惚れてねぇ。たとえ隊長がそう言ったとしても、俺はあんな奴には惚れてねぇんだ。
「一角」
「……」
「ちょっと、一角!」
「うぉわっ!?」
耳のそばで大きな声を出されて、一角は飛び上がってしまった。驚きすぎて椅子から落ちそうになって、慌てて体勢を立て直す。
「何してるのさ、一角」
呆れたように言うのは、書類を手にした弓親だ。
「な、何してるって、お前のせいでこけそうになってんだろ!?」
何、馬鹿な事してるなぁって顔してんだ、てめぇ! 怒鳴ると、弓親はふ、とため息をついた。
「僕の呼びかけに全然気づかないのが悪いんじゃないか。何見てたのさ」
「あっ、ちょっと待て!」
慌てて止めようとするも遅かった。弓親は一角を押しのけて外を見、それからあぁ、と声をもらす。
「雪音ちゃん、こっち来てたんだ。何だ、また見とれてたの?」
「みっ、見とれてなんかいねぇ! ちょっと思索に耽ってただけだ!」
とっさに心にもない事を言い訳に使ったが、我ながら説得力は皆無だ。弓親はふーん、と半眼でこちらを見やる。
「思索じゃなくて妄想じゃないの? そんな必死になって否定するところを見ると」
「う、うるせぇ! 違ぇよ! あんな奴に何で俺が……」
「あんな奴、だからだろ?」
弓親は一角の動揺なんて関係ないとばかりに、机に座って書類を広げた。
「別に好きなら好きで良いじゃないか、変に誤魔化さなくても」
「なっ……」
ずばっと言われ、顔に血が上るのを感じた。だん、と椅子を蹴って立ち上がり、
「だ、誰もそんな事言ってねぇだろ!」
詰め寄るが、弓親はしっしっ、とすげなく手を振った。
「はいはい、分かったから、うるさくするなら余所へいきなよ。僕はこれから仕事するんだから」
――違う。俺はあんな奴になんて、惚れてねぇ。絶対に惚れてなんかねぇんだ。
弓親に部屋を追い出された一角は、敢えて雪音が居ない方へ足を運びながら思う。
妙に雪音が目につくようになったのは、あの見舞いの時からだ。
それまでどうという事も無かった雪音の一挙手一投足がなぜか気になって、いや関係ねぇだろ俺には、と無理やり視線をはがす事が多くなった。
――そうだ、俺は別にあいつに惚れてなんかいねぇ。
言い聞かせるように胸の中で繰り返す。
どうして俺が、あんな奴に惚れなきゃいけねぇんだ。あんな、乱暴で口が悪くて色気が無くて酒癖悪い女、誰が。
と、思っていたのに。
「一角、ついでついでー! どんどんつげー!」
いつもの飲み会で、いつも通り酔っ払って一角に酌を強要してくる雪音。
「うるせぇな、ちょっとは黙れこの酔っぱらいが!」
こっちの気も知らねぇでこの野郎、と苛々した気持ちで怒鳴りつけると、雪音はむうっと眉間にしわを寄せた。その後、いきなり抱きついてくる。
「うぉっ?!」
横から、右手ごと腰を抱え込まれて、一角は思わず声を上げてしまった。
酔っ払ってるせいか、雪音は思いの外強い力でぎゅうっとしがみついてくる。
「な、何しやがる!」
つい焦ってどもると、雪音は顎で腕をぐりぐり押しながら、
「なによーこのハゲ、あたしの酒が飲めないってのー!? 文句言わずにとっとと飲めってのよー!」
ろれつの怪しい口調でぐだぐだと絡んでくる。しかしその口調はともかく、一角にくっついたまま上目遣いにこっちを見上げる雪音の、顔が。
酒で我を忘れてるせいか、上気した頬と潤んだ目が、とんでもなく色っぽく見えて、しかも押しつけられる柔らかい感触、が。
「…………!」
瞬間、一角はくらっとした。血が逆流する音さえ聞こえそうなほど身体が熱くなって、腹が疼く。
(やべぇっ……!)
