そうして、少しずつ。
君を忘れる、準備をする。
「じゃあちょっと買ってくるから、待っててね。アーチャー、凛」
そういってアーチャーのマスターはとてて、と購買部へ駆けていく。小動物を思わせる動きを目で追っていると、
「……ねぇ、前からちょっと、聞いてみたかったんだけど」
テーブルの向かいに座った遠坂凛が声をかけてきた。何気なく顔を向けた先で彼女が何か企むように笑っていたので、嫌な予感に襲われる。
「……何だろうか」
ただでさえ彼女と二人きりになるのは苦手だというのに。身構えて答える彼に、トオサカリンはニヤニヤしながら、
「あなたとマスターって、付き合っちゃったりしてるわけ?」
案の定、とんでもない事を聞いてきた。ひく、と顔がひきつる。それを素早く覆い隠して、何を馬鹿な事を、と切り捨てる。
「マスターとサーヴァントは聖杯戦争の間だけ契約を結ぶだけの、単なる主従関係だ。つき合う、つき合わないという考えを当てはめるのはおかしいと思うがね」
「そうかしら?
だって元々、マスターとサーヴァントは似た者同士でコンビ組む事が多いじゃない? 戦いをくぐり抜ける内に、相手へ何かしら感情が生まれるのは当然でしょ」
「ほう。それなら君は、ランサーと何らかの交流があった、という事か」
可能性を指摘してみて、つい顔をしかめてしまう。
この遠坂凛が自分と直接の関わりを持っているわけではないのだが、あの軽薄者がちょっかいを出していたのではと思うと、なかなか不愉快だ。しかも、
「ばっ……な、何言ってるのよ! わ、私がランサーとなんてあるわけないでしょ!? 私たちは、単なる契約関係、そうそれだけだったんだからっ」
トオサカリンが、顔を真っ赤にして椅子まで蹴倒すほど過剰に反応したので、余計に胡乱なまなざしを向けてしまった。
まさか本当に何かあったのでは……いや、だとしても彼に干渉する権利はないのだが。
「……そういうことだ、トオサカリン。君と同じように、マスターと私が契約以上の関係を結ぶ事などありえんよ。
いくら人の姿をしていようが、我々英霊は仮初めの存在にすぎない。そんな相手と『つき合う』など、不毛にも程があるだろう」
それで話は終わりだと、アーチャーは遠坂凛から視線をはずし、頬杖をついた。
これ以上の対話を拒否する姿勢に相手も諦めたらしく、椅子を元に戻しておとなしく腰掛ける。だが、
「……でも、本当にそうなの?」
しばしの沈黙の後、細い声の問いが聞こえた。
顎を預ける手の甲越しにちらりと目を向けると、遠坂凛はじっとこちらを見つめて、
「あなたがあの子を見る目、まるで好きな人を見てるみたいだったわよ。――片時も目を離したくないって言ってるみたいだった」
真剣に、そして触れてもいいのか迷うように、小さな声で指摘してきた。
「…………」
アーチャーは目を細め、黙った。
わずかにせばまった視界に映るのは、自身のマスターの後ろ姿。
彼女は彼の視線に気づかない。アーチャーが気づかれないように、細心の注意を払って、少女を見守っているからだ。
『マスター、オレは君の事が』
『アーチャー』
あの時、気づかれて以来。
『――いつも守ってくれてありがとう』
そういって優しく彼を退ける彼女の笑顔を目に焼き付けて以来。
「……君の思い違いだ、トオサカリン」
胸を貫く痛みに目を閉じ、アーチャーはぶっきらぼうに言った。
「私はただの一兵士だ。戦争のさなかに余分な感情で心を乱すほど、純でもない」
「でも、」
「――これ以上の対話に意味があるとは思えないな。
トオサカリン、情に厚いのは君の長所でもあるが、見逃しがたい短所でもある。他人の事を邪推する暇があるのなら、マスターでもない君がどうやってこの世界から脱出するか、手だてを探してはどうかね」
がたん、と音を立てて腰を上げ、アーチャーはマスターの元へと足を向ける。ちょっと、という遠坂凛の声が聞こえたが、立ち止まらなかった。
