辿るは女神の足跡 – 閨物語

 宴は夜が明けるまで続きそうな気配だったので結局、シャーリィンは途中で場を辞した。
「うー……」
「大丈夫かい? シャーリィン。だから飲み過ぎだと言ったのに」
 酔いが回ってまともに歩けない彼女にゼブランが付き添っていた。
 怪我がまだ治りきらずに不自由な足は、酒のせいで更に心許ないようだ。杖をつくとかえって転びそうなので、ゼブランはシャーリィンの腕を肩に、腰には手を回す格好で、苦労して自室まで連れて帰ってきた。
 暖炉の火が絶えずともされた暖かい室内に足を踏み入れ、シャーリィンはだいじょうぶ、とやや頼りない口調で応えた。
「このくらい……何ともない。オグレンなんかより、ずっと、少ない」
「酒樽ドワーフを基準にするのは間違ってると思うな。君は元々強くないのだから、気をつけなきゃ。ほら、座って」
 毛足の長い絨毯を踏みしめて奥に進み、寝台の上にゆっくりと座らせる。ふんわりと体を受け止める柔らかい感触にほっとした様子で、シャーリィンはドレスの下でぱたぱたと足を動かした。
「だってあのブランデーがおいしかったんだ。今まで飲んだことのない味だった。あれはどこのだったか、勧めてくれた、伯爵だかなんだかが教えてくれたが」
「西方丘陵産だね、確かにあれは美味かった」
 同意するゼブランはさりげなく隣に座った。それは互いの腕が触れ合うほどの近さだったので、普段のシャーリィンなら慌てて距離を取っていただろう。しかし今は警戒心もゆるんでいるらしく、頬をほんのり紅潮させて、話し続ける。
「それにあのスープも美味かった。アリスターはどろどろになるまで煮込むのがフェレルデン流だなんて言ってたが、大嘘だな。ハーブが何種類も……たぶん、五種類? そのくらい使われていて、とても優しい舌触りだった。作り方を知りたいくらいだ」
「君はずいぶん食事を堪能したらしいね」
 話題がそれしかないのか、と可笑しくなってからかうと、シャーリィンは大きく頷いて見せた。
「ウォーデンになってからというもの、常に空腹と戦わなければならないからな。今日は初めて満足いくまで食べられたから、嬉しい。気持ちよくて、眠くなってくる」
「ンー……そうか」
 確かにとろんとした瞳は今にも瞼がくっつきそうだ。シャーリィンが幸せなのは喜ばしい事なので、今の彼女を見ていると心和む――が、しかし。このまま眠りに落ちてしまわれると、おもしろくない。
「シャーリィン」
 なのでゼブランは手を伸ばし、シャーリィンの髪に触れた。するりと髪飾りを引き抜く。
「ん……?」
 まとめていた髪がふわりと広がり、首筋に当たったので、シャーリィンが目を瞬いてゼブランを見た。
 夢見がちに焦点のずれた眼差しは、快楽のただ中にいるかのような艶を帯び、誘っているようにも見える。胸の鼓動がどきんと大きく鳴るのを聞きながら、
「……気持ち良い事なら、他にもあるだろう? 例えば、これとか」
 ゼブランは身を寄せ、数ヶ月ぶりにシャーリィンの唇に触れた。
「……っ」
 重ねた唇の下で、シャーリィンが怖じ気付くように震える。それを感じてゼブランは焦らず、優しい口づけを続けた。
 そのふっくらとした表面をなぞり、僅かにこぼれる吐息を吸い、熱を帯びた下唇を軽くはむ。同時に、ショールを払いのけてむき出しの首筋に手を滑らせ、鎖骨を通り過ぎてその下の膨らみに手のひらを押し当てると、
「あ……ま、待て、ゼブランっ」
 シャーリィンが慌てて頭を引いて、それを止めた。今の口づけで、酔いとは別の要因で顔を真っ赤に染めたシャーリィンは、いつにも増して愛らしい。恥ずかしそうに俯く様に尚更煽られて、ゼブランは待てないよ、と熱く囁きかけた。
「言っただろう? この三ヶ月、君の事ばかり考えていて、我慢も限界だ。これ以上待てだなんて残酷な命令をしないでほしい……それとも、まだ体に不調が? 見たところ、足以外は問題ないように思えるけど」
「それは……そう、それだ」
 ゼブランの肩に手を当ててぐいと後ろに押し、シャーリィンは呻く。それって何が、と問いかけると、彼女の視線が下向き、彷徨いた。
「だから、その……問題はあるんだ。足について」
「というと?」
 首を傾げるゼブラン。
 確かに彼女の足は完治しておらず、未だ杖無しで出歩く事が出来ない。とはいえ痛みもだいぶおさまっており、日常生活にはほとんど支障はないと、本人が言っていた。その上今はベッドにいるのだから、歩き回る必要もなく、不都合など生じないはずだ。
 しかしシャーリィンはしばし逡巡した後、ため息をついて言った。
「要するに……私が足を無くしかけた時の事は覚えているだろう?」
「もちろん」
 あの凄まじい場面は、忘れようにも忘れられない。自身の心臓も止まったかと思うほど、衝撃的で凄惨だったのだから。
