれる。
 俺はグラスをテーブルに置いて、改まった気持ちで絵に向き直った。
 それは、不思議な絵だった。
 ふくよかな顔立ちの、女性とも男性ともつかない人の顔が描かれているが、顔や身体の輪郭は周囲に解けるように消えていて、判然としない。
 色が入り混じった四つの球体がその掌中に包み込まれていて、見ているとなぜか酷く懐かしいような、切ない気持ちにさせられる。
 俺は、絵のことはよく分からない。おばさんもこの絵に美術的価値があるかどうかも分からない、と言っていた。
 けれど、何度見ても、この絵には心を揺さぶられる何かがあった。
 混然とした空間に浮かび上がる、モナリザのようになぞめいた表情を浮かべる人、その胸に抱かれる四つの珠。

『千昭がね、この絵見たいって言ってたんだ』
 不意に真琴の声が耳の奥に蘇った。今じゃない、あいつがいなくなったあの夏の日、俺が初めてこの絵を見せてもらった時の声だ。
『千昭が? 何でまた。あいつこういうの、興味なさそうだけど』
 妙に引き寄せられるその絵を展示室の硝子越しに見つめながら俺が言うと、真琴は小さく笑った。
『この絵を見に来たんだって。どうしても、何にかえても見たかったんだ、って言ってた』
『……そっか』
 そんな事は聞いた事が無かった。俺は呟いてちら、と真琴を見る。そして、少し驚いて目を瞠った。

 あの時と同じように、俺は真琴に視線を向けた。そしてやっぱりな、とゆるく息を吐く。
 真琴は、穏やかな表情で絵を見つめていた。
 慈しむような眼差しっていうのは、きっとこういう目の事を言うんだろう。おばさんに似た、いや、絵の中の人にも似た、大人びた優しい顔で、じっと視線を注いでいる。
 それは、あの夏の日以前には見たこともなかった顔だった。
 真琴は馬鹿で元気で明るくて、怒る時も泣く時も騒々しい、いつまでも子供みたいな、そういうヤツだと思っていたのに、いつの間にかこういう顔をするようになっていた。
(きっと、千昭は真琴に、ちゃんと言葉を残していったんだろう)
 俺はそっと視線を戻して、毎年夏にこの絵を見るたびに思う事を、胸の中で呟く。
 千昭はきっと真琴に、かけがえのない大切なものを残していった。だから真琴は今、こんなに優しい顔が出来るのだろう。
 それは嬉しいと思った。
 千昭がひそかに真琴を思っていたのは知っていたし、お似合いの二人だとも思っていたから、二人の思いが通じたのならそれは嬉しいと思った。
 だが一方で、寂しいと思った。
 俺にはわからない二人の絆があるという事実が、仲間はずれにされたような感じがして、寂しいと思った。
 けど、それでいいんだと思った。
 俺たちは、あの輝かしい日々を共有した。
 馬鹿みたいに笑って、遊んで、友達になった。その思いはきっともう一生忘れないから、だからそれでいいんだと思った。
「……あいつさ」
「ん?」
「千昭。またこの絵、見られるといいな」
 どこ行ったんだか知らないが、何にかえても見たかったというこの絵を見に、あいつがまた戻ってくれば良い。そう思いながら言うと、真琴は眩しそうに目を細めた後、
「うん!」
ひまわりのように明るい笑顔になって、大きく頷いてみせたのだった。