それが、何ともみっともない退却なのだと分かってはいたけれど。
いつの頃からだろう。
自身のマスターに対して、親近感以上の感情を抱いてしまったのは。
――なぜ。どうして、こんなところで死ななければならないのか。
始まりは、そんな問いかけの声を聞いたから。
彼が生前、自身にも、他者にも幾度となく投げかけてきたその嘆きに惹かれ、アーチャーは少女と契約を結んだ。
記憶を失い、戦う意義を持たず、迫り来る死、容赦なく奪われる命。戦いのたびに都度狼狽するマスターは、間違いなく最弱で、いつ命を落としてもおかしくはなかった。
アーチャーはそんな彼女の手を取り、時に叱咤し、時に慰め、迷う背中を押して導いた。
魔術師としても人間としても弱々しい少女は、彼の保護欲をどうしようもなく刺激する。故にアーチャーは貧乏くじをひいたと嘯きながら、彼女に手を貸さずにはいられなかったのだ。
――いつもありがとう、アーチャー。
そんな彼に、マスターは感謝の言葉を欠かさなかった。今日も一日生き延びたとマイルームで眠りにつく前、彼女は彼の手を握り、微笑むのだ。
――アーチャーのおかげで私、自分を見失わずに済んでる。
自分をもたない少女にとって、アーチャーは道しるべに等しいのだろう。
未熟な自分を支えてくれてありがとうと、少女は心を込めて囁く。
それに対して、
「未熟を自覚しているのなら、せめて心構えをして戦いに備えたまえ」
といつもの通り小言を述べながら、アーチャーはひそかに、マスターの笑顔に見とれていた。
特に際だった特徴もない、平凡な少女。
迷い、嘆き、打ちひしがれ、しかしそれでも最後は確固たる意志を持って戦いに臨む姿が、時に眩しく感じられた。
(魔術師としての力量はともかく……その魂のあり方は、間違いなく誰よりも美しい)
戦いを重ねるごとに輝きを増していく少女に、アーチャーはいつしか心を奪われていた。
遠坂凛の指摘は正しい。
彼は今、マスターから片時も目を離したくはない。
四六時中彼女を見つめ、守り、もし許されるのなら――そう、それこそ『付き合う』事だってしたいくらいだ。
それは彼のルールを逸脱していた。
遠坂凛に告げた通り、サーヴァントは仮初めの存在にすぎない。
一方でマスターは現在を生きている生身の人間だ。セラフにいるのはアバターではあるが、その背後に生きている人間がいることは間違いない。
幽霊がごときサーヴァントが、現世の人間と契約以上の関係を結ぶなど、不毛きわまりない。
たとえ永遠の愛を誓ったところで、別離はすぐ目の前にあるのだから。
――だが、彼のマスターはその条理からはずれた存在だった。
NPCから生まれたマスター。
彼女には地上の肉体がない。何らかのトラブルで肉体との接続が切れたのか、あるいはもう死亡しているのか……。
その理由がどうであれ、今のマスターはアーチャーと同じ、いずれ消えゆく存在にすぎなかった。
ゆえに彼は思ってしまった。
互いに一時の存在にすぎないのであれば――今この時だけでも、思いを遂げても構わないのではないかと。
『マスター』
彼女の肉体が存在しないと知れた時。彼は黙り込んだ少女を抱きしめ、囁いた。
『マスター、オレは君の事が』
好きだと、伝えたかった。
正体が何であれ、彼は今ここにいる彼女を愛していると、伝えたかった。
だが。
『アーチャー』
マスターはやんわりとアーチャーの手をほどき、
『――いつも守ってくれてありがとう』
一歩、二歩と後ろに下がって、微笑んだ。
まるでそれ以上言葉にするな、というように。
穏やかな拒絶をもって、マスターは彼の告白を封じたのだ。
それから後、表面上はなにも変わらなかった。
マスターは悩み苦しみながらも真っ向から戦い続け、サーヴァントは全力をもってそれを支えた。
いくつもの危難を乗り越え、互いへの確固たる信頼を糧に、破竹の快進撃を成し遂げた。
