無自覚恋愛

 ――お前はあずまでどんな暮らしをしていたんだ。教えてくれないか。
 酒で口を湿らせながら何の気なしに尋ねた後、すぐに後悔した。
 それまで普段通り、楽しげに盃を進めていた彼女が不意に動きを止め、とっさに笑おうとして、それが出来なくて泣き笑いのような表情になって、
 ――……ごめん。私あずまの事、なにも覚えていないんだ。八年前のあの日から以前の事は、何も。
 まるで自分がすべて悪いとでもいうような口調で、そう答えたので。

 物見隊はまだ戻ってこない。
 何度か御役目処に足を運んだがなしのつぶて、とうとう、任務があれば鐘で知らせが来ますからと木綿に気を遣われてしまった相馬は、しかしそこから離れる気もせず、本部前の石段に腰を下ろした。頬杖をつき、ふう、とため息をついていると、
「相馬ったらさっきから全然落ち着かないわねぇ、何うろちょろしてるの?」
 こつこつと固い靴音を立てて、後ろから初穂がこちらを見下ろしてきた。
 先ほどまで依頼を確認していたから、相馬が何度も出入りしているのが目についたのだろう。別にどうという事はない、と相馬は目を背けた。
「こうしてじっとしているのは性にあわん、体がなまる。鬼狩りにでも出れば、少しは気分転換になるだろうしな」
「何だかカリカリしてるのね、珍しい。いつも偉そうにどっしり構えてるのに」
 興味を引いてしまったのか、初穂は相馬の隣にすとんと腰を下ろしてきた。大きな瞳でこちらの顔を覗き込んでくる。
「そんなに苛々してるのはあれでしょ、相馬、隊長と喧嘩してるんでしょ?」
「喧嘩? そんなものはしていない」
 眉をあげて視線を初穂に戻すと、彼女はえーっと首を傾げた。
「だってここ数日、全然一緒にいないじゃない。それまではどこいってもべったりしてたのに」
「……それはあいつがくっついてきてるだけだろう」
 彼女が急に百鬼隊に入りたい、などと言い出したから、どんな思惑があるのか知らないが、とりあえず同行させているだけで、相馬に他意はない。
 のだが、初穂の目にはそう映らなかったようだ。
「だって四六時中たのしそうにしてて、全然会話に入り込めなかったわよ?
 相馬は後から来たくせに、何で隊長とあんなに仲良しなの、ずるいって思ってたくらいなんだから。
 それが急に顔もあわさなくなったら、喧嘩したのかなって思うじゃない」
「…………喧嘩をしたわけじゃあ、ないが」
 自分でもらしくなく、歯切れが悪くなる。喧嘩をしたのではなく、単に自分が失言をして、あいつにあんな顔をさせてしまった事にすまなく思っているというだけだ。
 あずまの話をすると、隊長はいつでも微笑を浮かべて、静かに聞き入っていた。
 もはや無い故郷の様子を少しでも知れて嬉しいのだろうと思えば、相馬も自然と饒舌になっていったし、その流れで彼女があの地でどんなふうに生きていたのか知りたいと考えるのも、当然といえばそうだろう。
(傷に触れるつもりはなかった。まさか、記憶を失っているなんて、考えもしなかった)
 それ以上何も話せず、気まずく宴を散会してから後、相馬は確かに彼女を避けている。
 すまない、そんなつもりはなかったとその場で謝り、彼女も謝罪を受け入れてくれたのだから、それ以上この話題にこだわるべきではないと思う。
 だが、彼女のあの表情が、こびりついて離れない。
(いつも明るく笑っていて、影を感じさせない奴なのに)
 そんな彼女があんな、涙をこらえるような表情をするなんて、思いもしなかった。考えてみれば、相馬が異界の洞窟であずまについて触れた時も、寝入った彼女はうなされていたではないか。
(あれは地獄を思い出していたのではなく、何も覚えていない自分を責めていたのか)
 その時はもう安心しろと囁き、閉じた瞳からこぼれた涙をぬぐってやったが――今はどうしていいか、分からない。
「どうせ相馬が変な事言って、隊長を怒らせたんでしょ?」
「! ……どうして分かる」
