クローバー

 何気ない日々の一つ一つが。
 手放しがたいほどに、愛しい。

「……チャ……アーチャーってば」
「ん……」
 軽く揺さぶられて、目が覚める。ぼんやり瞼を上げると、少女が心配そうな顔でこちらをのぞき込んでいた。
「アーチャー、平気? いつもより遅いけど」
 言われて、教室の壁にかかる時計を見上げると、確かに普段の起床時間より一時間も遅い。いつもはマスターより早く起きているというのに、これは失態だ。
「済まない、マスター。寝坊してしまったか」
 慌てて椅子から体を起こすと、少女は眉根を寄せ、
「大丈夫? 昨日だいぶ無理したもんね。まだ、調子悪かったりしない?」
 心配そうに声をかけ、アーチャーの腕に手を乗せた。
「…………」
 アーチャーは一瞬黙り込み、その手を見下ろした。そしてすぐ立ち上がり、問題ない、と常通りの冷静さで答える。
「魔術回路は問題なく機能している。今の私には一点の瑕疵もないさ。案ずるな、マスター」
「なら、いいんだけど。……体調悪かったら、ちゃんと言ってね、アーチャー」
 不意に距離を取られて戸惑ったのか。マスターは困惑の色を混ぜた表情でアーチャーを見上げ、淡く微笑んだ。
 その、優しい笑顔に。
「あぁ。分かっているよ、マスター」
 彼女を抱きしめ、答えられたら、どんなにか幸せだろうか、と思う。

 月の聖杯戦争は終わった。
 敗北は即死を意味する過酷なトーナメント戦で数ある強敵を打破し、見事聖杯を勝ち取ったのは、名も無き魔術師の少女。
 誰もがその勝利を夢想だにせず、早々に消えてしまうだろうと目されていたか弱い少女は、戦いの中で成長し、サーヴァントとの揺るぎない絆を武器に、傷つきながらも勝ち続け――
 そして、聖杯の中で散った。
 もとより生者の記録から作り出されたイレギュラーデータは、例え聖杯戦争の勝者であろうと、霊子虚構世界での存在を許されなかった。
 故に勝者でありながら、少女はゼロとイチに分解されて電子の海に消え、それに従ったアーチャーもまた、同じようにデータを抹消された――はずだったのだが。
 再び目を覚ました時、彼の前に居たのは、人形によって命を絶たれようとしている少女の姿だった。
 咄嗟に剣を振るってそれを助けたアーチャーは、なぜ自分たちがまだ消えていないのかとマスターに問いかけようとして、
『あ……あなた、誰?』
 まるで見知らぬ誰かに対するようにするマスターの様子に、言葉を飲み込む羽目になった。

 そこからは、先に体験した事の繰り返しに過ぎなかった。
 彼は少女と契約を結び、学園生活を模した戦場に再び立った。彼女は相変わらず記憶を失っていて自身の正体を知らず、戦いへの心構えも無いまま、偽りの友と対決して勝利を勝ち取った。
「――勝つ理由さえない私に、相手の願いを踏みにじる権利があるのかな」
 慎二の命を奪った事に呆然とする少女の言葉は、以前と寸分違わず。
 だからアーチャーも同じ言葉を返す。
「君は私に近しい人間だ。いずれ暑苦しいほどの頑固さを発揮するだろうさ」
 そのせりふは今、確信をもって告げる事ができる。
 そうだ。
 彼女はあまたの戦いを経験し、悲しみもがきながら、それでも最後は誰よりも強い信念を抱き、王にさえ果敢に挑むようになるのだ。
「君の思いは、誰よりも強く、美しい。それを誇りに思う事だ」
 そういうと、少女はまだ悄然としながら、
「……うん。ありがとう、アーチャー」
 ふわりと柔らかく笑った。その笑みは、以前のそれと同じく、暖かくて、壊れてしまいそうなほど繊細で、
「――マ、」
 不意に電子音が響き、アーチャーの声がかき消される。
「あ、トリガーが生成されたって」
 端末を取り出して確認したマスターは、くるりと背を向け、
「とりあえず行こうか、アーチャー。今やれる事、しないと」
 意を決した様子でつぶやき、教室の外に向かって歩き出す。アーチャーは一瞬、空にひらりと翻った、少女の長い髪に手を伸ばし、
「……あぁ、そうだな、マスター」
 その指先が薄く透けているのに気づき、そっと腕を下ろして、静かに答えた。

 この身を飲み込んだ聖杯は、マスターのみならず、そのサーヴァントの願いさえ聞き届けてくれた。
 全ての願いを吐き出し、思い残す事はないと唇を綻ばせた少女を、初めて自分の胸に抱きしめた時、
(共に居たい)
 アーチャーは強く、強く願った。
(君と、ずっと一緒に居たい。消えてしまうなんて嫌だ)
 自分はまだ、彼女に何も告げていない。好きだとも、愛しているとも、この先ずっとそばに居たいとも、何にも。
(聖杯よ、頼む。万能の力を有していると言うのなら)
 そして彼女を、自分を、少しでも哀れに思ってくれるのなら。
(どうか――彼女と共に過ごす日々を、返してくれ)
 彼はそう、強く願ったのだ。

 そしてその願いは叶えられ、アーチャーは今、彼女と共にいる。
(例え、彼女に俺の記憶が無くとも)
 アーチャーは彼女の気配が、声が、温もりが、優しさが感じられるだけで、この上なく幸福だった。
(例え、この身が消え去ろうとも)
 髪がすり抜けた指先を握りしめ、アーチャーは目を閉じた。
 聖杯は彼の魔力を糧として、この偽りの日常を繰り返している。聖杯に溶け消え、再びこの場に戻ってきたのは、もう何度目の事だろう。自身の魔力が尽きた時、恐らくこの夢は醒めてしまうに違いない。
(例え、君が俺を求めていなくても)
 繰り返されるたびに自身の存在が希薄になっていくのを感じながら、それでもアーチャーは目を開き、先を駆けていく少女の後ろ姿を見送る。
 寸分の狂いもなく繰り返される日々。
 一度目に成し得なかった告白は、何度繰り返しても果たされる事無く、彼の思いが彼女に伝わる時は、永遠に訪れないのだけれど。

 ――それでも、今。君は、俺だけのマスターだ。

 アーチャーは愛しさの籠もった微笑みを浮かべて、決して届かない思いを、胸中で優しく呟いたのだった。