あなたに至る旅路


 冬。中東の夜の冷え込みは厳しい。
 日中は四十度まであがるが、太陽が地平線に沈むと気温はみるみる下がり、場所によっては氷点下にまでなる。
 この辺りは霜が降りる程度だが、山の方では雪に埋もれている事だろう。この暗さでは見えないと知りながら、山岳地帯へ目を向け、白い息を吐く。少し動かした足下で、砂がさらりと音を立てた時。
「シロウ」
 ふと、後ろから声がかかったので振り返ると、小柄な少女がこちらへ駆けてくるのが目に入った。途端、顔をしかめてしまう。
「おい、その薄着は何だ。風邪を引くぞ。それに頭を丸出しにするんじゃない、スカーフで隠せと何度いったら……」
「いいじゃない、どうせ皆寝てるんだし。いちいち細かいなぁ、シロウは」
 そばまでやってきた少女が頬を膨らませるので、指でその額をはじく。いたっ、とたじろぐのをにらみ、
「郷に入りては郷に従え、だ。地元出身者の中には女を目の敵にする奴もいる。わざわざ付け入る隙を与える必要はないだろう。それに頭を覆うのは暑さ寒さ対策にも有効なんだからな」
「分かった、分かったから! 今取ってくるよ……」
 シロウはため息をもらし、「とりあえずこれをかぶってろ」と自分の帽子を彼女の頭に押しつけた。わっ、と肩をすくませた少女はもそもそと位置を直し、
「……ありがとう、シロウ。暖かい」
 少し照れくさそうに礼を言う。反抗してくる事もあるが、この少女は基本的に素直だ。それがほほえましくて、シロウはふっと顔を綻ばせてしまった。それで? と続ける。
「何か話でもあるのか。普段ならもう寝てる時間だろう」
「……うん。ちょっと……」
 帽子に手を当てたまま、少女は躊躇いを見せた。どう口火を切ろうか迷っている様子でしばらく黙り込んだ後、
「……シロウ、明日で訓練終わり、なんだよね」
 慎重な口振りで言う。ああそうだな、とシロウは空を仰いだ。
「君と出会って、もう半年も経つとはな。いやはや、あっと言う間だった。最初はあまりにも使い物にならないから、どうして爺さん達や西欧財閥が目をつけたのかと怪しんだものだが」
「……シロウ教官殿にはお手数おかけしました。何で目をつけられてるのかは、私が知りたいよ」
 頭が痛い、と少女の眉間にしわが寄る。
 三十年前からコールドスリープで現代に蘇った少女は、何かと有名人だ。
 世界を牛耳る西欧財閥が血眼になって追い回しているし、レジスタンス組織の上層部はそれを知ってか彼女を匿い、一流の魔術師にしてくれ、と彼にオーダーを寄越してきた。
(気になって調べてみたが、彼女のデータは厳重にガードされていて、オレのスキルでは解析できなかった)
 何重にもロックをかけられたプロフィールデータに甚だ好奇心をかき立てられるも、彼にはそれを突破するほどのハッキング能力がなかった。
「リンならあるいは、簡単に読み解いたかもしれないが……」
「リン? リンって誰?」
 ぽろりと独り言を呟いたら、少女が顔を覗き込んできた。つぶらな瞳を見開いて彼に迫ってくるものだから、
「あ、いや……昔、君と同じように教育を請け負った生徒だ」
 たじろぎながら応えた。少女は首を傾げ、
「私と同じ、シロウの生徒? ……ふぅん。その子、どんな子?」
 興味を引かれた様子で質問してくる。そうだな、とアーチャーは顎に手を当てた。つい、笑みが口に上る。
「年は君と同じくらいだったかな。しかし実に優秀な生徒だったよ。
 魔術師としての素養は十分、度胸があって、決して譲れない信念もあった。教育期間は同じく半年だったが、驚くほどスムーズだったな。
 実際手を焼かされたのは、全てに置いて自分を曲げようとしない頑固さくらいだ。砂漠でミニスカートを履くなと、何度説教したことか」
 これまで何人か生徒を持った事はあるが、その中でもリンは折り紙付きだった。
 才能があり、また努力を惜しまない天才。
 まだ成人してもいない少女でありながら、傑出した魔術師として名を馳せ、反NEROの旗印として掲げられるのも、その実力を省みれば当然だろう。
「……女の子なんだ、リンって」
 リンの説明に、今の生徒は何か思うところがあったらしい。難しい表情で黙り込み、それから更に尋ねてくる。
「今はどうしてるの? その、リンって子は」
「さぁ、よくは知らないな」
 シロウは肩をすくめた。一度手を離れた生徒の動向を逐一見張っていられるほど、暇ではない。
「テロリストとして暗躍しているらしい、という噂は聞いた事があるくらいだ。まぁ彼女の事だ、きっと上手くやってるだろうさ」
