夢中のあなた

 ぱちぱちと音を立てて、火が踊る。
 常と変わらぬ温もりと明るさをたたえるそれを、アリスターはぼんやり眺めていた。
 時は深夜、レッドクリフへの途上に張ったキャンプで、今夜はアリスターが不寝番をしている。ほかのメンバーはテントの中で寝入ってるはずだが、その眠りは穏やかだろうか。そう考えたとたん、
(……あぁ、駄目だな。ついつい思い出しちまう)
 アリスターの脳裏を過ぎるのは、先だってサークル・オブ・メジャイで出くわした悪夢である――いや、それは悪夢と言い切るには幸せにすぎた。
 優しい姉、その子供たちに暖かく出迎えられ、一つテーブルで食事をとり、他愛ない会話をして笑いあう、そんな穏やかな夢。その中では時にダンカンや他のグレイ・ウォーデンも客として訪ねてきて、楽しく語り合った。
 目覚めた今となっては、すでに死した者ばかりの酒宴など空しいばかりだと分かる。
 幸福という誘惑をして堕落せしめるのが怠惰の悪魔の手段なのだろうから、それに耽溺するのは奴の狙い通りで、愚かしい感傷でしかないのだろう。だとしても、
(それでも、俺は幸せだった)
 現実にはあり得ないからこそ忘れがたい幸せの残滓を、アリスターはまだ振り切れずにいた。
 思わず重いため息をもらした時、ぱさりと微かな音が漏れ聞こえた。顔を上げると、すっかり眠っているのだろうと思っていたもう一人のグレイ・ウォーデンが、ゆっくりした足取りでこちらへ歩いてくるところだった。
「やぁ、アリスター」
「どうした。またアーチデーモンの鼾で寝付かれなかったのか?」
 炎の照り返しで見た彼女は、表情が優れなかった。ダークスポーンの悪夢にうなされたのかと軽口を叩くと、彼女は浮かない顔で首を振り、
「……少し、そっちにいってもいいだろうか」
 妙に慎重な口調で断ってくる。元気がない様に眉を上げ、そりゃもちろん、とアリスターは自分の隣を示した。
 なのでそのままこちらに腰をおろすのかと思ったら、彼女はすたすた近づいてきて、なぜかアリスターの背後に座った。とん、と細い背中がこちらの背中とぶつかる。
「……おい?」
 何だって後ろになんか座るのかと、肩越しに振り返って声をかけると、彼女は足を抱えてうずくまっていた。
「なんだ……そんなに夢見が悪かったのか? あるいは、怪我がうずくとか?」
 常ならず落ち込んでいる様子が気にかかる。心配になって体ごと向き直ろうとしたが、それより先に彼女は俯いたまま、頭を振る。苦笑がもれ、
「いや。ちょっと、フェイドの夢を見てしまって、どうにも落ち着かないんだ。大したことじゃない」
 沈んだ調子で答えてくる。
(ああ……こいつも、悪夢を見たんだな)
 アリスターは、たき火に視線を戻し、
「おまえはどんな悪夢を見たんだ? ……もし、聞いてもよければ」
 そろり、と問いかけた。背中の相手は身じろぎもしない。ただ声だけが返ってくる。
「私は――ダンカンに会ったよ」
「ダンカン?」
「ああ。夢の最初、私は砦にいて……ダンカンは我々の戦いは終わった、最後のダークスポーンを倒したあの決戦を覚えていないのかと言っていた」
「……そうか」
「だが、すぐにおかしいと気づいて、偽物のダンカンと戦って……それからは」
 ふ、と沈黙が落ちた。たき火のはぜる音だけが辺りを支配する。やがて、ぱちん、と一際大きく火が跳ねた時、彼女は再び口を開いた。
「それからはずっと、悪魔が作り出したフェイドの島を巡っていた。あれは控えめにいっても、骨の折れる作業だったな」
 フェイドの島? そんなものがあったのかと問いかけると、彼女は静かに答える。
 悪魔に支配された五つの島には、悪意を持って襲いかかってくる敵と、身を焼き尽くすような炎、どうやっても開きそうにないほど巨大な扉、ふつうの人間には目に見えない扉など、数々の試練が立ちふさがったのだと。
 彼女はそれらを一つ一つ巡り、気が遠くなるような時間をかけて――実際の時間はそれほど流れていなかったようだが――、踏破していき、それでようやく仲間たちを救い出したそうだ。
「そうだったのか。それじゃあ、お前は一人でずっと戦ってたってことか?」
「ああ」
「それは……済まなかった」
 夢の残滓を振り払い、アリスターは恥入った。
 自分があのまやかしの中ではしゃいでいた間、彼女はずっと一人で敵にあらがい続けていた。それがどれほど困難な道のりだったのか、彼女は口にはしないが、想像に難くない。
(あんなトリックにだまされて、助けにいくどころか、助けられるなんて)
 いつものことながら、精神力が弱い自分を卑下してアリスターは奥歯をかんだ。他のメンバーも夢に囚われていたと聞いてはいるが、それならなおさら、自分だけでも彼女を救いにいくべきだった。
「あんたが謝らなくていいよ。まぁ、確かになかなかしんどかったが」
 落ち込むアリスターの背中に、軽く寄りかかり、
「一番つらかったのは、たった一人でいたことだ」
 彼女が静かに言う。
「夢の中で気づいたんだ。私はこれまで、たった一人で戦ったことなんて、一度もなかった」
「一度も?」
「あぁ。剣の稽古や狩りは昔からやっていたが、いつも誰か一緒にいたし……そうだな、この旅が始まった時はダンカンやマバリ犬がいて、その後はあんたと一緒で、少しずつ仲間も増えて。孤独を感じる時なんか、少しも無かった」
