あかいあくま と あおいいぬ

 明かりを落とした空間に、甘ったるい匂いが漂う。
 元は味も素っ気もない教室だったその場所は、面影も見あたらないほどに改装されていた。毛足の長い絨毯が足をやんわりと受け止め、年月を経た重厚な家具が並ぶその最奥に、天蓋つきのベッドが鎮座している。香炉の置かれた棚の前を通り過ぎ、ランサーはゆっくりとベッドに近づいた。
「さて……準備はいいかい、マスター」
 声を抑えて問いかけると、奥から息を飲む音が聞こえた。ややあって、
「い、いいわよ。そんなの全然いいわよっ!」
 最初怯んだのをごまかすように、ヒステリックな返答が飛んできた。言葉と全く裏腹なマスターの心情を思い、ランサーは苦笑せざるを得なかった。
「おいおい、ちょっと気を逸りすぎじゃねぇか? そんなんじゃ途中で集中力切れちまうぜ」
「っ……わ、分かってるわよ……いいから、早く来なさい」
「へいへい、仰せのままに」
 軽く答えて、ランサーはベッドの上に乗った。二人分の体重を受けとめて、ベッドがぎしり、ときしむ。
 部屋の明かりを落としたのは、せめて視界を塞ごうとした為なのだろうが、マスターはどうも平常心を失っているようだ。
 暗闇であっても、サーヴァントの視力には全く支障がない。
 故にランサーは近づくより以前から、彼女の姿をつぶさに視ることが出来ていた――すなわち、下着だけになった遠坂凛の格好を。
(魔術師なら、覚悟は出来てんだろうが……)
 凛の視界にこちらの姿が捉えられる程近づいたランサーは、細い肩が小さくふるえているのを見て取り、眉を上げた。
「なぁ、マスター」
 あえて、『主人』の言葉に力をいれ、問いかける。
「あんた本当にいいのか? こんなつまんねぇ儀式で、純潔を失っちまっても」
 その言葉に、凛はきっと彼を睨みつけた。馬鹿、ときつく言い放つ。
「そんなの関係ないわ。今のあんたに手っ取り早く魔力を供給するには、これが一番効率がいいんだから。それとも何、あんた、魔力不足で消えちゃってもいいっていうの?」
「まさか」
 分かり切った答えに、首を振る。
「まだ、アーチャーとの決着もつけちゃいねぇからな。負けて消えるならまだしも、とんだ横やりで途中退場させられたとあっちゃあ、死んでも死にきれねぇや」
 校舎内でマスターを次々と殺していたサーヴァントの見えない攻撃を受けながら、何とか凛を守りきった。それは良かったが、最後の一撃でマスターとつながる経路を破壊されてしまったのはまずかった。 ランサーは単独行動スキルを持たない。マスターとの繋がりを無くしてしまえば、もって数時間しか現界していられない。
 故に凛は大急ぎでランサーと共にマイルームへ避難し、魔力供給の儀式を決行したのである。
(ったく、とんだドジを踏んだもんだぜ)
 軽口はいつも通りだが、今もなお、ランサーの体からは、砂がこぼれ落ちるように魔力が消え失せ、霧散していく。激しく鼓動する心臓のせいで荒れる呼吸を強いて抑え、ランサーは口の端をあげた。
「けどな、マスター。てめぇのドジのつけを、女に払わせるってのは、どうにも性に合わなくてな」
 そういって凛の両脇に手をつき、顔をのぞき込んだ。状況を考えてみれば、おいしいことこの上ないのだが、ランサーは凛の額に自分の額をこつんと合わせ、低く囁く。
「あんたが嫌がる事を無理強いするくらいなら、俺は死んだ方がましだ。――女を泣かせるなんて、最低の男がする事だろ?」
「……馬鹿じゃないの」
 対して、ぐ、と唾を飲み込み、凛が呟いた。じろっとこちらを睨みつけ、
「あんたが消えちゃったら、その時、わたしが泣くかもしれないって、考えないわけ?」
「!」
「大体、わたしは、別に……い、嫌だなんて、言ってないじゃない」
 そういって、ぷいとそっぽを向く。懸命に恥ずかしさを堪えるその顔は、白い肌が紅潮し、目が潤み、小さな唇が艶めている。緊張に息を震わせるその様子は、初めての儀式を恐れてはいるが……なるほど、疎んじているわけではなさそうだ。
「――なら、問題ねぇな」
「きゃっ!?」
 例え強がりであろうと、この少女は決して嘘をつかない。
 それが分かっていたから、ランサーはニィ、と笑い、凛を引き倒した。赤い掛布の上に白い体を横たえた少女の上にまたがり、
「安心しな、凛。あんたが俺に、魔力と大事なもんを寄越す見返りに」
 ぐっとかがんで、赤く染まった小さな耳朶を噛み、周囲に漂う芳香にも勝るほど甘ったるく囁く。

