電気を消した教室。カーテンのない窓から注ぐ電子の青に染まった教室の中、私はふと目を覚ました。
「ん……」
黒板の上にかかった時計を見上げれば、まだ眠りについて二時間しか経っていない。
(……変な時間に起きちゃった)
毛布代わりに使っている赤い布の中でごろっと寝返りを打つ。
明日は、最後の決戦日。これで本当に聖杯戦争が終わるという大事な日なのだ、寝不足はまずい。
……と思うのに、一度目が覚めてしまうと、なかなか眠れない。何度か寝返りをして目をぎゅーっと閉じてみたけど、どうしても寝付けなくて、私はむくりと起きあがった。
(駄目だ、寝れないや)
やっぱり、明日の事を思うと、気が高ぶってしまう。
ため息をついて、ふと相方はどうしているかと視線を向けてみる。
机と椅子を適当に積み上げた中で、アーチャーはぐっすり寝入っているようだった。少し離れたここにまで、安らかな寝息が聞こえる。
(さすが、アーチャー。落ち着いてるなぁ)
私は音を立てないように、そばまで近づいてみた。顔を覗き込んでも、アーチャーは目を覚まさない。
(休息を取るのも戦士の務め、だもんね)
今起きたら、また小言を言われそうだと思いながら、私はその脇にぺたんと腰を下ろし、しばらくぼうっとアーチャーを眺めた。
こんなにじっくり顔を見るのは、よく考えたら初めてだ。まじまじ見つめてみて、今頃になってアーチャーはかっこいいなぁ、と思う。
すっと通った鼻筋、意志の強そうな唇。起きてるときは射るように鋭い瞳を閉じていると、まるで綺麗な彫像みたいだ。眉間にちょっとしわが寄ってて、気むずかしくも見えるけど。
規則正しい寝息。呼吸のたび、かすかに上下する肩。どんな夢を見てるのか、時折かすかに口が開いて、不明瞭な囁き声が漏れる。
(……アーチャー)
眺めていたら、何だか胸がドキドキしてきた。
よく考えたら私、こんな人と一ヶ月以上も、ずっと一緒に居たんだ。
今までは戦いや自分の事に精一杯で、他に気を回す余裕なんて無かったけど。
同じ部屋で寝起きして、いつも一緒に行動して……そういえば自分では覚えてないけど、二回戦で私が毒の矢に射られた時、アーチャーにお姫様だっこされてたらしい。
(他にも、どさくさに紛れて結構抱きついたりしてたような……)
普段だったら絶対出来なさそうな事をしでかしてきたのをあれこれ思いだし、今更、顔が熱くなる。
(アーチャーからしてみれば、別にどうって事ないんだろうけど)
マスターを守る為に、剣となり盾となる。
あくまでもサーヴァントとして矢面に立つアーチャーは、いつもどこかで線を引く。自分をしがない弓兵と嘯き、道具のように扱えといわんばかりに感情を排した物言いをする。
それも最近は大分揺らいできて、とうとうムーンセルよりマスターを優先してしまっている、なんて爆弾発言までするようになってしまったけれど。
(……でも、きっと。アーチャーにとって私は、あくまでマスターでしかないんだろうな)
じっと、アーチャーを見つめる。
たぶん、私には想像も出来ないほど何度も、命の取捨選択を常に迫られる修羅場を乗り越えて人々を救い続け、しまいには親友に裏切られて、それで死んでしまってもなお、これほどまでに強く在り続ける『正義の味方』。
未熟なマスターのせいで力を十分に発揮できずにいた頃から今までずっと、私の前に立って守り続けてきてくれた、この人を――好きだと自覚してしまったのは、先の『優先順位』発言をされた時だった。
(あんな事言われたら、意識しないでいろなんて、無理だ)
腰を上げ、もう一度、アーチャーの顔をのぞき込む。
相手の呼吸はさっきと変わらず、表情も同じ。
だけど、見ているこちらは違う。心臓が、冗談のようにばくばく跳ねている。
(アーチャー)
声に出さずに呼びかけて、そろっと手を近づける。
さすがに、触れたら起きちゃうだろう。そしてきっと『何をしている、マスター。ふざけていないで、さっさと寝たらどうだ』と、不機嫌顔で叱りつけてくるに違いない。
(分かってる。でも、今だけ)
明日が来てしまえば、もう戦いはすぐそこだ。その戦いが終われば、勝つにしろ負けるにしろ、この左手に刻まれた契約の証は消え去ってしまう。
アーチャーと自分をつなぐ、最後の夜。
そんな時くらい、少しだけでも、好きな人に触れてみたいと、そんなわがままを言っても許されないだろうか。いや、許して欲しい。
(心が欲しいなんて、いわないから)
胸が破裂しそうなほどドキドキしながら、指先をアーチャーの頬に触れさせようとした時。
ぱしっ。
「えっ!?」
「マスター、何……ぐっ!」
次の瞬間起こった事を理解するのに、数秒かかった。アーチャーに手を捕まれて勢いよく引っ張られたせいで、上体のバランスを崩した。ぐらっと前のめりになったあげく、どしっと結構な勢いをつけて胸に飛び込んでしまう。
(わ……わ、わ!! 何何何これ!)
