そこは死地だった。
見渡す限り、ありとあらゆるものが破壊され、瓦礫と化して炎に飲み込まれていた。
黒い塊が累々と転がっている。気づかずに踏んだそれがぐにゃりと柔らかい感触を伝えてきたので、吐き気がこみあげてくる。
(これは人だ)
死体を見るのは初めてではない。自ら前線に立って戦った事はないが、戦場を目にする機会はいくらでもあった。だが、ここは。なぜこれほど、地面を埋め尽くすほどに人が倒れているのか。
(鬼が居る)
餓鬼がその塊に群がり、むしり取った魂をうまそうに咀嚼している。大型の蜘蛛鬼がそれを糸で絡め取って、餓鬼ごと喰らっている。次々と失われていく魂を目の前にして、しかし彼にはどうすることもできない。
鬼は彼の姿が見えていないように素通りして、次の獲物を漁っている。否、見えていないように、ではない。実際彼はここには居なかったのだから。
(私はこの地に足を踏み入れてはいない)
天幕に描かれたモノノフ紋が炎に飲み込まれ、その姿を失っていく。その下に倒れているのは、まだ幼い少年だ。あどけない顔を苦痛に歪めたその少年の顔から、ひび割れた眼鏡が落ちる。
(秋水、なぜ貴様がここにいる)
疑問はすぐに氷解する。当然彼はここにいたのだ。
なぜならここは彼の故郷なのだから。鬼門が開いてどっと押し寄せてきた鬼の軍勢に、この地は飲み込まれてしまったはずだ。
その少年のそばには女が倒れている。半ばから折れた槍を手に、激闘でぼろぼろになった体を横たえ、無念の怒りを表すように目をかっと見開いてこと切れている。
(貴様もか、女狼よ)
北の大地は鬼によって蹂躙され、そこに居たものは全て命を落とし、魂を食われてしまった。
ここはもう駄目だ。撤退せねば。霊山に戻って、鬼に対する策を練らねば。
そう思うのに、足が止まらない。
秋水たちの死体を乗り越え、鬼が死体を食い散らかす灼熱地獄の中をひたすら進む。目に映るおぞましい光景を見たくないと思うのに、目を閉じる事さえできず、恐怖と後悔が喉を締め上げてくる。
(やめろ、もうこんなものを見せてくれるな)
心が悲鳴を上げるのに、声を出せない。
手塩にかけて育ててきた部下も、彼を罵りあざけった者達も、顔を見知っただけの者達、すでに死んだはずの者達、大和やその妻、彼が知っている人々の死体が次々と現れては、生気のない眼球でこちらを見上げて、お前のせいだというようにどす黒い恨みの念を放っている。
(やめろ、やめろ、やめろ)
死体の手が足を掴み、絡みつき、体が重くなる。恐ろしくて逃げ出してしまいたいのに、足はそれらを蹴散らしてたゆみなく前へ、前へと進み続け――やがて、たどりついた。
一人の女が今、息を引き取って地面に倒れる場面に。
どしゃ、と土の上に落ちた体はぴくりともしない。その姿かたちから正体を見分けた彼は総毛だった。
それを見たくはなかった。みっともなくても、この場から背を向けて逃げ出してしまいたかった。
だが彼の体は心と反対に躊躇なくそれに近づき、そばに膝をついた。
かちかちと歯を鳴らしながら伸ばした手が、うつぶせに倒れたその肩を掴み、ゆっくりと持ち上げた彼は、泥に汚れた死体の顔を見て――絶叫した。
「――っああああああっ!!!!!!」
喉からほとばしった悲鳴で目が覚めた。
がばっと跳ね起きた九葉は、胸元を押さえてぜいぜいと荒く呼吸する。
全身から冷や汗が吹き出し、心臓が飛び出してきそうなほど激しく跳ねている。くらくらする頭を手で支え、辺りを見渡した。
闇に沈んだ部屋の中、異変はない。
鬼も、炎も、死体も、何もない、拍子抜けするほど静寂に包まれた空間にいる事を認識して、ようやく深い呼吸ができた。
(いつもの夢、か……)
悪夢にうなされて満足に眠れないのは、八年前からずっとだ。このところは新調した枕のおかげで夢を見る事も減っていたのだが、悪夢の方はそうそう、彼を手放すつもりはないようだ。
(全く……北を見捨てた鬼ともあろうものが、情けない限りだ)
人間を守るため、捨てた命に報いるため、非道をも貫くと心に誓っているというのに、たかが夢にいつまで悩まされているのだろう。
みっともない事だと視線を落とした九葉は、自分の両手が細かく震えている事に気が付き、歯を食いしばった。
夢の感触は現実のもののようにまだ、この手に残っている。踏みつけた死体の柔らかさも、炎の熱さも、最後に起こした死体の重さも――
「……っ!」
実際に足を踏み入れたわけでもないのに、あの瘴気が体にまとわりついているように思えて、不快極まりない。九葉は上掛けを払いのけ、寝台から降りた。
身支度を整え、家を出て、人気のない深更、里の中を足早に急ぐ。
道すがら、夜は出歩くなという決まり事をふと思い出したが、今はそんなものどうでもよいという気分だった。
一刻も早く穢れを落とさねば、朝までこの恐怖と戦う羽目になるだろう。
狭い部屋の中、一人で震えながら夜明けを待つくらいなら、禊場で凍死した方がまだましだ。
そんな事を思いながら、九葉は禊場の門を潜った。
せっかちに着替えを済ませ、しんと静まり返った水場へ早々に移動する。
禊場に、性別での区分け以外の利用時間の制限はないとはいえ、獣も眠るこんな夜更けにはさすがに誰もいないようだ。
月が雲に隠れている夜、滝の音が響く小さな湖は、そこに何か潜んでいるのではないかと思わせるように、夜空を映して暗く沈んでいて、いささか不気味だ。
(馬鹿馬鹿しい、何かいるはずもない)
九葉も何度かここを利用しているので、危険などない事は承知している。
蛙や小魚くらいなら時折姿を見せるが、それに怯えるはずもない。
うっかり踏んでしまったら転ぶかもしれないので、それは注意しなければと思いながら、冷たい水にそっと足を浸した時、
「……誰?」
「!?」
不意に小さな声が聞こえてきたように思えて、びくっとしてしまった。
(聞き間違えか? あるいは先に誰かいたのか?)
