鬼の霍乱

 夜空を覆い隠す雲は晴れる事なく、幕のごとき重々しさで垂れ下がっている。きまぐれのように通り抜けていく風は生ぬるい。
 季節は秋、木々は美しい紅に彩られているが、揺れるたいまつの明かりではその形がかろうじて見て取れるだけで、闇夜の目を楽しませるものではなかった。
(日に日に空気が重たくなっていくように思えるのは、終焉の鬼が近づいているからなのか)
 葉の影が揺れるのを見上げながら、道ばたの石に腰掛けた九葉はそんな事を思う。
 鬼との果てなき戦いの中、自ら剣を持って立つ事はなかったにしろ、九葉もまた絶望的な状況に抗い続けてきた。
 たとえどれほどの犠牲を払おうと、必ずや鬼との戦いに勝利すると誓約を掲げ続けてとどまる事を知らない九葉ではあるが、今や老い衰えた。
 真に心を任せた部下たちを一人、また一人と失い、北を切り捨てた鬼と非難を浴び、直接的な暴力にさえ晒されてきたこの身は安息を知らず、毎夜の眠りはおぞましい夢にさいなまれるばかりだ。
 そして、いくら九葉が己の弱さを秘そうとしたところで、人の口に戸は立てられない。
 夜ごとうなされる九葉の有様をこぼれ聞いた人々はそれ見た事かと鼻でせせら笑い、どうせ自業自得だと、北を見捨てた鬼は苦しんで当然なのだと言い放ってはばからなかった。
(あるいはそれで厄介払いされたのも、本当かもしれんな)
 霊山に渦巻く悪評は九葉がいくら無視したところで収まる事を知らず、霊山君の耳にも入った事だろう。
 それ故、霊山君に愛想を尽かされた軍師は最前線へ追いやられているのだと、埒のない噂話がまことしやかに囁かれていたのも、九葉は知っていた。
 しかし、それがどんな思惑から出た任務であったにせよ、人の世を守り鬼を倒せるのであれば、彼には是非もない。
 だから何の屈託もなく、百鬼隊の相馬とウタカタへ赴き、いざという時はこの里を捨てる事も視野に入れて、いつものように策略の網を広げたのだが――
「あ、九葉さんこんなところにいた。皆と一緒にご飯食べないんですか?」
 穏やかな思索を不意に断ち切ったのは、女の声だった。
 びくっとして振り向くと、なぜか湯呑を手にしたウタカタの隊長がこちらへ歩み寄ってくるところだ。
 激戦に次ぐ激戦で疲労もあるだろうに、その足取りは軽い。九葉はふっと顔を背け、
「……騒がしい食卓は好きではない。ウタカタの連中は皆、やかましい上に礼儀がなっていないな」
 そっけなく言い放った。相手はそんな事ないですよ、と否定するかと思いきや、
「ああ皆、丁半始まっちゃいましたもんねぇ。
 私も賭博は苦手なんで、逃げてきたところですよ、っと」
 なぜか隣の草むらにすとんと腰を下ろして、ずーっと茶を飲み始めた。九葉は膝の上に乗せた椀に匙を戻して、眉根を寄せてしまう。
「なぜ、そこに座る」
「なぜって、ここが私の特等席だからですよ。ご飯食べた後はいつも、ここで夕涼みするんです」
 それは知らなかった。確かにこれまで、九葉が食堂で集団から離れて食事をしていた時、一人で出ていく彼女を何度か目にしていたが、ただ席をはずしていただけかと思っていた。
 では、と九葉は腰を上げる。
「私が退散しよう。邪魔をして悪かったな」
 そのまま立ち去ろうとしたが、不意にがしっと服の裾を掴まれて、危うくつんのめりそうになった。
「……何をしている、その手を離せ」
 振り返れば、相手は子供のように頬を膨らませた不満顔でこちらを見上げている。
「そんなあからさまに避けなくてもいいじゃないですか、ちょっとお話しましょうよう、九葉さん。一緒に禊をした仲でしょう」
「あれはお前が恥じらいもなく男の時間に入ってきたからだろうが」
 悪評には慣れているが、いい年をして若い女と下着同然の格好で禊をしたなんて噂されるのはごめんだ。そもそもこちらは被害者だというのに。
「それに私とお前で何を語るというのだ。恨み辛みを聞いてやるほど私は暇ではないぞ」
 裾を握る手を振り払いながら言い捨てると、彼女は目を瞬いて首を傾げた。
「私が何で九葉さんに文句言うんですか。感謝ならいくらでも出ますが」
 感謝。感謝だと?