だが、その一方で。
少女とアーチャーの間には、暗黙の境界線が引かれていた。
――いつもありがとう、アーチャー。
あの日以来、毎夜の儀式で、マスターは彼の手を握らなくなった。
感謝の念は以前と変わらず、むしろ増していたにも関わらず。
「今更礼には及ばないさ、マスター。君を聖杯へ導くのが、サーヴァントたる私の役目なのだから」
用意した答えがそっけなく聞こえないように気をつけながら、アーチャーも微笑む。
うん、最後までよろしくね。と頷く少女は稚く、愛らしかった。抱きしめたい、と衝動的な思いが胸にこみ上げ、だが彼はすぐにそれを封殺した。
(この気持ちが、君の望まぬものであるのなら。オレはそれを忘れる事にしよう)
柔らかい拒絶を受けた日から、彼はそう決めていた。
思いを募らせれば、叶わぬ恋に苦しむだけだ。
この戦いに勝利しようが、敗北しようが、別れはすぐに訪れる。
だからそれまでの猶予期間(モラトリアム)、彼はマスターへの個人的な感情を、少しずつ切り捨てていった。
彼の名を呼ぶ声が好きだ。――名を持たぬ身に与えられたのはクラス名のみ。名前に意味などない。ゆえに彼女の呼びかけにも意味はない。
彼を見上げて笑う顔が好きだ。――彼女は誰に対しても人なつっこい。彼だけ特別なわけではない。
そんな風に恋情を、客観的な評価へと切り替えていけば、苦しみから解き放たれると信じて。
アーチャーはマスターから寄せられる信頼に、ただのサーヴァントとして報い続けた。
だから、今。
マスターが彼と遠坂凛を置いて、聖杯へ至る道を一人で進んでいくのを、冷静な気持ちで見送る事が出来る。
「……ねぇ。これでいいの?」
光の階段を上っていく少女を見上げて、遠坂凛が問いかけてくる。もちろん、と彼は頷いた。
「聖杯戦争の勝者として、彼女が得るべき当然の報酬をもらいにいくのだ。何か問題があるかね?」
「そうじゃなくて……あなたはそれでいいのかって聞いてるのよ」
「良いに決まっている」
マスターの姿が遠くなる。聖杯の中へ至れば確実に消滅してしまうというのに、その歩みに遅滞はない。
「私はサーヴァントとしてマスターに勝利を捧げ続けた。その結果、彼女は聖杯を勝ち取った。サーヴァントとしての面目躍如といったところか」
「そんな表面的な事じゃなくて、わたしはただあなたが、」
「トオサカリン」
なおも言い募ろうとするのを、氷の声で遮る。びくと背筋を伸ばす彼女へ目もくれず、アーチャーは静かに言った。
「お人好しな面も、君の長所であり短所だ。私にお節介を焼く必要はない。――不用意に踏み込まないでくれ」
赤い魔術師は息を飲んだ。そして小さな声でごめんと呟いた後、身を翻して逃げるように出口へと足を向ける。水を蹴散らし走るその足音を聞きながら、アーチャーはマスターを見上げた。
――最後までありがとう、アーチャー。
彼に決然と別れを告げる、華奢な背中を見送っても、心はもう揺れ動かない。
「こちらこそありがとう。君は最良のマスターだった」
謝辞に答えて、彼は微笑み、彼女を送った。
『オレは君の事が好きだ』
そんな気持ちはもう忘れてしまったから、永の別れと知りながら、笑顔で手放す事が出来た。
(そう、忘れてしまえ。じきにオレも消えてしまうのだから)
遙か高みにある少女を見上げ、アーチャーは目を細めた。
もはや聖杯は目前だ。あと一歩二歩踏み出せば、彼女は聖杯の中へ至れる。
その姿が消えてしまうのを惜しんだのは、サーヴァントとしてか。
あるいは、一人の男としてか。
「…………」
もはや声も届かぬほどの隔たりにあって、アーチャーはかすかに唇を動かした。
紡いだのは、一度も呼べなかった少女の名前。
最後の最後、捨てきれずに残ってしまった愛しさを込めて囁いてしまった時。
光に包まれた少女が一瞬、こちらを振り返った気がしたのは、願望のなせる見間違いだったのか。単なる偶然だったのか。