結果、自分からアーチャーに抱きつくような形になってしまい、私はパニックに陥ってしまった。
ちょ、ちょっと待った、確かにアーチャーに触ってみたいと思ったけど、ここまでは望んでない!
「……これは一体、何の真似だね。マスター」
「え、あ、えぇえっと……」
真っ赤になって硬直する私を、軽くせき込んでアーチャーが見下ろす。
叱責しようとしてるのか、こちらを見る目は間違いなく怒っていて、だけど、むすっとした顔が近い、本当に目の前だ。近すぎて、ドキドキがさらに激しくなってきて、訳が分からなくなる。
「いや、あの、そのですね……」
どうしよう、どう言い訳すればいいの。パニックでとりあえず離れなきゃ、と思って、
(あ……れ?)
ふと気づいた。
心臓はさっきから爆発寸前、耳の奥で鳴ってるみたいに激しく動悸してる。その音が――なんだか、二重に聞こえた。
(え……もしかして、これ)
ドッドッドッドッ、と重たく早いリズム。私と同じくらい激しいそれは、手をついたアーチャーの胸から伝わってきていた。
(アーチャーも、ドキドキしてる?)
「……アーチャー?」
「……っ」
そう思って見つめ返すと、アーチャーはまるで避けるように顔をそむけた。
青の光の中、褐色の肌でわかりにくいけど―頬が赤い、気がする。
「……明日は最後の戦いになる。遊んでいないで、十分に休息を取らねば駄目だろう、マスター。さぁ、さっさと寝たまえ」
私の両腕をつかみなおし、ぐいと押しのけるアーチャー。
だけどその手は、服越しでも分かるほど熱く、鼓動の音も伝わってきて。
――その手が、離れてしまうのが嫌だったから。
アーチャーが開いた距離を、私は自分からもう一度縮めた。
何を、と目を見開くアーチャーの、ちょっと子供っぽくも見えるその顔に触れて、両手で包み込んで、息がかかるほど間近にのぞき込んで……そして、吸い込まれるように、キスをした。
「!」
触れあった瞬間、アーチャーがびくん、と大きく体を揺らす。
少しかさついた唇がかすかに動いた後、ぎゅっと真一文字に結ばれた。
(アーチャー、怒ってる?)
一切を拒むその動きに怖じ気づき、私は目を開けて、慌てて身を引いた。
「ご……ごめん、アーチャー、私」
こんな大事な時に、何をふざけた事をしているのか。未熟なマスターならマスターなりに、浮ついていないで、しっかり明日に備えろ。
例えばこんな風に厳しい口調で叱責されて、今のは無かった事にされてしまうだろうと、そう思った時。
「っ、マスター」
不意に刺すような鋭さでアーチャーが囁き、いきなり引き寄せられた。
「わっ……い、いたっ……!」
固くて広い胸にもう一度飛び込んでしまった私を、アーチャーが力任せに抱きしめる。
いつもの気遣いなんて一切ない、指が食い込むほどの強さでぎゅうぎゅう締め付けられ、悲鳴じみた声が出てしまった。
「アーチャー、ちょっと、苦しい……!」
「! 済まないっ」
背中をタップして訴えかけたら、息を飲んでアーチャーが力を緩める。それでほっとしたのもつかの間、
「……駄目だ。もう、我慢できない」
すぐそばで押し殺した声が響き、次の瞬間、口をふさがれた。
「っ!?」
突然の不意打ちで、一瞬何が起きたのか分からなかった。
さっきの仕返し!? なんて考えがよぎったけど、キスにキスで返されても、罰にならない。
「なっ……ん、ぅっ……!!」
しかも、唇をこじ開けられ、アーチャーの舌が口の中に入ってくる。なま暖かくてぬめる感触にびっくりした私はとっさに身を引こうととしたけど、アーチャーは 私をがっちり抱きしめて、頭まで固定してるので、逃げようがない。
そうして狂おしいくらい激しく貪られ、唇を重ねるごとに熱が高まり、頭がぼうっとしてくる。
「あー、ちゃー……っ」
ぼんやりと開いた目に映るのは、熱を帯びた瞳で私を見下ろすアーチャー。
いつの間にか床に横たえられた私の上に乗ったアーチャーは、いつになく息を乱し、密着した全身が、熱く燃えたぎっているよう。
「マスター……最後の最後で、君は最悪の間違いを犯したぞ……」
アーチャーは熱い吐息を漏らしながら、私の首筋に顔を埋めてささやく。
「な……何、を……」
肌を滑る吐息にぞくぞく震えながら問いかけると、
「君が最後の火をつけた。もうオレには止められない。止める気もない」
アーチャーは私の制服のボタンを一つずつはずしながら、
「マスターだの、サーヴァントだの、ややこしい事は全部抜きだ。君が嫌だと言っても、もう無理だ。だってオレは」
燃えるような目で見据えて、そして、
「オレは君が好きなんだ、」
――切なくなるほど優しく、私の名前を呼んだ。
その後のことは……何というか、うん……何とも、表現しようがない。