「テロリスト!? 凄い魔術師になれたのに、何で!?」
 驚いて目を丸くする少女は、まだ平和だった自国での感覚が抜けないのだろうか。シロウは苦笑して、ざり、と砂を踏みしめる。
「彼女は上昇志向の強い質でね。西欧財閥が掲げる平等な社会が、人間の成長を阻害している、それがどうにも我慢ならないと、常々憤慨していた。
 リンは間違った事を正す為なら、自ら最前線に身を投じて怖じ気無い。彼女は自分の信念に基づいて行動している。その結果がたまたま、テロリストだっただけだ。まぁ、テロリストと称するのは、主に西欧財閥側のレッテルだがね」
「……凄いね、リンって」
 少女がぽつりとつぶやき、急にしゃがみ込んだ。「? どうした? 寒くなってきたのか?」心配になって自分も膝をつくと、
「ううん。……ちょっと落ち込んだだけ」
 少女は情けない表情で小さく首を振った。
「リンって私と同年代なんでしょ? それなのに魔術師として一流で、信念があって、西欧財閥なんて大きな敵に立ち向かっていく……私にはそんな事とても出来ない。考えもしなかった」
「それは当然だろう。リンと君とでは、育った環境も経緯も、全く異なっている。
 リンが西欧財閥打倒を志しているからといって、君まで同じ目標を抱く必要が、どこにある?」
 何が言いたいのか訝しむと、少女はそうだけど、と砂の上に意味もなく丸を描き始める。
「……私は過去の事ほとんど覚えてなくて、家族も、友達も、国もいつの間にか無くなってしまって。それでも何とかここまで来たけど……まだ、生きる目標なんて見つからない。
 期待してるよって言われても、どうして期待されるのかも分からないし、おまけに命まで狙われてるし」
 黒い瞳が揺れ、潤む。長いまつげを伏せ、少女は自らの殻に閉じこもる。
「シロウ、怖いよ。私が、私だけが生き残った事には、きっと何か意味があるんだと思って頑張ってきたけど……怖い。明日が怖い」
 震えているのは寒さの為……ではないだろう。シロウは冷え切った砂の上に腰を下ろした。
「恐れる事はない。確かに君とリンとを比べたら、彼我の力量差が存在する。だが、君もなかなか良い生徒だったぞ?」
「……ほんと?」
 そろ、と少女が顔を上げ、こちらを上目遣いに見つめてくる。その不安そうな様子につい苦笑してしまう。
「あぁ。リンには魔術師の素養があるといったが、それは君も同じだ。
 訓練の開始当初は素人同然だったのに、この半年で見違えるほど成長した。正直、これだけ成長の伸びしろがある生徒は初めてだったよ」
 さらり、と手の下で長い髪が揺れる。シロウは軽く背中をポンポンと叩き、穏やかに告げる。
「君は強くなった。それに、君はどんなに辛い時でも、決してあきらめずに食い下がっていった。その諦めの悪さは、君の強みだ。その一点に関しては間違いなく、君はリンに勝っている」
「……シロウ」
 不安に陰った少女の表情が、ふわりと微笑みにほどける。その柔らかい笑みに、ついドキリとした。
 まだ稚く、世間知らずな子供だと常々思っているのに、時折大人びた表情を見せるようになってきたのは、彼女が成長してきた故だろうか。
「つ、つまりだ。君はもう十分、独り立ち出来る実力を兼ね備えている。だからそれほど不安に駆られる事はない、堂々と胸を張りたまえ。君も間違いなく、オレの自慢の生徒なのだから」
 馬鹿な、こんな子供相手に、何をドキドキしているのか。シロウは慌てて手を離し、視線を逸らして言い募る。
「ともあれ、あまり夜更かしをしては明日に障る。オレは戻るから、君も寝床にいくんだ。最後の授業だからといって、手を抜くつもりはないぞ」
 そしてざっと砂を払って立ち上がり、少女へ手をさしのべた。
「…………」
 少女はまじまじと彼の手を見つめた。そしてそろりと自分の手を乗せ、シロウに引かれるまま立ち上がり、かと思ったら、両手で彼の手を包んできた。
「?」
 何かと眉根を寄せる彼を見上げ、少女は問う。
「ねぇ、シロウ。明日、契約が終わったら……シロウはどうするの?」
「……それはもちろん、次の仕事に行く。この時代、何でも屋は商売に困らんのでな。次は南アフリカの方に向かう事になってる」
 なぜそんな事を聞いてくるのかと視線で問い返すと、少女は真っ直ぐ彼を見つめ、
「それなら、私、シロウと一緒に行きたい」
 いきなり爆弾発言をしたので、シロウは息を飲んで目を剥いてしまった。な、何を言うかと思えば……!
