それは不運としか言いようのない状況だった。
いつものように任務に出て、いつものように鬼と戦った。領域を荒らす小鬼を蹴散らして、さぁ帰還だと皆が息をついたその一瞬の隙を、様子を窺っていたらしい大型鬼に襲撃された。
木綿から言い渡される任務の内容は、確実性のあるものではない。
物見が持ち帰った情報が、戦場の全てを把握しているものではないからだ。無論、それはモノノフ皆は覚悟の上で、たとえどれほどたやすい任務と思われても、常に緊張感をもって臨むのが常識だ。
だから事前情報の無かった大型鬼の襲撃を誰のせいとも責める事は出来ないし、油断していた隙をつかれて負傷者が出てしまったのは、任務に出たモノノフ達の責に他ならない。
そしてその命の責を今、一人で噛みしめているものがいる。
ウタカタの里に戻り、隊の手当てを終えた相馬は、本部の一角にある治療室へと足を向けた。
大型鬼は複数、雑魚を引き連れて大名行列よろしく襲い掛かってきたが、百鬼隊との合同任務だったのが幸いだった。
数で押し寄せてくる敵を、こちらも数で押し返す事が出来たのだから、不意打ちだったとはいえ損害は軽微と言っていい。
だが、ウタカタ討伐隊はそうではなかった。
しん、と静まり返った治療室の前まで来ると、普段は騒々しいほど和気あいあいとしているモノノフ達が、一様に沈んだ表情でじっとしている。
(……まだ手術が終わっていないのか)
帰還から数時間経ったが、那木と医師、秋水がこもった手術室の戸は閉じたままだ。相馬は皆の間をすり抜け、ついたてで視界が隔てられた戸の前に立つ隊長のそばへと近づいた。
「様子は、どうだ。まだ何も分からないか」
唇をかみしめ、扉を見据える横顔に声をかけると、隊長ははっとした様子で顔を上げて振り返った。相手が誰だか分からないとでもいうように何度か瞬きをした後、ぎこちなく首を振った。
「……さっきまで呻き声が聞こえてきてたけど、今は静かになってる。まだ誰も出てこない」
「そうか……」
呻く元気もなくなった、なんて事でなければいいが。そう思いながら、相馬はじっと隊長を見た。
常に明るく笑っているような、隊長と言うにも威厳のないのんきな表情はいま、固くこわばって青ざめている。
数時間ずっとここに立ちっぱなしだったのだろうか、と思ったのは、自身も少なくない怪我を負っているというのに、それも放置されたままになっているからだ。
「お前は大丈夫か。心配なのはわかるが、ここでお前まで倒れては困る。怪我の手当てをしてこい」
腰から下がる飾り帯にじわじわと血がにじんでいくのを見て取り、相馬は命令する。
しかし、隊長はまたかぶりを振った。蒼白の表情のまま、再び開かぬ扉へと視線を戻す。
「こんな怪我、大した事ない。……息吹が私をかばってくれたから、この程度で済んだんだ」
ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえる。相馬は目を細めた。
今この中で手術を受けているのは、あの伊達男だ。言葉や態度こそ軽いが、あの男の戦いぶりは見事で、普段なら大型鬼の攻撃をまともに受けるような下手は打たない。
だが今回、大型鬼が隊長の真後ろに突然現れたのが不運だった。
隊長が気づいて回避しようとしたところに鬼の剛腕が襲い掛かり、あわや頭が砕かれるという一瞬、息吹が彼女を突き飛ばしてそれを代わりに受けてしまったのだ。
息吹の痩身があっけないほど簡単に吹き飛ばされ、地面に投げ出された。
鬼に抗するのに精いっぱいで、誰もすぐに助けに行くことが出来なかった。
しばしの攻防の後、ようやく手の空いた那木と相馬が駆け寄った時、息吹は息も絶え絶え、色鮮やかな陣羽織は見るも無残に鮮血で染まっていた。すぐさま那木はてきぱきと応急手当てを行い、
『相馬様、息吹様を里までお連れください。大丈夫、必ず私がお助けします』
凛とした命令を発した。その強さに背を押されるように、相馬は息吹を抱え、仲間と共に里へ戻り……そして今に至る。
「私が……私が油断していなかったら、あそこで敵の攻撃を避けられたのに……」
隊長は拳を握りしめ、悔いに顔を歪めている。ついたての向こうにいる仲間を憚ってか、小さく囁かれる声は震えた。よせ、と相馬はそれを制した。
「たらればと言葉をもてあそんだところで、現実はかわらん。那木は必ずあいつを助けると言っていた。
お前が今すべき事は仲間を信じる事であって、ぐだぐだと後悔する事じゃないだろう」
ぐい、と肩を押してこちらを向かせると、彼女はぐっと唇を引き結び、何かを耐えるような顔をしていた。それを見据え、相馬は厳しい声音で告げる。
「お前は討伐隊の隊長だろう。そんな情けない顔をしていたら、他の連中が不安がる。どれだけ心配だろうと、それを表に出すな。堂々と構えていろ」