人の気配などみじんも感じていなかったから勘違いかと思ったが、暗くてよく見えない奥の方からじゃぶじゃぶと水をかき分ける音が近づいて、
「――ああ、九葉さんですか。驚いた、こんな時間に禊にしにくるなんて、どうしたんですか?」
闇の中からぼうっと白い姿が浮かび上がったかと思うと、ウタカタ討伐隊の隊長が気さくに笑いかけてきた。どくっと心臓が一つ跳ねて、九葉は息を飲んだ。
「そ、……れは、私の台詞だ。貴様こそ何をしている」
動揺を隠そうとして、しかし声が上ずる。幸い相手はこちらの様子に気づく事なく、
「私はちょっと寝付けなくて、気分をすっきりさせたいなと思って。時々、こうして夜中に禊してるんです。昼も気持ちいいけど、夜はまた気分が変わっていいですから」
「それは奇特な事だな。日に日に寒さも増しているというのに」
「まぁ、確かにそろそろ厳しいですけど、日中暖かければまだ何とか……というか、そういう九葉さんだって来てるじゃないですか。どうしたんですか、気分転換ですか?」
自分もまた水の中に入りながら、九葉は浅く口を開き閉じした。
夢にうなされたので、気分転換に来たといえばその通りなのだが、説明するのは憚られる。
もとより己の弱みをさらけ出したくはないし、この女にわざわざ物語る必要もない。適当な言い訳を口にして、早々に退散するのが最善の策というものだろう。
だが、九葉はひかれているように彼女に近づき、その前へ立った。
無言の彼に不審を覚えたのか、軽く首を傾げる隊長をじっと見つめて、目を細める。
(……綺麗なものだ)
ふと思った。顔立ちの話ではない。
彼女は何の穢れもなく、ほんのり赤く染まった頬もつやつやとした元気いっぱいの顔色をしている。
今日は出撃もなかったのだから当然といえば当然なのだが、その健康的な輝きに、ほっと息をつきたくなった。
(少なくとも今、こやつが死ぬ事はない)
その事に、心から安堵を覚えた九葉は、ほとんど無意識のうちに、彼女の頬を両手で包んだ。
「えっ……九葉、さん……?」
突然で驚いたのか、隊長が目を瞬いて困惑の声を漏らした。だが九葉は何も言わないまま、手に伝わってくる温もりをじっと感じる。
(少なくとも今、こやつは生きている)
いまだこの手には、夢の残滓が残っている。
踏みつけた死体の柔らかさも、炎の熱さも、最後に起こした死体の重さも――焦点を失った目で空を見上げるこの女の頬を包み込んだ時の、凍り付くような冷たさも。
「……九葉さん、本当にどうしたんですか? 震えてますね」
困ったような顔をしながら、彼女は九葉の右手に自分の手を添えて尋ねてきた。指先まで暖かいその感触に更なる恐怖を感じながら、九葉は否、と呟いた。
「どうもこうもない。私は……いつもと変わらない」
そうだ、何も変わっていない。自分はいついかなる時も霊山軍師、九葉でしかない。
たとえどれほど己の罪に怯えようと、それから逃げ出す事は出来ない。
(私は、いずれきっと、お前を殺す)
手に触れた暖かさで悪夢の恐怖は溶け消え、代わりの恐怖がこみ上げてくる。
今この時、確かに息づき、血にまみれた己にさえ笑いかけてくるこの女をも、自分はいずれきっと、殺してしまう。
「……もしかしてまた、悲しい夢を見たんですか」
こちらを見上げた彼女が静かに尋ねてきたので、九葉は顔を歪めてしまった。ああそうだ、あの悪夢はその未来を予知したに過ぎない。
(それが人が生きるために必要であるというのなら、私はお前をも見殺しにする)
その喪失がどれほど恐ろしくても、悲しくても、自分はきっとそうするだろう。そしてその後きっと、本当の鬼になってしまうだろう。
「泣かないでください、九葉さん」
「……泣いてなどいない」
先を思ってぎしりと奥歯をかみしめていると、彼女がそんな事を言い出したから、首を振った。
本当に泣いていなかったのだが、彼女は九葉の手を包んでいた指を彼の目元に移動させ、眦をすっとなぞった。
「でも、今にも泣きそうな顔してます。……私がここにいるから大丈夫ですよ、九葉さん。一人じゃないですから、泣かないで」
「…………ああ、貴様が居るような気がしたから、私はここに来たのだ」
その手を捕えて口元に引き寄せ、目を閉じながら、低く呻いた。
いつかきっと自分はこの女を殺すだろう。だがその時まで、せめて今この時だけは、この温もりを、この命を、愛しく惜しく思う事を許してほしい。
誰にともなく祈りながら、九葉は彼女の手を握りしめ、手のひらに唇を寄せた。どうかせめて、今だけは……