「馬鹿な、自分の言ってる事が分かってるのか!? 君は争いのない、平凡な日常を望んでいるのだろう? この半年で、少なくともそれに近い生活を送れるくらいの技術は身につけたはずだ。
 それをわざわざ渦中に飛び込んでどうする。オレが行く先は戦場ばかりで、安息の地は何処にも無いんだぞ。君が求める平穏など、もっともほど遠いというのに、どうしてそんな事を……」
「だって、私シロウと一緒に居たい。一緒に生きたいんだもの」
 あっさりと。何の躊躇いもなく告げられた言葉は、ほとんどプロポーズに近い。本人が自覚しているのかどうかはともかく。
「なっ……き、君は……っ」
 かぁ、と頬が熱くなり、言葉が喉に詰まる。魚のようにぱくぱくと口を開き閉じするシロウの手を、少女は切実なほど強く握りしめ、
「明日、シロウが居なくなっちゃうと思ったら、凄く怖くなった。だけどもしシロウとずっと居られるなら、何も怖くない。
 ……シロウ。私、シロウが好き。シロウと離れたくないの。――もう二度と」
 ――もう二度と。
 その言葉が、頭の中でリフレインし、不意に胸を締め付けた。
 意味が通らない。彼はこのキャンプで、彼女と知り合った。もう二度と、と言うのであれば、その前に一度別れがあってしかるべきだ。そんなものはない。彼は彼女を知らず、彼女もそれは同じはずだ。
 それなのに、どうして。
 こんなに彼女の気持ちに、同調してしまうのだろう――もう二度と、彼女を離したくない、と。
「…………」
 シロウはぐっと唇を真一文字に結んで、少女から自分の手を取り返した。ざ、と砂を蹴って背を向け、ずんずんと自身のテントへと歩き始める。
「シロウ……」
 すがるような、絶望するような少女の囁き声が耳に届く。
 矢も盾もたまらず振り向きたくなるのを無理にこらえて、シロウは息を吐いた。
 今彼女を見たら、それこそ取り返しのつかない事になる……つまり、こんな夜更けに、かぐわしい香りを放つ、華奢で柔らかな少女をこの腕に抱きしめてしまうのは、まずい。
「……明日」
 どうしようもなくこみ上げてる情動を何とか抑えて、シロウは低く声を放った。
「明日、卒業試験をする。それに合格したら……君の同行を、考えてもいい」
 息を飲む気配。ややあって、
「……うん。分かった。シロウ、私、絶対合格する」
 少女の弾んだ声が耳に入り、シロウは咳払いした。
「勿論オレは手心など加えない。実戦だと思って真剣に取り組む事だ――半年の成果を見せてもらうぞ」
「はい、シロウ教官殿! 必ずご期待に添う結果を出してみせます!」
 しいて厳しい口調で告げるも、返ってくるのは嬉しそうな返事ばかりだ。
 ――これはもう、結果を見るまでもないかもしれないな。
 この少女の宣言はいつだって、最後には必ず実現している。ならばきっと、この地を旅立つ彼の横には、当然のように彼女がついてきている事だろう。
「……楽しみにしているよ。では、本当に休みたまえ。また、明日」
 だからシロウは緩みそうになる口元を隠し、精一杯気取った口調でその場を立ち去った。
 やがて訪れる新しい旅立ちに、我知らず胸を躍らせて。