散り行く命を惜しみ

 声が聞こえる。
 泣いている声。
 今にも絶えてしまいそうな、か弱い声。
 それに混じって、必死に呼びかける声も聞こえる。

 ――いつだったか、こんな暗闇を経験した事がある。

 真の闇に全てが包まれて、自分の手の先さえ見えない。重たくのしかかる闇は体だけでなく、心をも塗りつぶそうとしている。

 ――生きよ、と囁きかけたのは、誰だったのか。

 暗闇の中、淡い光がぽっと宿る。闇に押しつぶされて消えてしまいそうなそれは、しかしそれを押し返してぐん、と大きくなった。生きよ、と光が言う。生きなさい、とその隣に現れたもう一つの光が言う。

 ――かつて、同じ声を耳にした気がする。

 あれがいつの事だったのか思い出せない。目の前で自分が生きてきた場所が血にまみれ、破壊され尽くしていくのを見ている事しかできなかった。硬直して立ち尽くした己を、闇から現れた異形の化け物が、まるで玩具で遊ぶように軽々と吹き飛ばして……

 ……う……かり……隊長……目を覚ましてくれ!

 その時、すがりつくような叫び声が闇を切り裂いた。
 己の周囲を取り囲んでいた多くの光が風に吹かれたように揺れ、しかし消える事なく闇の隙間へと吸い込まれていく。声に導かれるように、光に手を取られたように、重たい手足を引きずって、闇が途切れたその場所へ進むと、突然まばゆい光であたりは何も見えなくなり――

「……隊長、しっかりしてくれ、隊長!!!!」
 ぼんやりとかすむ視界で、誰かが必死に呼びかけている。耳に綿が詰まったのか、その声はどこか遠くから聞こえてくるようだったけれど、何度か瞬きをして、私の顔を覗き込んでいる息吹の顔をようやく認識した。
「い……ぶき」
 いつものように名を呼ぼうとして、けれど声を発した途端、胸に鋭い痛みが走って硬直してしまった。まるで喉に穴が空いたみたいに、ひゅーひゅーと風が吹き抜けるような呼吸が漏れる。
「ああ無理してしゃべらなくていい。とりあえず意識だけはしっかり保ってくれ、隊長」
 息吹が切羽詰った調子で言い募る。どうしてそんなに悲壮な顔をしているのか。いつも飄々と構えている伊達男は今、血の気が抜けた真青な顔色で、私を見下ろしている。その頬に血がついている事に気が付き、
「い……き、怪我……してる……?」
 どうしてか乱れる呼吸の下から言葉を吐き出すと、息吹は馬鹿、と一層顔を歪めた。
「俺なんかどうでもいい、あんたの方がよっぽど大けがしてるんだぞ。さっきまでの事、覚えてるか?」
 大けがしている。
 そういわれてようやく、自分の状態を把握する。
 私は全身傷だらけだった。体のあちこちにある深い切り傷から血が滲み、足は片方折れている。手は無事なようだけれど、肩を痛めたのか少し動いただけで激痛が走るし、この胸の痛みはおそらく肋骨が何本かいってるに違いない。
「さ……鬼……追い詰め、て……」
 言葉は明瞭に出てこないが、記憶は鮮明によみがえってくる。
 そうだ、今日は息吹と一緒に任務に出ていた。そこへ見たことのない大型鬼が突然襲い掛かってきたのだ。
 行動限界ぎりぎりまで激闘を続けて、何とか鬼を倒した――はずだが、そこから後の記憶はあいまいだ。
「最後の最後にあの野郎、地面をたたき割って、俺とあんたを谷底に突き落としたんだ。その時あんたはでかい岩の下敷きになっちまって……」
 こんなひどい怪我を。言葉に詰まった息吹は、腕に力を込めた。ふわり、と持ち上げられる感覚、そして汗と血の匂いがしみ込んだ服に顔が押し付けられる。
「いぶ……き」
 どうやら息吹は横たわった私を、抱きかかえてくれているようだ。背中に回された腕で、ぎゅ、と力強く私の肩を掴む息吹の体は、まるで凍えているかのように震えている。
「さっき……あんたが収集に出してたらしい天狐が、俺たちを見つけてくれた。あともう少しすれば、きっと皆が駆けつけてきてくれるはずだ。頼むからそれまで頑張ってくれ、隊長」
 私を励まし、生きろと願う声。けれどそれは涙を含んで震え、幼子が母にすがりつくような弱々しさを含んでいた。
(ああ……ごめん、息吹)
 ふと気が付き、声が出ない代わりに心の中で謝る。息吹はこんな状況は耐えられないだろう。この人はかつて、愛する恋人を戦いの中で失ってしまったのだから。
 その時の状況を詳しく聞いた事はないけれど、もしかしたらこんな風に、息を引き取りつつあるカナデを、最期まで看取ったのかもしれない。
 薄れていく生気を惜しみ、置いていかないでくれと懇願して泣き叫んだのかもしれない。
(ごめん、息吹。二度も、悲しい思いをさせて)
 私は息吹の恋人ではない。
 けれど彼は相棒と呼び、私を認めてくれた。気の置けない友人になってくれた。
 そんな相手が瀕死の重傷を負っているのを見なくてはならないのは、身を引き裂かれるような苦しみだろう。
 ――生きよ。
 声が聞こえる。目を閉じれば、自分の中で息づく数多のミタマの声が幾重にもこだましている。
 ――生きなさい。あなたはここで死ぬ定めではないのだから。
 幻の手が、私の顔を撫でていく。
 もはや記憶にも残されていない母のように優しいその温もりに微笑した私は、痛む手をそろそろと持ち上げて、息吹の背にあてた。ぴくっと震える背中を、精一杯優しく撫でる。
「……だい……じょう、ぶ……私……死なないよ、息吹」
 かすれた声で囁き、息吹の肩に頭を預けて目を閉じる。隊長、と息吹が泣きそうな声で囁く。大丈夫、と何度も繰り返しながら、私は少し笑った。
 ――カナデさんのように、私の名前を呼んでくれてもいいのに。
 こんな時に、のんきに昔の彼女に嫉妬できる自分は、結構余裕があるんじゃないか、そんな事を思ったので。