faker

 現役を退いた元選手からの連絡を受けた時、胸に去来するのは期待と不安だ。
 期待――リングを降りた男が、新たな道を見つけて報告しにきたのかもしれない。
 不安――夢半ばで挫折した男が、金に困ってすがりつきにきたのかもしれない。
 どちらの男も、藪沼はこれまで多く見てきた。手助けできるものはしたし、誤った道を進もうとしている者を説得して、それでも叶わず落ちて行ったものもいた。
 期待と不安。まるで博打だ。何度でもやり直せるような易しいものではない、残酷な博打。

 そんな事を考えながら、藪沼はメガロボクススタジアムの敷居をまたいだ。
 自宅のように通い慣れた階段を上がって目の前にラウンジが広がる。平日の午後、店内はそこそこに客がいる。眼鏡越しに視線を巡らせれば、見慣れた背中を窓際に見つけた。
「待たせたなぁ、南部」
「藪沼さん。いえいえ、こっちこそ急にお呼びたてして、すいません」
 声をかけて歩みよれば、男は振り返った。その右目にはまった黒い眼帯を見て、藪沼は眼鏡の奥で分からないように目を眇める。
 これは見慣れない。彼の記憶にある南部は、両目があった。その最後の記憶では、右目から血を流していたけれど。
「――だいぶ元気になったみたいだな。一時はずいぶん荒れたと聞いてたが」
 向かいに腰掛け、懐から取り出した煙草に火をつけながら続けると、南部はいつものように愛嬌のある顔でへへっと笑って見せる。
「ええ、まぁ、その節はどうも……色々とあって、世話になった藪沼さんにだいぶご無沙汰しちまったなと思いまして」
「ふん、殊勝なこった。俺ぁてっきり、困りごとがあって泣きついてきたのかと思ったぜ」
 水を向ければ、我が意を得たりとばかりに相手の顔がぱっと輝き、ついで恥じるように目を伏せた。いやぁ藪沼さんにかかっちゃ何でもお見通しで、と世辞を口にしながら、南部はズボンのポケットから何かのケースを取り出した。
 ふたを開けて取り出したのは、一枚の紙。それを両手で持って差し出してきたので、何かと受け取れば、
「――南部贋作……南部メガロボクスジム?」
 飾りっ気のない名刺には見覚えのない名前が並んでいた。語尾を上げて疑問を呈すると、南部はまた愛想笑いを見せる。
「ええ、まぁそんな大層なもんじゃねぇんですけどね、今度ジムを始めるんですよ。で、絶賛入会者を募集中ってわけでして」
「それで俺に口利きを頼みに来たってわけかい」
 白い煙を大きく、不安と共に体の外へ吐き出す。
 どうやら期待の方に掛け金が動いたらしい。
 選手一辺倒できた男がジム経営をうまくやっていけるのか、という不安はまだ残ってはいるものの、あのまま腐って道を踏み外すよりは、よほど前向きだ。その事にはほっとしたが、一方で名刺に顔をしかめてしまう。
「そいつはまぁいいがな、南部よ。この名前は何だ? “贋作”?」
 音の響きは、選手時代と同じ。だが、漢字が違う。
 親がつけるには真っ当と思えないこの名前、南部は今こう名乗っているのか。なぜ、と突っ込むと、それまでへらへら笑っていた男の顔に、ふっと影がよぎった。
「……いえね。色々あって……考えてみたんですよ」
 視線が下がり、テーブルの上に落ちて、手が拳を形作る。
「俺は選手だった時、朝から晩までメガロボクス尽くめ、他の事を考える余裕も必要もないくらい、みっちり詰め込んで、いっつも夢中だった。
 俺は……自分で言うのもなんだが、才能があった。俺はメガロボクスをやるために生まれてきた男だと思ってました。一生リングの上に立ち続けて、最期はリングで大往生――なんてことまで考えてた」
 ふ、と自嘲の笑みがこぼれる。もう湯気も立たないコーヒーを口に運び、南部は目を上げた。その眼差しに、諦めの色を見て取り、藪沼は再度不安の影が胸に兆すのを感じた。
「藪沼さん、前に言っただろ。お前は本物のメガロボクサーってやつかもしれねぇな、って。俺はそうだと思ってた。俺こそがメガロボクスに愛された、正真正銘、本物のボクサーなんだって」
「……そうじゃねぇと思ったから、こんな名前に変えたってのか」
 再度、名刺を見る。
 南部贋作。
 贋作――偽物。
「……感傷がすぎるぜ、南部よ。改名までするこたねぇだろう」
 南部の表情がガラス細工のように柔くなっているのを見かねて、藪沼は帽子のへりを下げた。不安、いや、やるせない気持ちが沸き上がってきた。
 あの怪我から復調したように見えて、この男はまだ傷口から血を流し続けているのだと思うと、何ともやりきれない思いがする。
「そうかもしれやせんが、まぁ、戒めみたいなもんですよ。これからは一国一城の主、俺が指導する奴に同じ思いをさせない為にもね」
 声は明るさを取り戻し、以前のように南部は愛想よく笑う。それをへり越しに見やって、藪沼は口元に苦い笑みを浮かべた。
「話は分かった。とりあえず何人か当たってみるから、交渉は自分でするんだな、南部よ。経営者ってのはサンドバッグ叩いてりゃいいってもんじゃねぇ」
 名刺をポケットにしまって立ち上がると、相手は無邪気に顔を輝かせて、
「ありがとうございます、藪沼さん! 恩に着ます!」
 とぺこぺこ頭を下げてくる。その様子に、今度は少し明るい気持ちで笑って、藪沼はその場を後にした。
 期待と不安は、まだどちらが勝っているか分からない。
 それでも、一度は本物と見込んだ男が懸命に浮上しようとする姿を見られたのは、嬉しい事には違いない――本人が偽物と自嘲するのは、どうにもいただけないが。