なぜ、あんな事をしてしまったのだろう。
私が心底から望んでいたのは、邪悪な事ではなかった、少なくともそうではなかったはずなのに、望みはいつの間にか形を変え、ねじ曲げられていて、しかも私はそれに気づかなかった。
あんな事をしたかったわけではない。
あの小さな人を怯えさせたかったわけでは、無いのに。
汚らわしいオークの群れはいつ果てる事も無く、そのおかげで、私は剣を振り下ろすべき敵を見失わずに済んだ。もし今、めくらめっぽうに剣を振り回したとしても、刃は奴らの頭を割り、手足を切り落とし、首を落とす事が出来るだろう。
私はゴンドールの角笛を吹き鳴らした。私の前に立つ悪鬼は我が刃にかかって、たちまち地に伏し、角笛の高らかな音に恐れおののく。
しかし、それに応える味方も無く、むなしくこだまが消えていくだけと知った奴らは、前にも増して激しい攻撃を加えてきた。
私は剣を振るい続けた。
そして駆け続けた。
このときの私の姿を見た者はこのように言うかもしれぬ、ゴンドールの執政デネソールの息子、ボロミアは、憎きオークを残らず滅するために走る狩人なのだと。
しかし、歯をむいて威嚇の咆吼をあげるオークどもを蹴散らしながら私が思う事はただ一つ、恐怖と疑念に満ちた表情で私を見るフロドだった。
あのときの彼の目に、私はどんな姿で映っていた事だろう?
薄汚く恥ずべき甘言と、謂われ無き非難を口にしながら、一心に指輪を見つめていた、私の姿は?
(あんな事をするつもりではなかった)
走り、敵を屠りながら、私は胸中でずっと叫び続けていた。
人間で言えば子供くらいにしか見えない小さな人、楽天的で、どんな時でも歌と食事を忘れぬ明るい彼ら、愛し守るべき存在であるホビットのフロドを脅し、指輪を取り上げる。私は決してそんな事をするつもりはなかった。
私はただ、ゴンドールを守りたいと願っているだけだ。あの美しい白い塔を、勇敢にして賢明なるヌメノールを暗黒の手から守りたいと、ただそれを願っているだけなのだ。
しかし指輪の魔力は、私の純粋な願いを欲望に変えた。
指輪の力を使って悪を平らげ、我が身がモルドールの玉座に座り、中つ国の全てを掌握し従属させるという恐ろしくおぞましい欲望に、ゆがめてしまった。
(ああ、フロド。許してくれ)
重たい手応えを残してオークの腕を切り落とした時、黒い影の合間に紛れ込んだ緑のマントが見えた。
小さな人影は二人、いまにもオークの節くれ立った手に捕まりそうになっている。大柄のオーク達に囲まれた小さな人――メリアドクとペレグリンの姿を見た時、私は腹の底から絞り出すような怒号をあげて、オーク達に突進した。
(許してくれ、フロドよ)
私は彼らを守り、剣を振るい、心で泣いた。
今やっと、私は知ったのだ。
指輪が我が心を誘い、惑わしたのは、破滅へと導く為なのだと。それこそがガンダルフ、地の底に落ちていった灰色の放浪者、ミスランディアさえ恐れさせたものなのだと。
私は、指輪の前で如何に自分が無力かを、この旅を始めて以来、ようやく理解した。
あれは、用いる事を考えてはいけない。あれを用いれば、用いた者が残酷で忌まわしい魔王へと変わり、全てを破壊するだけなのだ。
ああ、私はなんて心弱いのだろう。これから先、どれほどの言葉を並べ立てたとて、フロドの許しを請う資格など私には無い。
なぜなら私は、その恐ろしさを知りながら、理解しながら、それでも私は―
あの指輪が欲しいと、指輪をはめて強大な力をふるいたいと、切に思ってしまうのだ!
(許してくれ。脆弱な人間を、許してくれ)
遠い昔、イシルドゥアが犯した過ちを、私は繰り返した。こんな事は、あってはならなかったのに。
(人間を許してくれ、指輪に惑わされた人間を…否、否、そうではない)
どっ、と重い衝撃と共に、身体から力が抜けた。突然全ての動きが緩慢になり、目に見えるものがぶれる。オークの歓声が響き渡る中、私は己の身体につきたった矢を見下ろした。
(違う、私を、この私を、許してくれ)
剣が重い。矢の刺さった辺りから熱が広まり、全身を冒していく。この矢には間違いなく、オークどもの毒が塗られているに違いない。
(心の弱い私を、指輪に負けてしまった私を、許してくれ)
私の前で、ホビット達が目を見開く。今目の前で起きている事が信じられないと言いたげなその顔は汚れ、笑みの欠片も見受けられなかった。
しかし私は、彼らが如何に無邪気に、私を頼ってくれているかを知っている。これほど醜く浅ましい私を、何の屈託も無く慕ってくれている事を知っている。
(許してくれ、小さな人よ)
その言葉を最後に、私の中から一切の思念が消えた。私は再び剣を握りしめて、向かってくるオークの首をなぎ払った。獣のように荒ぶる声を上げながら、切り続けた。矢がいくつも私を襲い、四肢から力を奪い、遂に立てなくなるまで。
いつか、そう遠くはない未来、あの白い塔に王が還ります時が来るだろう。
私は王と共にあり、サウロンの滅する時まで、戦場を駆け抜け、王のために勝ち鬨を上げよう。
そして戦いを終えたら皆と一緒に食事をして、歌を歌って、一緒に笑って、一つの指輪から始まった偉大な旅に思いを馳せながら、宴に侍ろう。
その時にこそ、私はフロドと杯を交わそう。
勇敢なるホビットの友にしてはくれないかと、許しを請おう。
それは最早、果たす事が出来ぬ望みでは……あるけれど。