いずれ枯れ落ちるのならば

※雪音以外の女性キャラ相手です。

「……ねぇ、旦那。ゆきねって、だぁれ?」
 訊こうか訊くまいか、悩んだ末に自分の口から出てきたのは、やはりそんな質問だった。
「あん?」
 うとうと寝入りかけていたせいか、相手の返事はぼんやりしている。だから、と言葉を継いだ。
「ゆきねって誰なの、そう訊いたのよ」
「……あぁっ? 何でお前知ってんだ」
 途端、眠そうだった目がぱちりと焦点を結び、訝しげな表情に変わる。
「さっき、旦那が言ってたじゃない」
 いつになく荒れた仕草で抱いて、それでも最後、自分にすがりつくようにしがみついた時、小さい声で、確かにその名をつぶやいたのを聞き逃せなかったのだ。
「……っな、……」
 旦那はびっくりしたみたいに目を瞬かせた後、黙り込んだ。珍しく顔を赤くして、気まずそうな、恥ずかしがっている様子に、こっちも驚いてしまう。
 横たえていた上半身を起こして、相手の顔をのぞき込んだ。
「旦那。覚えてないの?」
「……全然、覚えてねぇ」
「……そう。それはまた、重症なのね」
 ちくり、と胸を刺す痛みを無視して、ちゃかすように笑って見せた。
「なぁに、その子、旦那のイロなの? それとも、手が出せないから代わりにあたしを抱いたの?」
「……いや、あぁ……いや、そんなつもりじゃあ、なかったんだけどよ」
 一角は困ったように首の後ろに手をやった。
 この人は嘘やおべんちゃらを言えない性格だから、ごまかせない。一角は自分ではなく、その女を抱いたのだ。
「……余程いい女なのね、その子。旦那みたいないい男を袖にするなんて」
「まぁ……何だ、色々あってな。ちょっとめんどくせぇ女なんだ」
 一角はそういって、脱ぎ捨てた着物を引き寄せる。苦い笑いを浮かべた顔は、遠くを見るような眼差しは、その女を思っての事なのだろう。
 ――あたしの知らない、旦那の顔。
 それから目をそらして、言葉を継ぐ。
「帰るの?」
「明日、早番の仕事があるんでな。……わりぃな、忙しなくてよ」
「そんな事」
(良いのに、と言えない)
 自分も間着をまとって旦那の身支度を手伝う。
(ほんの瞬きの合間でも、あなたに会えるだけで嬉しいのに、と言ってしまいそうで)
 顎にぎゅっと力を込めて、口を開かないようにしながら。
「それじゃ、行くぜ」
 帯ひもを締め、刀を肩にかついだ旦那がこちらに向かって笑いかける。
「……っ」
 その笑顔に胸がぎゅうっと締め付けられて、くらりと目眩を覚えた。ふすまを開けようと背を向けた旦那に走り寄って、ぶつかるように抱きつく。
「お? 何だ?」
 一角が戸惑って身じろぎする。当然だ、こんなふうに引き留めるような真似、これまでした事がない。してはいけないと、自分を律してきたから。
「旦那……」
「どうした、かごめ」
 優しい声が、身を引き裂くような痛みをもたらす。耐えるように息を吐き出し、一角の手に触れた。袖の下の、引き締まった力強い腕をさすり、なぞり、そして思い切り、爪を立てる。
「!? いってぇぇぇ!!!!?」
 力一杯やったせいか、不意をついたせいか、一角はこっちがびっくりするくらいの声をあげて飛び上がった。あたしを振り払い、袖をめくると、太い腕の表面に長々と赤い線が走っているのが見える。
「な、おま、何しやがるんだいきなり!」
「知らない」
「はぁ!?」
「旦那のばか、もう来ないで!」
「ちょ、おい、待てよ何……」
 混乱してる一角を廊下に突き飛ばし、勢いよくふすまを閉める。
 一角の力ならこんな薄い壁なんてあっさり破れただろうけど、廊下から「何だよ、何怒ってるんだよ、おい、かごめ」と話しかけてきただけ。
 何も応えないこちらに音を上げたのか、そのうち何かぶつぶつ言いながら、立ち去っていった。
 一角の気配が遠ざかって消えた後、かごめは畳の上に座り込んだ。
 膝を引き寄せ、体を小さくして、唇を噛む。見下ろした指に赤いものを認めて、手を持ち上げた。
 尖った爪の先に、一角の血がついている。
「……ばか」
 もう一度呟いて、引き寄せた指先を口に含む。血の味はやがて、塩気を帯びた涙の味へと変わっていった。