気づいた時、彼はやみくもに走り出していた。
忘れてしまおうと少しずつ切り捨ててきた思いが胸中に溢れ、爆発しそうなほど鼓動が高鳴り、誰かに背中を押されるようにして走った。
――たとえ君がオレを思っていなくても。
――オレは君を愛している。
――それを忘れる事など、出来はしないのに。
「……マスター!」
喉も裂けよとばかりに叫び、彼は聖杯の光の中へ飛び込んだ。
たとえ拒まれても構わない、今度こそこの腕に彼女を抱きしめよう、最期の時を共に在ろうと魂に決意を刻みつけて。
そうして、少しずつ。
あなたと別れる、準備をする。
「告白されそうになったのに、断ったあ!?」
人気のない階段の下。話があると呼び出した凛が、素っ頓狂な声を上げた。あらためて他の人に言われると恥ずかしい気がして、熱くなった自分の頬を手で覆う。
「でも、私の気のせいかもしれないけど」
自意識過剰なだけかもしれない、とその時の状況を話したら、凛はあきれ顔になった。
「あなたね、その状況で他の事言い出すわけないじゃない。謙遜も鈍感も、すぎれば嫌みよ?」
「そういうつもりじゃないけど……でもやっぱり、凛もそう思うよね」
自分の正体を知って、少なからずショックを受けた私を、アーチャーは抱きしめた。
普段なら肩に手を置くくらいで抱き寄せられた事なんてなかったから、驚いて涙が引っ込んで、しかもアーチャーがせっぱ詰まった様子で、
『マスター、オレは君の事が』
好きだ、と言いかけたように思えたから、反射的に押しのけてしまった。
「……でも、何で断ったの?」
階段下のデッドスペースに積んである机に寄りかかって、凛が尋ねてきた。綺麗な線を描く眉根を寄せて、
「あなた、アーチャーの事好きなんじゃなかったの? 今まで色々のろけられてた気がするんだけど」
「…………」
のろけてたつもりはないけど、私がアーチャーに好意を持っているのは事実だ。椅子に腰掛けた私は視線を落とした。
『いつも守ってくれてありがとう』
そう言ってひきつった笑いを浮かべた私を、アーチャーはどんな思いで見ていたのだろう。あの時の驚いたような、失望したような表情が忘れられない。
抱きしめられた腕の力強さも、胸の温もりも、早い鼓動も、全部覚えてる。
だけど。私は。
「……ダメなの」
膝の上でぎゅっと手を握り、私は囁いた。なにが、と問いかける凛を見上げる事も出来ないまま、小さく呟く。
「もしアーチャーに好きだと言ってもらったら――私、アーチャーから離れられなくなる」
「――? 今だって、いつも一緒にいるじゃない」
よく分からない、というように凛が腰に手を当てる。そうじゃない、と私は首を振った。
「私、きっともっとアーチャーと一緒にいたくなって、怪我してほしくないから戦うこともやめさせて、ここから逃げ出してしまう」
右も左も分からず、命がけの戦いに放り込まれた自分を、アーチャーはずっと助けてくれた。
聖杯を手に入れる見込みもない、見習い以前の魔術師に、何の見返りもなく手を貸してくれる彼。
それがありがたくて、毎日夜を迎える時に心からの感謝を伝えて――やがて、彼の手に触れるたびに動悸が高なるようになった。
小言を告げる彼が、皮肉を口にしながらほのかに笑う彼が、背を向けて自分を敵から守ってくれる彼が……好きだと、気づいてしまった。
「あなたはそんな事しないと思うけど。やりかけた事を途中で投げ出すようなタイプじゃないでしょ。それに」
理解しがたいと言いたげな顔で、凛は続ける。
「それにここで投げ出したら、あなたに負けた人達へ顔向け出来ないんじゃない? 踏み越えた戦いの数だけ、自分は勝たなきゃ申し訳ないって言ってたわよね」
その通りだ。
未熟で、戦う意義のない自分が勝利してきた影には、敗北した人々がいる。それぞれが譲れない思いをもってこの戦いに臨んでいた。それを打ち砕いてしまった以上、私には彼らの思いを背負って勝たなければならない。