 悶々と考え込む自分に苛立ちを覚えて黙り込んでいたら、初穂がずばり的を射たので驚いてしまった。初穂はふふん、と訳知り顔でひとさし指を立てる。
「だって隊長が人に喧嘩売るなんて考えられないもの。相馬が失礼な発言して、逆鱗に触れるのなら、簡単に想像できるわ」
「俺はそこまで迂闊か……」
 自分より遥かに年下のくせに、仮にも英雄と呼ばれる彼に対してここまでずけずけ言うとは、肝の据わった少女だ。悪気のない指摘につい苦笑してしまうと、初穂はそうよ、と指をこちらに突き付けてきた。
「そんな風に避けて、鬼退治なんて現実逃避してる暇があったら、早く謝ってきなさい。大丈夫よ、隊長ならきっと許してくれるから」
(もう一度、謝っているのだがな)
 そして彼女も受け入れてくれたのだが――しかし確かに、鬼をどれだけ狩ったところでこの気まずさが晴れるはずもない。
「……そうだな、お前の言う通りだ。これからあいつのところへ行ってくる」
 少女に発破をかけられるというのも情けない話だと思いながら、相馬は腰を上げた。そうと決めれば、ぐずぐずしている場合ではない。
「ちゃんと心からごめんなさいって言うのよ、相馬」
 頑張って、と激励を飛ばす初穂に手を振って、相馬は決然と隊長の家へと足を向けたのだった。

「――ああ、道理でお声がかからないわけだ。避けられていたとは気づかなかったな」
 果たして、囲炉裏のそばへ彼を招き入れた隊長は、突然頭を下げて謝罪の意を表明した相馬に驚き、苦笑交じりに呟いた。
 その手が相馬の肩に触れ、いいから頭を上げて、と上体を起こさせる。
 数日ぶりに見た隊長の顔は、常と変らず朗らかだ。
 相馬へ湯呑を差し出しながら、すまなそうに眉が八の字になる。
「そんなに気を遣わせて申し訳ない、相馬」
「いや、もとはと言えば俺が無神経だった。
 お前が自分から話そうとしないものを、強いて聞き出そうとしたんだからな」
「……大げさだな。尋問にかけたわけでもあるまいし」
 もう一度苦く笑って、自分の湯呑に口をつける。湯気をあげる茶をうまそうに飲み、こくんと喉を一度鳴らした後、隊長は膝の上に手を置いた。本当に、と口を開く。
「そう気にしないでほしい。記憶がないのは困る事もあるが、はれ物に触るような扱いをされたくはないんだ。
 相馬ならそれはないだろうと、こちらも勝手に思っていたのだけれど」
「お前も、俺をそんなに迂闊で無神経な奴だと思ってたのか」
 ウタカタの連中の中で、俺の評価は一体どうなってるんだと思いながら口を曲げてしまう。と彼女は手を振り、
「お前も? いや、そうじゃなくて……何と言えばいいのかな。あなたは大丈夫な気がしたから」
 そういった。どういう事かと首を傾げる相馬に、隊長は続ける。
「……ウタカタの皆はとても優しい。氏素性の知れない私を受け入れて、私にはもったいないほど信頼してくれている。それは嬉しい。
 彼らがもし私があずまの記憶を失っている事を知ったら、きっとわがことのように心配してくれるだろうと思う」
 ことん、と湯呑を床に置くと、膝が空く隙を狙っていたように、天狐がひょいと隊長の膝に乗ってきた。丸くなった白い獣の毛並みを優しく撫でながら、隊長は目を細める。
「でも、私は皆に心配をかけたくない。
 記憶がないからといって、日常生活に支障が出るわけではないし、それに思い出したくもないほど辛い事ばかりだったから思い出せないのかもしれないし……とにかく、私は大丈夫だから、そのことで皆に心配をかけたくない」
「……なら、どうして俺には話した。嘘をつくのが上手いようには見えないが、ごまかす手はあっただろうに」
 天狐の豊かな尻尾をすく指を見つめながら問うと、
「あなたならこんな話を聞いたところで、そのまま聞き流してくれそうな気がしたから。
 同情や心配をせず、過去はどうあれ、今を、そしてその先を見据えていれば問題ないと、そういってくれそうな気がしたから」
