迫りくる刃を、紙一重で避けた。そう思ったのに、刃先が髪飾りに引っかかった。
プツッ……ブチンッ
髪を束ねていたそれが引っ張られて、伸び切った糸がちぎれる。あ、と思った時には真珠の玉と、同時に切り払われた黒髪が空中に飛び散った。それを視界の端に見ながら、
「……こんのぉ!!」
ざんっと地面を踏みしめて手中の剣を持ち直し、それを勢いよく振り上げた。
横殴りの斬撃で大きな隙のできた敵を、胴から頭まで切り裂く。
一対の鎌を有した鬼、ワイラは甲高い悲鳴を上げ、蛇に似た体躯を地面に投げ出した。しばらくじたばたともがき苦しんだ後、不意に脱力し、湾曲した角の間にある牙の口から細く息を吐き出して絶命する。
「ああもう……何て事を」
瘴気の黒い霧がその体からわきあがるのを見て、舌打ちする。早々に浄化しなければと両腕を交差して、鬼祓いを始める。清浄な光を浴びた死体が徐々にその実体を薄くしていく中、他の鬼を片付けた那木が駆け寄ってきて手伝ってくれた。
「ふう……これでこの領域の鬼は全て倒しましたね。後は帰還を……まぁ、隊長! 髪を切られてしまったのですか!?」
鬼が浄化されたのを見届けた那木がこちらを見て、素っ頓狂な声を上げた。
うんまぁね、とため息をついて、ざんばらに切られた右側の一房を指でつまむ。
モノノフと言えど、少しくらいは女らしく見えるかと長く伸ばしてきた髪が不恰好に切られてしまったのは悲しい。けれど今はそれ以上に、
「ごめん、那木。せっかくもらった髪飾りが壊れちゃった……」
その事の方が辛かった。背中半ほどまで伸びた髪は、那木からもらった真珠の髪飾りで束ねていたのだ。
お揃いの飾りはいかにも仲良しという感じで、那木から贈られた時はとても嬉しかったし、これを付けていれば自分は一人ではないのだとお守りのように心強かったのに。
せめてばらばらになったものを拾えないかとあたりを見渡してみたが、足首ほどの水がたまったこの場所は泥が渦巻いて、自分のつま先さえ見えない。
これでは、無数に散らばっている真珠を探し出すなど、不可能だろう。
「いいえ、そんな事は……それよりもせっかく綺麗なお髪ですのに、鬼に切られてしまうなんて……」
泥に手を突っ込もうとするのを制して、那木がひどく悲しそうに言う。その表情を見ていたくなくて、背筋を伸ばして笑ってみせた。
「髪なんて後でいくらでも伸びてくるもの、大丈夫だよ。頭を狙われて怪我しなくて良かったと思えば、これくらい安い安い」
「隊長……」
「おーい、大丈夫か? お二人さん」
もう一人、同行者の息吹がばしゃばしゃと水をはねながら近づいてきた。懐から懐中時計を取り出してこちらに向け、
「そろそろ活動限界時間だ。戻らないとやばいぜ……っと、隊長? どうしたんだ、その頭」
帰還を促そうとして目を丸くする。事の次第を知ったら息吹もまた労わりの言葉を向けてくるだろう。そのやりとりをするのも気が沈むので、軽く肩を竦ませて歩き出す。
「いや、何でもないよ。さぁ、ウタカタに戻ろう――今日も五体満足でよかったね」
息吹が後をついてきていないと気づいたのは、里へ戻る門までたどりついた時だった。
「あれっ? 後ろから来てると思ったのに」
「わたくしも気づきませんでしたわ。いつの間に……どちらへいらっしゃるのでしょう」
自分は帰路をたどる事、那木はこちらの髪の事を気にしていたので、最後尾の息吹の不在に気づいていなかったのだ。
まずい、と焦りがこみ上げてくる。さっき息吹が言ったように、今日の活動時間は限界を迎えようとしている。いくら瘴気に強いモノノフと言えど、限界を超えて異界にとどまれば、影響は免れえない。
更に単独で残っているのがまずい。大和が基本、任務は二人以上で受ける事と厳命しているのは、不測の事態に対応できるようにするためだ。
(もし息吹が瘴気にやられたり、鬼に襲われたりしたら……)
ぞっと寒気が背中をかけ上る。