アーチャーはそんなものをいちいち抱える必要はないと言っていたけれど、自分を持たない私にとって、それはこの戦いを続けるための理由の一つでもあった。だから、
「だから、ダメなの。もしアーチャーに好きって言われたら私、そういうものを全部投げ捨ててしまう」
他のものは、どうでもいい。ただ彼さえあればいい。たとえ一時でも、二人きりでありたいと願ってしまう。
「他の人達の思いを受け止めて、最後まで戦い続けたい。私は最後まで、アーチャーのマスターとして相応しい人間でありたい」
願うのは、名を持たず、孤独に戦い続けてきたあの英霊と並び立つ存在になること。
依存するのではなく、互いを支え合って戦える同士でありたい。
だから、そのためには、個人的な思いなど封じ込めなければならない。そうしなければ、全てが台無しになってしまうから。
「――ハァ。呆れた。つまんないプライドね」
全てを告白した途端、凛がばっさり切り捨ててくれた。うぐ、と声を詰まらせる私をやれやれ、と見下ろし、
「ま、あなたが決めた事ならどうこう言うつもりはないわ。頑固だし、どうせ最後までその意地、貫くつもりなんでしょ?」
「……うん」
「なら、やり遂げればいいわ。それが本当に正しい事だと思うのならね。アーチャーもいつかは分かってくれるんじゃない」
「うん。……そうだね。ありがとう、凛。話を聞いてくれて」
誰にも話せず悶々としていたので、聞いて貰えて助かった。感謝の気持ちを口にすると、凛は呆れ顔になって笑い、
「全く、あなたもアーチャーも、ほんっと頑固者よね。そっくりだわ」
そう言ったので、こんな私でもアーチャーと似てるところがあるのかと思ったら、少し嬉しかった。
そして、今。私は聖杯の前に立っている。
全ての戦いを終え、私は聖杯戦争の勝者になった。目の前にある奇妙な構造物の中には、おびただしい魔力を内包した聖杯が鎮座している。
どうすれば願いを叶えられるのかは分かっていた。このデータの海に入り込み、望みをムーンセル・オートマトンにインプットすればいい。
その結果、私はきっと解体されてしまうだろうけど、悔いはなかった。
成すべき事はすべて成した。願いも決まっている。
いくつかあるそれをどれだけ入力できるかは分からないけれど、聖杯は間違いなく叶えてくれるだろう。
だから悔いはない。ない、はずだ。そう言い聞かせて、止まっていた足を踏み出す。
けれど、
『 』
懐かしい声が、私の名を呼んだような気がして、一瞬振り返ってしまう。
階段の遙か下、もう豆粒くらいにしか見えないほど遠く、それでも鮮烈に映る、紅いサーヴァントの姿。
(アーチャー)
そう、悔いならある。最後の最後まで自分の気持ちに嘘をついて、彼を遠ざけてしまった後悔が。
(だけど、もう遅い)
手を光の幕へ沈めた途端、あらがいがたい引力で中へと引きずり込まれる。
アーチャー、と届かない声で彼を呼んで、私は聖杯へと身を沈めた。
もう二度と彼に会えないなんて嫌だと泣き叫びたいのに、それも出来ないままに。
別れは、いつも彼を孤独にした。
生きている時、彼は自ら数多くの命を奪って別れを告げ、いつも戦場に一人残された。
それは死後、サーヴァントとなってからも同じだった。いや、よりひどくなったといってもいい。
彼が呼び出される場所は常に死が満ちあふれ、辛うじて息のある者達も、彼の手によって死んでいった。
生きていた頃にはまだ、殺戮の後に彼を労い、慰め、明日への希望や夢を語らう仲間がいたが、世界の奴隷となった今、彼に寄り添うのは孤独しかなかった。
いつしか彼は心を抑え、周囲の全てから一定の距離を取るようになっていた。
痛烈な皮肉、相手を見下げた言動。それらはもとよりの性質でもあったが、一方で自身を守るための防具でもあった。
心を移してはいけない。それは数限りなく存在する別れを、よりいっそう悲しくさせるものだから。