 静かな答えを返され、相馬は息を飲んだ。
 確かに、普段の自分ならきっとそうしただろう。
 失ったものを取り返そうとあがいても仕方がない。自身の不幸を嘆き悲しむより、今の自分に出来る最善を尽くす事の方がよほど大事だと言うだろう。
 けれど、今回はそれが出来なかった。どうしてもそれが出来なかったのは、
(他の誰でもない、お前があんな顔をしたから)
「……お前は」
 今にも崩れ落ちてしまいそうな、弱々しい、儚げな心の内を、自分にだけ露呈したから。
「お前は、俺の特別だ」
 白い毛をくしけずる手が止まる。視線を下げたまま、相馬は言葉を紡ぎだす。
「お前がそう言ってほしいのなら、いくらでも言ってやる。
 だが俺にとって、お前はあずまと強く結びついている。
 あの地でいくら探しても生存者が見つからなくて、さしもの俺も心が折れそうになった時、あずま出の人間が活躍しているのだと噂を聞いて、大いに励まされた」
 木綿に命を救われ、数多くの願いを背負って立つ英雄としての生き方を悔いてはいない。
 だが、相馬とて一人の人間だ。
 異界に飲まれたあずまであてどもなく生存者を探すのは、悲しく絶望的でむなしい旅路だった。
 生きているか、いや死んでいる、死んでいる、こっちも、あっちも、皆死んでいるものばかり。
 数えきれないほどの死に面した暗い旅路。
そこへ一筋、不意に差し込んだ光は、今もこの心に深く刺さっている。
 あの時の感動を、感謝を、相馬はひと時も忘れた事はない。
「直接出会った事はなかったが、あの時の俺にとって、お前は何よりも特別な存在だった。
 お前が居たからこそ、俺は今日まで希望を失わずに生きてこられたんだ」
 だから、と相馬は手を伸ばした。
「そのお前があずまの記憶がないのには驚いたし、悲しかった。そんなのは俺が勝手に思ってる事なのにな。
 一番辛くて苦しいのはお前だろうに、俺はお前を憐れみ、可哀そうにと上っ面の言葉で慰めたくはなかった」
 尻尾に埋もれた手を取り、壊れ物を扱うようにそっと、優しく包み込む。
 すっと顔を上げると、彼女は目を瞠り、凍り付いたように彼を見ていた。すまん、ともう一度謝罪して、相馬は口の端を自嘲に曲げた。
「同情も心配もするが、お前が嫌だというのなら口に出す事はせん。
 今の俺に出来るのは、知ってる限りのあずまを語ることだけだ。もしかしたらそれで、お前の辛い記憶がよみがえるかもしれんが」
「…………」
「お前が嫌だというのなら、もうあずまの話はしない。だが、失った過去を取り戻したくはないのか。
 ――大人のふりをして、諦めてしまうのに慣れるな。お前はまだ、あずまが恋しいんだろう?」
「……相馬……」
 きゅ、と指が彼の手を掴む。隊長は一度瞬きをして、目に浮かんだ涙を払うと、またあの泣き笑いを浮かべた。
「……そうだね。もし思い出せるのなら、思い出したい。
 どんなに辛い事があったとしても、故郷は、故郷だから」
「それなら、俺はお前の力になろう。何が出来るかわからんが、少しでも思い出せるように、俺が手伝ってやるぞ」
 同じ表情だが、そこに宿るのは前向きな意思だ。安堵して、相馬は頬を緩めた。
 そうだ、やはり彼女に、あんな翳りのある笑みは似合わない。こうやって笑っている方がいい。そう思ったが、
「あんまり優しくしないでほしいな……勘違いしそうになる」
「ん? 何だ、今何て言った?」
 不意に横を向いた彼女がぼそっと聞き取りにくい声でつぶやいたので、身を乗り出した。
 彼女が首を振って、いいえ何でもありませんと他人行儀に拒んだので、
「おい、急に態度を変えるな。言いたい事がある時はちゃんと人の目を見て話せ」
「わっ、ちょ、そ、相馬!?」
 ぐいっと手を引いて眼前に引き寄せたら、急に彼女の顔が真っ赤になってしまった。
 なんだ、泣いたり笑ったり赤くなったり、情緒不安定な奴だなこいつは。こんな調子ではやはり、しばらく目が離さない方がよさそうだ。