上に立つ者が動揺すれば、周囲に影響を与える。軍隊然とした組織であってもそうなのだから、まして仲良しこよしで繋がっているウタカタ討伐隊の連中ではなおさらだろう。ゆえに動揺を隠せと告げる相馬に、しかし隊長はかえって、泣きそうな顔になってしまった。
「だって……だって、相馬」
常ならば跳ねるような明るい声音が、揺れる。みるみるうちに、大きな瞳に涙がたまり、溢れて頬を伝い落ちる。
「どうしよう……息吹が死んでしまったら、どうしよう……!」
弱音を吐露した途端、隊長は泣き始めてしまった。ぼろぼろと涙をこぼし、ひっくひっくとしゃっくり上げ始める様は、まるで子供のようだ。それを目にした相馬は、一瞬息を飲むほど驚いた。
(こいつがこんなに弱っているのを見るのは、初めてだ)
彼女は常に前向きで、仲間の誰かが弱気になっていてもそれを豪快に笑って励ますような、そんな明るさの持ち主だと思っていた。
相馬がここへ来てまだ数か月、そう長い付き合いでもないが、彼女がこれほど落ち込んでいるのは、見たことがない。
(仲間が自分のせいで死にかけているからか。……それとも、あの男だからか)
ちらりと心をかすめた疑問は、すぐに封殺した。今はそんな事を考えている場合ではない。
ついたてで隠されているとはいえ、このままでは他の仲間に隊長の様子がおかしい事が気づかれてしまう。
「……いいから落ち着け」
どうするか考えた挙句、相馬は手を伸ばした。彼女の頭を自分の肩に引き寄せ、顔をうずめさせる。
これなら声が漏れるのも少しは抑えられるだろうと思ったのだが、隊長がびくっとして体を硬直させたので、かえって緊張させるか、とも考える。が、今更退けない。
「よく考えろ。あのバカがこの程度であっさり死ぬわけないだろう」
本当は人は簡単にあっけなく死ぬけれど、と過去を思いながら、相馬は彼女の耳元に柔らかく語り掛けた。
「憎まれっこ世にはばかる、というしな。世の女という女を口説き落とすまで、あいつがあっさり今世に別れを告げるわけがないさ」
軽口を交えて、だから安心しろ、と頭をぽんぽん叩く。
「何より、これほど心配してくれる仲間たちがいるんだ。帰ってくる。……あいつは必ず帰ってくるさ。それを何よりも、お前が信じてやれ」
「…………」
隊長の体から硬直が抜け、泣き声が収まる。子をあやすように、しばらくその態勢で相馬が彼女の頭をなでていると、ふ、と吐息のような微笑が聞こえた。
「……そうだね。私が信じなきゃだめだ」
すっとあげた顔は、涙の跡を残していたが、先ほどよりは晴れた表情をしている。赤く潤んだ瞳で、隊長は懸命に笑ってみせた。
「ありがとう、相馬。息吹を、那木を、信じて待つよ。……ありがとう」
「ああ、いや……気にするな」
心からの感謝を込めての礼を繰り返され、相馬は不意に照れくさくなって身を離した。そこへ戸がガラリと開き、中で那木が目を丸くした。
「まぁ、ずっとここにおいでだったのですか! 怪我の手当てをなさってくださいと申し上げましたのに」
開口一番、柳眉を逆立てて叱責する那木。それはいいから、と隊長は前のめりになって、
「それより那木、息吹は!? 大丈夫なの!」
声を張り上げて詰め寄った。剣幕にたじたじとなりながらも、那木はにっこり微笑んで頷く。
「ええ、手術は無事終わりました。今はぐっすり眠っていらっしゃいますので、すぐお会いにはなれませんが」
「それほんと!? よかったぁ……」
「ったく、伊達男も人騒がせな奴だぜ」
「…………重畳だ」
「お疲れ様、那木。君もよく頑張ってくれたな」
二人の会話を聞きつけて、討伐隊の仲間たちがどっと駆け寄ってくる。それに押された相馬は入口から離れ、わいわいと仲間の生還を喜ぶ彼らの姿に微笑した。
(あの男は個人的には好かんが、生きて戻ったのならよかった)
数多の死を目にしてきた相馬だが、いつまで経っても喪失に慣れはしない。
身をえぐられるようなあの悲しみを、気のいいウタカタ討伐隊の連中が――隊長をつとめる彼女が、経験することにならなくて、本当によかった。
息吹が無事とわかったからには、もう用はない。
誰に声をかけるでもなくその場を立ち去り、本部の出口を出た相馬は、階段を下りながら、ふと肩に手を寄せた。その指先がわずかな湿り気とぬくもりを探り当てる。
『息吹が死んでしまったら、どうしよう……!』
初めて見た泣き顔、初めて聞いた弱音。それが頭から離れないのは何故なのか。その答えを知っている相馬は、
「……俺が死んだ時も、お前は泣いてくれるのかな」
そんな事を思う不謹慎な己に苦笑して、彼女の涙がしみ込んだ服の肩を、ぐっと握りしめたのだった。