彼は生涯、そして死後経験してきた数多の戦の中でその教訓を学び、常に自分を律してきたつもりだった。
だが、今。
「アーチャー……こんな私の相棒でいてくれて、ありがとう」
ゼロとイチに満たされた青い青い海の中、少しずつ分解されながら微笑む少女を前に、アーチャーは冷静ではいられなかった。
「あぁ……あぁ、そうだ。君は、私の、」
相棒だ。そう告げようとして、言葉が詰まる。そうじゃない。そんな言葉で定義出来るようなものではない――彼女の、存在は。
「……泣か……いで……チャー……」
少しずつ少しずつその身がほどけ、彼女の声も不明瞭になっていく。アーチャーもまた自身が聖杯によって消え去りつつあるのを自覚していた。
けれど、そんな事はどうでもいい。
「っ……マスター……!!」
アーチャーは頼りない感触の体を抱き寄せた。少しでも消滅を遅らせられないかと、腕に力を込めて抱擁しながら、押し寄せてくる悲しみと痛みに涙する。
こうなると知っていて、それでも彼女の意志を尊重したくて、止めなかった。
だが、間違っていた。
こんなに、こんなに苦しい思いをするくらいなら、いっそ彼女を連れて逃げれば良かった。その先に何の未来もないと知っていても。
「マスター、オレは、君を」
「……、……」
少女の声はもうほとんど聞こえない。
ただ彼女は、変わらず微笑んでいた。まるで彼の気持ちなど全て分かっているというように、唇にそっと人差し指を当てて――
『あなたに会えてよかった、アーチャー』
そして。
アーチャーのマスターにして最愛の少女は、そのぬくもりを最後に、光となって四散した。
別れはいつも、孤独をつれてくる。
己の理想に殉じると決めた時から、自分は孤独に死んでいくのだろうと覚悟していた。
だから心も孤独に慣れてしまおうと思った。
数多の別れを通して彼は心を磨耗させ、感情を失っていった。
機械のように正確に事の正否をはかり、躊躇なく人々を死に追いやる彼を、皆が恐れるのは当然だった。
恋人が去り、親友が彼を断頭台へ送ったその時も、彼は孤独である事を厭わなかった。
己がなした事による結果がこれなら仕方ない。
所詮この身は孤独に生き、孤独に果てる運命なのだと覚悟していた。
だから悲しくはなかった。
苦しくもなかった。
ただあるがままの運命を受け止めた。
けれど今。
「……マスター……」
雲散霧消した少女を抱きしめていた腕を宙にとどめたまま、アーチャーは掠れた声で囁いた。
別れには慣れているつもりだった。こうして一人残されるのは己の業なのだろうと、なかば仕方なく受け入れていた。
けれど今、どうしてこれほど悲しく、苦しく――それでいて、たとえようもなく幸福を感じるのか。
『あなたに会えてよかった、アーチャー』
マスターが最期に残した言葉。
声にならない声、か細い思念が伝えたそれはまぎれもなく、彼への思いが詰まっていた。心底からの感謝と愛情に満ちあふれた、優しくて暖かい思いが。
「……あぁ、マスター」
もはや手足の感覚がない。聖杯はアーチャーの体をも容赦なく分解していく。マスターと同じように、少しずつ希薄になっていく己を自覚しながら、アーチャーは目を閉じて微笑んだ。
瞼の裏に浮かぶのは、この聖杯戦争を共に戦い抜いた、一人の少女の面影。
――オレも、君に――
別れが辛い。辛いから必要以上に感情移入しないように気をつけてきた。けれどそれこそが間違いだ。
たとえ悲しく苦しい別離であっても。
心にこんな暖かい思いが残されるのであれば、この出会いに、ふれ合いに、意味はあったのだ。
――オレも、君に出会えて良かった――
一人青い海に残されながら、アーチャーは聖杯の中にとけ込んだ少女へ告げる。
やがてその思いも跡形なく消え失せたが……サーヴァントもまた、主の少女と同じく、最期まで微笑みながら消滅していったのだった。