 耳を疑い、九葉はまじまじと隊長を見下ろした。皮肉かと思ったが、単純思考のこいつがひねった事を言うはずもない。
「……感謝とはどういう意味だ? お前が私を嫌う理由はあっても、ありがたがる必要があるとはおもえん」
「感謝って必要だからするもんじゃないでしょう。まま、座って下さいよ」
 くいくいと服を引っ張られて、九葉はやむなく元の石に腰を戻した。ようやく手を離した隊長は、再び湯呑に口をつける。
「九葉さんには本当に感謝してますよ。だってあなたがいなかったら、イヅチカナタの事なんて分からないまま、終わりを迎えていたかもしれない」
 イヅチカナタ。千年の昔に現れ、全ての因果を解くという元凶の鬼。その正体と到来についての情報を得られたのは、九葉が策を弄して陰陽方の首魁、虚海をモノノフ達に捕らえさせた為だ。
(確かにその点だけであれば、計画の立案者に感謝するのもおかしくないのかもしれないが)
 だが、その手段は非人道的で、とても容認できない、と北の生き残り達が言っていたのを、この女は忘れたのだろうか。
「……そのために自らを囮に仕立て上げられたというのに、礼を言うのか。おかしな奴だ」
 虚海の目を欺く為、九葉はわざとウタカタのモノノフ達を出撃させ、彼女が飼っていた天狐を虚海へ渡して、隊長を釣る為の餌とした。
 最終的には他の者達が集結するように手を打っていたとはいえ、たった一人で暴れ狂うイミハヤヒの相手をするのは絶望的な戦いだったはずだ。
「あぁそうですね、あれはちょっと大変でした」
 しかし隊長はあっけらかんと笑い声をあげた。
「でもまぁ、とりあえず何とかなりましたし、あの時助かったのも、結局は九葉さんのおかげでしょう?」
「騙された事に不満はないというのか。……ふっ、心の広い事だな」
 お人好しだ、お人好しだと散々言われている隊長だが、ここまでとは思わなかった。陥れられてなお良しとするのであれば、これは理想的な駒ではないか。
 もしこの戦いが人間の勝利に終わり、鬼を打ち破った英雄としてこの女が霊山に連れ戻されたとしたら、さぞや醜い政治に翻弄される事だろう。と苦々しい思いで九葉は顔をしかめたが、
「別に不満はないですよ。
 もし他の仲間が囮に使われたり、天狐が無事に戻ってこなかったりしたら私、九葉さんが足腰立たなくなって生きているのがつらくなるくらい、ぎったんぎったんに怒りますけどね」
 不意に氷の刃のごとき鋭い語調で、にこにこと笑顔を向けられたので、九葉は背筋にぞくっと寒気を感じた。何気なく座っているだけの相手の体から、身も凍るような気が立ち上り、緊張の糸がぴんと張る。
(……これが、今世の英雄か)
 射すくめられたように硬直したまま、九葉は乾いた喉に唾を飲み込む。かつて前線で戦っていた大和も、時折ぎょっとするほど鋭利な殺気を見せる事があったが、数ヶ月前まで新人モノノフでしかなかったこの女は、それと同じくらい恐ろしい。
(機嫌を損ねれば、殺される)
 この女がその気になれば、今この場で息の根を止められてもおかしくない――心胆を寒からしめてそう思った時、
「……でも囮は私だったから、怒ったりはしませんよ。修羅場には慣れてます」
 ふ、と糸がほどけて、隊長の体から殺気がかき消えた。普段通りの緩んだ顔で茶をすすりながら、朗らかに笑う。
「それに、千歳への囮って要の役に私を据えたのは、私ならこなせるはずだと、九葉さんが信頼してくれたって事ですよね?」
「それは……」
 ぐ、と言葉に詰まる。九葉はただいつも通り、策に必要な駒を、必要な場所へ配置しただけだ。それだけのはずだが、
(なぜ、私はこやつに賭けた)
 今更そんな事を思う。
 いくら武術の腕が優れていようと、虚海が本気で殺そうと仕掛けてきたのなら、あっさり死んでしまってもおかしくない。
 いや、九葉にしてみれば、最終的に虚海を捕縛できるのなら、部下であろうとモノノフであろうと、死んでもかまわなかった。
(だがなぜ、私は生き残る方へ賭けたのか)
 生存は五分五分、いやそれよりも分の悪い賭けで、九葉はこの女は生き残るのではないか、と思っていた。いや、計算でも何でもなく、願っていた。
「九葉さんが信頼してくれたのなら、それに応えるのが私の務めってもんですよ。それを嬉しいと思いこそすれ、恨み辛みを言うなんてありっこないじゃないですか」
 へらへらと笑ったまま、隊長はこちらをまっすぐに見上げてきた。曇りのない、闇の中に星が輝く夜空のような目をした女は、言葉通りに喜ばしげな笑みを浮かべて、
「ありがとう、九葉さん。あなたのおかげで、私はまだ戦える。この感謝の為、そしてあなたが負った業に報いる為にも」
 すっと九葉の手を取り、恭しく甲に口づける。
「――私は最後まで戦い続ける事を、あなたの命に誓いましょう」
 触れた唇は柔らかく、暖かく、偽りない敬意が伝わってくる。先ほどとは別の理由で体をこわばらせた九葉は、思わず手を振り払うと、
「……お前は大馬鹿者だな。そしてお節介だ。私の業は私のものだ。他の者が背負う必要はない」
 早口に言い募ったが、どうしてか心臓の鼓動が速くなって、息が苦しい。いいじゃないですか、と希代の英雄は立ち上がる。そして気安くこちらの肩を叩いて、
「重たい荷物は分け合った方が、よりたくさん持っていけるものですよ。部下の人が無事で、本当に良かったですね」
「!」
 穏やかな微笑を含んだ声音で囁き、そのまますたすたと食堂へと戻っていく。
 とっさに振り返って口を開けた九葉は、しかし何と声をかけていいのか分からず、彼女が遠ざかっていくのを見送るしかなかった。
 その姿がやがて見えなくなってから、手元の椀を見下ろし、馬鹿め、と呟く。
(そう気安く、ムスヒの力をひけらかすものではないわ)
 ほんのわずかな時間語らっただけなのに、どうしようもなく気持ちが揺れ動いて、動悸もする。
(あんな小娘にこれほど動揺させられるとは、私こそ大馬鹿者だ)
 息を切らしながら九葉は手の甲を、一方の手で覆い隠した。女の唇がかすかに触れたその場所は今、どうしようもないほどに心地よい温もりが残っていて、よりいっそう心が騒いで仕方がなかった。