 ――俺はあんたに、とびっきり上等な夢を見させてやるからよ。<

「凛。ランサーと喧嘩でもしたの?」
 次の日。食堂で行き合ったアーチャーのマスターが、やたらとランサーから距離をとろうとする凛の様子に首を傾げた。
「な……何もないわよ、何も。あなたの気のせいじゃない?」
 カレーをぱくつきながら凛は答えるが、視線が不自然なほど別方向に向いている。そう? と不思議そうに目を瞬くマスター。
 それを端から眺めていたランサーは、にやっと笑った次の瞬間、
「あぁ、喧嘩なんてとんでもねぇよ、嬢ちゃん。俺たちゃこの上なく上手くいってるさ。な? マスター」
 凛が意識して開いた距離を瞬時に縮め、馴れ馴れしく肩に手をおいてみせる。途端、ボンッ! と音がしそうな勢いで、凛の顔がみるみるうちに赤く染まり、
「このっ……触るな、エロサーヴァントがっ!!」
 その手から黒い呪いの弾丸が幾重にも現れ、轟音を立ててランサーへと殺到する。
「おおっと! つっこみにしちゃ度が過ぎてるぜ、マスター!」 
 雨霰となって降り注ぐガンドを現出した槍で次々と弾き落とし、ランサーが嘯く。だがマスターは聞く耳持たず、うるさい! と叫んでさらに弾幕を張った。
「り、凛、ちょっと、ほんとにやりすぎだってば!」
「マスター、ここは危険だ! 一時撤退するぞ!」
 次々と爆発するガンドの巻き添えを嫌い、アーチャーがマスターを抱えて食堂から姿を消し、NPCと他のマスターも悲鳴を上げて逃げまどう。
(さすがに朝までってのは、ちとやりすぎたかね)
 その攻撃を、目にも留まらぬ槍捌きでしのぎながら、ランサーはくくっと笑った。
 儀式が早々に成功したにも関わらずマスターを解放せず、久しぶりの閨をたっぷり堪能したランサーだったが、凛にしてみれば、それこそ飼い犬に手を噛まれたような仕打ちだったのかもしれない。
「はぁっ、せいっ!!」
「しまっ……!」
 飛来するガンドをまっぷたつにし、ランサーは床を蹴った。青い影はマスターの間合いへ瞬く間に踏み込み、
「凛。お前は本当にイイ女だ。昨日のことで、それがよーく、分かったぜ?」
 息がかかるほど間近に顔を寄せ、凛にしか聞こえないほど小さな声で、甘く囁く。
「っ~~~!!???」
 途端、凛は耳まで赤くなって絶句した。な、何いって、とよろよろ後ずさるのをがしっと捕まえ、
「ひゃあああっ!?」
 肩に担ぎ上げる。
「ちょっと、馬鹿、おろしなさいよ!!」
「まぁ落ち着けって。この有様じゃ、早いとこ退散しねぇと、あの神父がペナルティだの何だの言い出すだろ」
 そういって見回した食堂は、もはや見る影もないほどに破壊され、あちこちでぶすぶすと煙まで上がっている。
「全く、うちのマスターは血気盛んで困っちまうな」
「だっ……誰のせいだと思ってるのよ、ばかぁっ!!」
「まぁまぁ、話は後でじっくり聞いてやるよ」
 じたばた暴れる凛の背中をぽんと叩いて、ランサーは笑う。全くもって本当に、このマスターは、
「とりあえずここは逃げるにしかずって奴だ。いいよな? マスター」
「もう、良いから、早く行きなさいっ!!」
 最高に強くて、最高に可愛い、イイ女だ!