もちろん私は初めてのことで、正直何がどうなったのか、自分でもよくわからなかったのだ。
ともかく色々あって落ちついた後、風邪でも引いたみたいにぼーっとする私を、アーチャーが足の間に挟む格好で、後ろから抱きしめてくれている。
そうやって、赤い布を一緒にかぶって寄り添っていると、何だか猛烈に恥ずかしいような、それでいてほっとするような、どうにも落ち着かない気持ちになってしまう。
で、居心地が悪いのはアーチャーも同じなのか、
「……何も言い訳ができん……」
私の後ろで、どんより呟いた。
「……言い訳って、何を?」
顔をあげればアーチャーの表情が見られるけど、さすがに今は恥ずかしい。背中だけアーチャーの胸に預けてうつむいたまま、問いかけてみると、
「私は君のサーヴァントで、しがない弓兵にすぎない。マスターにしてみれば、戦いの道具でしかないし、そうあるべきだ」
深々、ため息をもらす。
「それなのに、オレはそんなもの放り投げて、こんな事をしてしまった。これが儀式だなんだと言い訳できるものなら、まだ良かったんだが……」
「アーチャー……その、後悔してるの?」
あまりの落ち込みように、ずきんと胸が痛む。私は嬉しかったのに。アーチャーに好きだといってもらえて、初めてを貰ってくれたのが、すごく嬉しかったのに。
「……」
アーチャーは沈黙した後、もう一度息を吐き出した。後ろから回した手に少し力を込めて、
「悔やんではいない。むしろ幸福すぎて、始末に負えないと思っている。こんなに幸せを感じるのは、英霊になって以来、初めてのような気がするよ」
そんなことをぼそっと呟いたので、
「……そ、そう……それは、何て言うか……えーっと、よ、良かったね」
私は顔を赤くして、もごもご言うしかなかった。
な、なんてことを言うのこの人は、どうしよう、またドキドキしてきた。動悸が激しすぎて、アーチャーに伝わってしまうんじゃなかろうか。
「……マスター」
がちん、と硬直してしまった私の耳元に口を近づけて、アーチャーは優しくささやく。
「こんなことをしておいて、私が言うのもなんだが……本当にもう寝た方がいい。徹夜しては、明日の戦いに響く」
「う、うん、そ、そうだね。……あの、だったら、離してくれないかな、アーチャー」
何しろお互い、その、何も着てない状態で寄り添ってるわけで、これじゃ眠れるわけがないっていうか。
しどろもどろに申し出ると、アーチャーはむ、と腕をほどいてくれた。私はさっと離れて、顔を見ずにあたふた制服を着て、
「じゃ、じゃあアーチャー、おやす……みぃっ!?」
他の布を引っ張ってきて、そそくさとくるまろうとしたら、同じく服を着たアーチャーにいきなり抱きかかえられた。
「な、ちょ、アーチャー!?」
そのままずんずん部屋を横切り、アーチャーはいつもの定位置に腰を下ろした。ただし普段と違うのは――私を膝の上に置いた事。
「えっと、あの、なんですかこれは、アーチャーさん」
さっきと変わらない密着度に、熱が上がりそうになる。つい敬語で問いかけると、アーチャーは、今まで見たことがないくらい優しい笑顔で、
「床で寝るより、この方がお互い落ち着くだろう。落としはしないから、安心して眠るがいい、マスター」
がっちり腕を回して私を閉じこめてしまう。
(お、落ち着くか、こんな状態!)
ついさっきまであんなことになってたって言うのもまだ信じられないのに、いきなりこんな甘やかされたら、どうすればいいのか分からないんですけど!
「お休み、マスター。よい夢を」
いいたい事は山のようにあるのに、言葉が出てこない私にアーチャーは爽やかな言葉を残して目を閉じてしまう。
逃げようにも、がっちり捕まれていて身動きもできず、散々迷った後、
「……はぁ……もう、いいや……」
結局諦めて、私はアーチャーの胸に寄りかかった。
恥ずかしい事この上ないけど、でも私だって、この状態が嫌な訳じゃない。
暗闇の中、ふれあった体から聞こえてくるのは、とくん、とくんと規則正しい心音。アーチャーと私、二つのリズムを聴いていると、ざわついた心が少しずつ落ち着いてくるようだ。
(なんかもう、わけわかんないけど)
未だに頭の整理がつかないまま、私はアーチャーの温もりを心地よく感じながら、小さく呟く。
「……私も幸せだよ、アーチャー」
それに対するアーチャーの答えは無かったけど、私を支える腕に力がこもったから、きっと聞こえていたはずだ。
(これでもう、何の悔いもない)
私とアーチャーをつなぐ、最後の夜。
心にわだかまっていた気持ちが静かに昇華されていくのを感じながら、私はゆっくりと眠りに落ちていく。
それは夢も見ない、暖かな優しい眠りだった。