ブライトを乗り越え、瀕死の重傷もすっかり癒えたウォーデンが、引き留める声を振り切ってデネリムを出、気ままな旅路についたある日。
「――そういえば、シャーリィン。君のヴァラスリンは顔じゃなく、背中にあるんだね」
山中で野営の夕食を終えたゼブランが、ふと思い出して言った。たき火の光でその純白の姿を橙色に彩られ、ゆったりとくつろいで座っていたシャーリィンが、ん? と顔を上げる。
「君に初めて会った時、不思議に思ったんだ。君はどう見てもデイルズエルフなのに、ヴァラスリンが見あたらなかったものだから」
「ああ……そういう事なら、私もお前を見て、違和感を覚えたな。一見してシティエルフのようなのに、お前には印がある」
食器を脇に避け、シャーリィンはゼブランの頬に触れた。ほっそりした指にヴァラスリンをなぞられ、ゼブランは思わずうっとりしてしまった。あぁ、とため息を漏らし、自分もシャーリィンの片頬を右手で包んで、微笑む。
「僕のは母親の影響さ。黒カラスに売られる前にせめてもと、儀式を行ったんだ。デイルズである事を決して忘れないで欲しいと母が言うものだから。その時はまだ子供だったから、痛くて痛くて仕方がなかったけど、やり遂げてよくやったと誉められた時は、誇らしさで胸がいっぱいになったものだよ。君はどうだった?」
問いかけると、シャーリィンはちょっと顔をしかめた。ゼブランに触れていた手を引いて、
「私も最初は顔に、ちょうどお前と同じような位置に入れるつもりだったんだが、どうしてか伝承者様に反対されてな。散々話し合ったあげく、首の後ろ、人の目につかない場所に入れるように命じられてしまった」
苦々しい表情で、首の後ろに手を当てる。首筋をちょうど覆うくらいの長さの、銀糸のような髪の下に、シャーリィンのヴァラスリンはある。
「ヴァラスリンはデイルズの誇りの象徴だ。私はそんな見えないところに彫るのは嫌だと言ったんだが、部族の誰もが、タムレンさえ反対したものだから、どうしようもなくて」
「ははぁ、そんなに反対されたのか」
部族の皆がこぞって、というのは異例だ――が、ゼブランは彼らの気持ちが何となくわかるような気がした。
シャーリィンのように、奇跡的なまでに美しく整った顔に、いくら儀式によるものとはいえ、それに傷をつけるのは勿体ないと――神の像を卑しめるようないたたまれなさをも感じたのではないかと思う。
(その場にいたら、僕だってきっと猛反対しただろうな)
しかし、自身の容貌にてんで頓着しない当の本人は、理不尽な決定が今でも不満らしい。むう、と眉根を寄せ、
「だがそれでは、まるで私が傷がつく事を嫌がって、敢えて見えない場所に彫ったみたいじゃないか。それならせめて私の種族に対する思い入れを示そうと思って、大きく入れてもらったんだ」
「ああ。確かに大きいね、君のヴァラスリンは」
初めてそれに触れた時は、ゼブランも驚いたものだ。
ヴァラスリンは個々人で模様や大きさが異なるものだが、たいがい顔に彫るものだから、その大きさはたかがしれている。
しかしシャーリィンの場合、その文様は首から始まり、背の中ほどまで広がっていて、異様なほど大きなものだった。
「あんなにヴァラスリンを入れるなんて、正気とは思えないな。儀式にかなり時間がかかっただろうし、痛みも相当だっただろう?」
それを想像してぶるっと震えるゼブランに、シャーリィンは肩をすくめた。
「私は自分の気概を示したかったんだ。いつまでも泣いてばかりで何も出来ないと思われたくなかった――早く大人になって、自分の力を示したかった。だから必死で耐えた。途中、何度も気を失いそうになったが」
「……ふぅん」
膝に頬杖をつき、ゼブランは目を細めた。
シャーリィンが早く一人前として認めてもらいたいと焦ったのは、両親を早くに亡くし、部族の皆に手間をかけさせていたからだろうか。
これほどの美貌なら、周囲の者達は彼女を宝物のように扱った事だろう。それはヴァラスリンを顔に入れさせなかった事からも察せられるし、そういった周りの過保護な対応に、彼女が反発しただろうというのも、容易に想像できる。
(それであんなに広範囲に彫ったのだとしたら、全く大した意地っ張りだ)
「シャーリィン」
くすりと笑った後、ゼブランは彼女のすぐそばに身を寄せた。不意の接近に未だ慣れないのか、びくっとして「な、何だ?」体を反対側にやや傾けてこちらを見上げるシャーリィンの背中に手を回し、
「君のヴァラスリン、明かりの下でじっくり見てみたいな。いつも暗闇で触るだけだから、どんなものか目にした事がない」
手で覚えてる感触を頼りに、服の上から模様をたどってなで回してみる。途端、シャーリィンの顔がぼっと火を噴きそうな勢いで真っ赤になり、
「なっ、な、何を言ってるんだお前は、そっ、そんな事をこんな外でっ!」
彼女のけぞって甲高く拒否した。だが、ゼブランは素早くシャーリィンの背後に回って腰に手を回し、
「夜も更けたこんな山奥に通りかかる旅人なんていないよ、せいぜい獣のたぐいがのぞきにくるだけさ。それにたまには満天の星空の下で、一糸も纏わず愛し合うっていうのも、ロマンティックじゃないか?」
ニヤリと笑いながら、髪の合間から覗く白い首筋に、音高く口づける。
「ちょ、ちょっと待てゼブラン、こんな、せめてテントの中で、だから、ぅあっ……!」
そして懸命に抵抗を試みる可愛い恋人の抗議をいっさい無視して、手際よく事を進めた後――炎の優しい光に照らし出された、淡く紅潮した背中のヴァラスリンにも、ゼブランは心行くまで優しい愛撫と口づけを注いで、その夜を楽しく過ごしたのだった。