 だから、と彼女は柔らかい声音で囁く。
「だからフェイドで一人きりになった時は、寂しくて発狂しそうになった。あれでもし立ち向かうべき敵がいなかったら、私はきっと何処にも行けなかっただろう」
「そ、そうなのか? だが、俺の前に現れた時、いつも通りに見えたけどな」
 夢に溺れて脳天気に笑う彼に活を入れ、引きずり出した彼女は、普段と同じように凛々しく、清々しいほどに美しかった。それを思い出して、自身を恥じる気持ちと、彼女に対する称賛の気持ちとを同時に抱いた時、
「それは、やっと、アリスターに会えたから」
 彼女の言葉が耳に入って、一瞬惚けた。
「え? 何だって?」
 聞き間違いだろうか。問い返すと、彼女は少し困ったように間を置いて、
「とにかく、私は、心細かったんだ。どこへいっても、仲間がいない。
 たまに迷い込んだ夢と言葉を交わすこともあったが、それ以外はすべて敵で、後は静寂が私の耳を塞いだ。
 いくら進んでも、もう誰にも会えないんじゃないか。もう誰も、救えないんじゃないか。
 そう思った矢先に、あんたが、……まぁ、何だ。こっちの事情なんて知ったこっちゃないって感じで、楽しそうにやってるのに出くわしたもんだから、気が抜けて」
「うっ……」
 それについては何の弁明もできない。思わず言葉を詰まらせたが、
「――でも、安心したんだ。もうこれで一人じゃない、アリスターが居てくれるって分かったから」
 彼女の囁き声に、再度心臓が飛び跳ねた。ちょっと待て、今とんでもないことを告白されてはいないだろうか。
「あ……あ、あー、えぇと、それって、その、どういう意味だ?」
 こんな時どう言えばいいのだろう。レリアナちょっと教えてくれと思いながらしどろもどろに尋ねたが、
「……そろそろ寝ようかな、何だか眠くなってきた」
「えっ」
 背中の温もりが不意に離れたのに驚いて振り返ると、彼女はすっくと立ち上がって伸びをしていた。
「あんたといると、気持ちがほぐれてリラックスできるよ、アリスター。これならよく眠れそうだ」
「えー、あー……いや、それなら、よかった。俺はなにもしてないが」
 唐突に話を締められ、アリスターは面食らった。
 これで話は終わりなのか。何だこの中途半端な状態は、さっきの言葉の意味を、もっといえばそれを口にした彼女の気持ちを、根ほり葉ほり聞き出したいのに。つい焦って、
「ど、どうせなら寝付くまで、子守歌でも歌ってやろうか? その、お前のテントにじゃましてよければ」
 勢いのままに口走ってしまう。と、
「えっ」
 勢いよく振り返った彼女と視線が合った。目を丸くした彼女の表情には先ほどまでの憂いは形もなく、ただ――その頬が、明らかに赤く染まっている。
「あ……、アリスター、それは、その、ちょっと」
 不意にしどろもどろになって目線をそらす彼女は、いつになく動揺していて、その様子にアリスターも慌てた。かぁっと頭に血が上り、
「あぁいや、別にやましい気持ちはないぞ。指一本だってふれやしないから安心してくれ。ただ、お前は今回一人で大変だったんだから、ゆっくり、じっくり休んでほしいと思って、俺なんかでリラックスできるなら、力になりたいと思った、それだけ……」
 言葉を重ねるほどに墓穴を掘ってる気がする。顔が熱くなるのを感じて、むやみに回る舌を止めようとした時、「わん! わん!」突然茶色の物体が視界に割り込んできて、彼女の足下にまとわりついた。
「おっと!? ……あ、あぁごめん、起こしたか」
 そういって彼女が撫でるのはマバリ犬だ。
 幼い頃から飼っていたという軍用犬は人間の子供よりも大きく、威圧的な風貌をしているが、飼い主の前では子犬同然だ。巨体を押しつけてじゃれつき、撫でられてご満悦顔である。
「よしよし、静かにしろ。他の皆が目を覚ましてしまうよ」
 彼女が、しい、と唇の前で指を立てて言い聞かせると、犬はくぅーんと甘えた声ですりすり頭をこすりつける。その鼻の頭にキスをして、
「それじゃ今日は久しぶりに、一緒に寝るか。お前なら悪夢も逃げていきそうだ」
 彼女は立ち上がった。少し困ったように眉を八の字にしながら、
「……それじゃあアリスター、お休み。話につきあってくれてありがとう」
 控えめに微笑まれては、それ以上どうして詰め寄ることが出来るだろう。
「あ、あぁ……お休み。今度こそ、良い夢を見られるといいな」
 残念、これで終わりだ。がっかりした気分で彼女と犬を見送ったアリスターは、ふう、と大きなため息をついて、たき火に視線を戻した。
 そのまま、最初と同じく静かな見張りになるかと思いきや、
『わっ……こら、上に乗るな! 重いっ』
 テントに入った彼女の声と微かに衣擦れの音が聞こえてきて、びくっと背筋が伸びる。
(彼女の上に乗る……あ、いや、いかんいかん、よせアリスター、お前は雷に打たれてもいいってのか!)
「……あぁくそっ、あの犬っころめ、美味しい思いしやがって……」
 そのままあらぬ妄想が広がっていきそうになり、慌てて罵声とともに振り払う。熱く火照る顔を、誰にともなく隠したアリスターはしかし、
『それは、やっと、アリスターに会えたから』
『あ……、アリスター、それは、その、ちょっと』
(参ったな。あれはちょっと……可愛すぎる)
 普段はこちらが怖じ気づくほど毅然としている彼女が見せた、思いがけない一面に、ニヤニヤしてしまうのだった。