「那木、戻ろう! 早く探しに行かなきゃ!」
「は、はい!」
怯えに押されるように身をひるがえすと、那木も慌ててそれに従った。が、数歩も行かないうちに、前方から軽やかな足取りで走ってくる息吹の姿が目に入った。
「息吹!」
「あー悪い悪い! 待たせちまったな」
「息吹様! どこへ行ってらしたのですか」
「そうだよ、一人で行動しちゃ駄目じゃないか! 一声かけてくれれば一緒に行ったのに」
「本当に悪かった。ちょっと寄り道してただけだ……隊長、手を出してくれ」
「え? ……ああ、うん?」
息吹が戻ってきた事に安堵して、よくわからないまま右手を差し出す。と、息吹はその掌に何か小さなものをぽろぽろとこぼし落とした。何かと覗き込んでみて、目を見開く。
「えっ……息吹これ……!」
それは泥にまみれた真珠の粒だった。その大きさからして、先ほどまで自身の髪にまとっていた飾りのそれのように見える。驚いて改めて息吹を見返してみれば、羽織の長い裾や靴もまた泥に汚れていて、伊達男の衣装も台無しだ。まぁ、と那木もまた感嘆の声を漏らす。
「もしかして息吹様、これを拾いに戻っていらしたのですか」
息吹は顔についた泥を拭って、
「ああ、とても全部は無理だったけどな」
「何でそんな事……あんなところで探すのなんて、大変だったんじゃ」
小さな真珠を泥水の中から見つけ出す、しかも活動時間内になんて不可能だ。自分ひとりだけならともかく、それで仲間を危険にさらすわけにはいかないと、泣く泣くあの場から離脱したというのに。あっけにとられて問いかけると、息吹は笑って肩を上下させた。
「あんたがあれをどんなに大事にしてたかは知ってたからね。いつも世話になってるんだ、少しくらい力になりたいと思っただけだよ」
それから、と少し身をかがめると、息吹は懐から細長いものを取り出した。
「その飾りが直るまで、こいつを代わりにつけたらどうかな。まぁ拾い物なんで、たたらのじいさんに手を入れてもらった方がいいだろうけど」
すっと差し出されたのは、異界でたまに見つける事のある、飾りかんざしだった。とうの昔に持ち主をなくしたかんざしは金箔が剥げ、飾りの石も脱落している部分があって、生来の美しさは失われている。
「息吹……」
だが、これが息吹なりの労わりなのだと思うと、声が詰まってしまった。
少し迷った後、おずおずとそれを受け取り、いったん真珠を那木に預けて髪をまとめる。かんざしは何の抵抗もなく髪に滑り込み、無残に切り払われた部分も綺麗にまとめ上げてくれる。
「……ありがとう、ちょうどいいみたいだ」
「うん、さすが隊長。味気ないかんざしも、あんたがつけると光輝いて見えるな」
「お、大げさだな、息吹は」
「ふふっ。ええ隊長、とてもお似合いですよ」
三人で顔を見合わせ、朗らかな笑い声をあげる。と、息吹の胸元から、りりりり……と澄んだ音が響き始めた。
「っと、まずいな時間だ。早く里に戻ろう。とっとと風呂に入って、この一張羅も洗わなきゃな」
「そうですね、参りましょう。隊長、禊場は今頃女性の時間帯でしょうから、私たちは一足先に清めに向かいましょうか」
「うん、そうしようか。さすがに体が重たくなってきた気がする」
互いに言い交しながら、隊長たる自分を先頭に、異界の出口門へと足を踏み入れる。時空のゆがみを潜り抜ける時にいつも襲われる、眩暈と揺らぎに顔をしかめながら、手を握りしめた。
手中には髪飾りの残骸としていくつかの真珠、頭頂にさしたのは色あせたかんざし。
仲間からの思いがこもったそれらの重みを、ひしひしと感じる。
(……たたらに、この二つを組み合わせて髪飾りを作ってもらおう)
たたらはきっと渋い顔をするだろうけど、わけを聞いたらきっと快く引き受けてくれることだろう。那木と息吹、二人の気持ちがこもった美しいかんざしを思い描けば、自然と顔がほころんだ。
――つくづく、私は幸せ者だな、と思う。
真珠=月のしずくというそうな。