「うひゃあ!」
「きゃっ!?」
そう思った次の瞬間、思わず力一杯雪音をはねのけてしまった。
吹っ飛ばされた雪音は、後ろに居た伊勢に勢いよくぶつかる。雪音は仰向けに転がって悲鳴を上げた。
「いたーいっ! 何すんのよぉーう!!」
「な、ど、どうしたんですか、鑑原さんっ」
ずり落ちかけた眼鏡を直して問う伊勢。雪音は唇を尖らせてくるっと向きをかえ、
「伊勢さぁん、あほハゲに暴力振るわれたー!!」
泣き言を言いながら、今度は伊勢にガバッと抱きつく。
「きゃあっ! ちょ、ちょっと鑑原さん、しがみつくの止めてください!」
伊勢は焦って雪音を引きはがそうとしたが、酔っ払いにはその抵抗も楽しいらしく、
「えぇーやだぁ、伊勢さんいー匂いするもーん。やっぱり女の子って柔らかくて気持ちいー♪」
などと言いながら、伊勢に頬ずりしている。
「何を言ってるんですか、は、早く離れて……」
「あぁいいなぁ、雪音ちゃん。ボクも七緒ちゃんだっこしたいなぁ」
二人がじゃれているところに、京楽隊長がだらーん、と鼻の下を伸ばしていざりよっていく。伊勢は雪音を押しのけようとしながら、
「却下です! 隊長はそれ以上近づかないでください!
ま、斑目さん、呆然としてないで、鑑原さんをどうにかしていただけませんか?!」
助けを求めてくる。
「……あっ、あぁ」
一角はハッと我に返って、雪音の襟首を掴んで引きはがした。
「うにゃー! はなせつるりんーー!」
じたばた、と暴れる雪音。
いつもならここで説教の一つでも始めるところだが、一角は自分の鼓動が激しくなってる事に動揺して、雪音を見ていられなくて、そのまま投げ捨てるように放り出してしまった。
「うきゃーっ!」
「うわっ?! ちょ、一角さん何してんスか、雪音さん怪我しますって!」
ちょうどそこに居た恋次が、一瞬宙を舞った雪音を受け止めて、抗議の声を上げる。
だが一角はうるせぇ、と怒鳴って席を立った。草履を引っかけて店の中を足早に抜け、厠へ飛び込む。
「……はっ……」
誰もいねぇのが幸いだった。ずかずか入り込んで洗面台にバンッと手をつき、息を吐き出した。
口から心の臓を吐きそうな勢いで、ばくばくと激しい鼓動がする。
熱くなった身体はにじんだ汗のせいで冷えて、熱と冷気を同時に発していて気持ち悪い。
――酔っ払ったあいつに、あんな風に抱きつかれる事なんて、これまで何度もあった。
――それなのに、今更馬鹿みてぇに狼狽えるなんて、どうしたんだ俺。
「はっ……くそっ」
一角は息を荒げたまま顔を上げた。そして息を止めた。
薄汚れた鏡に映った自分の顔は動揺して、みっともないくらい赤くなっていた。
飢えた顔だ。ねだる顔だ。欲しい欲しい、と叫んでる、そんな顔だ。
(こんな顔を、俺はあいつに見られて)
「っ……!」
一角は喉を鳴らして唾を飲み込むと、蛇口をひねり、勢いよくほとばしり出た水を浴びた。
火照った頭は冷たい水をかぶって、少しずつ冷やされていった。
「一角」
「……」
「おーい、一角?」
「さっきから何だよ」
後ろからかけられた弓親の声に、振り返らないまま応えたら、弓親は驚いたようだった。
「あれ、今度は気がついてたんだ。また、雪音ちゃんに見とれてたのかと思ったのに」
「うるせぇ」
一角は低い声で唸った。弓親の言う通り、視線の先には、ファイルを抱えて廊下を歩いていく雪音の姿がある。
前と同じ状況だったが、もう否定する気はない。
「弓親」
「ん?」
一角に倣って木陰に腰を下ろす弓親に、言う。
「俺、あいつに惚れてるわ」
「え」
さらっとした告白に、弓親はこちらを振り返り、一角の顔を見て、それから、
「……ふーん。そうなんだ」
そう言って、幹にもたれかかる。
「おう」
一角は短く応えた。
弓親とは長い付き合いだ、顔を見れば一角が何を考えてるかくらい、分かるんだろう。
余計な事を聞いてこない距離感が心地良くて、こいつになら言っても大丈夫だと思うから、初めてそれを、言葉にした。
言葉にしたら、もやもやしてたものが晴れて、すっきりした。
雪音はこっちに気づかないまま、建物の中へと入っていく。
目を閉じ、その微かな霊圧を追いながら、一角は思う。
しょうがねぇ。一度でもあいつが女だと意識しちまったら、もう口先の言葉で誤魔化してなんかいられねぇから、認めるしかねぇよ。
惚れてる。俺の理性がどんだけ否定しようとしても、俺はあいつに惚れてるんだ。