「あの時アーチデーモンによって、私の足は粉々に砕かれた。モリガンやウィン達が最大限努力してくれたから、こうして歩けるようにはなったが」
 シャーリィンは服の上から膝をさすり、表情を暗くする。なおも躊躇いつつ、
「……アーチデーモンの牙はあまりにも深く食い込み、数え切れないほどの傷を刻みつけた。この足は今、自分でもぞっとするほど、傷だらけで醜い。あまり……人には、見せたくないんだ」
「シャーリィン……」
 思いがけない告白に、ゼブランは息を飲んだ。神の恩寵を一身に受けたかのような美しいシャーリィン。決戦の前夜に触れた肌は滑らかで、その華奢な足も傷一つなく、彫像のように完璧に整っていた。その端正さにゼブランは感嘆のため息さえ漏らしたほどだが――それが失われてしまったとは。
「それもあって、レリアナはドレス作りを申し出てくれた。他のものが見れば、怖じ気付いてしまうだろうし、この足をしっかり隠すものにすると言ってくれたから」
 シャーリィンは沈んだ声でつぶやく。その視線は床に向いたままで、決してゼブランの方へは向かない。よほど傷跡を見せたくないのだろう。だから、と続ける。
「だからゼブラン。私はもう、お前には――」
「シャーリィン。僕に見せてはくれないか?」
 極端に走った提案がなされる前にと、ゼブランはその言葉を遮った。
「え?」
 予想外だったのか、きょとん、と目を瞬くシャーリィンの手を握り、ゼブランはニコリと微笑んでみせる。
「自分の目で見て、もし受け入れられないと思ったら、あるいは、君がどうしても見られるのが嫌だと言うのなら、その時は潔く身を引くよ。だから、見せてくれ」
「で……で、でもゼブラン、本当に、本当にひどいんだぞ?」
「それは分かったよ、シャーリィン。でも君だって前に言ったはずだろ――こちらの考えを勝手に決めつけるな、と。判断を下すのは僕自身だ、そうじゃないか?」
「う……」
 シャーリィンは言葉に詰まった。一方的な決め付けは公平ではない、そしてこのまっすぐなエルフは、不公平を嫌う。さんざん迷った結果、
「……出来れば、ショックを受けても隠してくれ……お前のそういう顔は、正直見たくない」
 かなり渋々といった様子で折れたので、ゼブランは請け合って、シャーリィンの前に膝をついた。そして彼女が控えめに、長い裾を持ち上げるのを目で追い……ふくらはぎ辺りまで、その足が露わになった時、ゼブランはついため息を漏らしてしまった。
 白い裾から見える足はほっそりとしていて、服にとけ込むかのように白い――だがそれは、傷のないほんの僅かな部分だけだ。
 すらりとした足の表面には、シャーリィンの言うとおり、無惨な傷跡がいくつも残っていた。
 怪我をいくら治しても、これだけは消しされなかったのだろうか、肉がむき出しになった跡を窺わせるピンク色のひきつれた傷跡が足の甲から上に向かって連なり、見るも痛々しい。
 これが一部ではなく、下半身全てに残っているのだとしたら、それは人に見せたくもないだろう。
 それに一体こんな大怪我をどうやって乗り越えたのか……その苦しみに思いを馳せ、ゼブランは胸が苦しくなってしまった。
「あぁ……何て事だ、シャーリィン……」
「……だから、見ない方がいいと、言ったのに」
「ん?」
 ふとつぶやきが聞こえて顔を上げると、シャーリィンが眉根を寄せて彼を見下ろしていた。悲しげなその表情は、ゼブランがこの傷跡に嫌悪していると勘違いしているせいだろうか。
「ウィンが言うには、もう少しだけなら消せるらしいが、全ては無理だそうだ。――ちょっと、ぞっとするだろう? 私だって毎朝、鏡の前で落ち着かなくなるくらいだ。お前が気持ち悪いと思うのも……」
「……誰もそんな事考えていないよ」
「え……えっ!?」
 これ以上、あんな顔をさせたくない。ゼブランはすっとシャーリィンの足を取り、その傷跡に口づけた。びくっと跳ねかけるのを両手で掴んで押さえ、
「ゼ、ゼブラン、おま、な、何をっ……!」
 慌てふためいて前に身を乗り出してくるのを無視して、甲に唇を寄せ、傷跡一つ一つを舌でなぞりながら少しずつ上にのぼっていく。
「や……ちょ、ちょっと……や、め……」
 逃げようと足に力が入ったのもつかの間、足首、ふくらはぎ、膝頭ときて、その先を覆う裾をたくしあげて太股の内側に舌を這わせると、シャーリィンは息を震わせた。その首筋や、傷跡の合間に覗く白い肌がほんのり紅潮し、ドレスの上で艶やかに色づく。
 その様にうっとりしながら、ゼブランはシャーリィンをベッドに倒して、のぞき込んで微笑んだ。
「僕はこの傷を醜いとは思わないよ、シャーリィン」
「え……」
 手のひらで足全体をなでさすり、囁く。柔らかい愛撫に戸惑いの表情を浮かべたシャーリィンの額に口づけ、
「だってこれは君が自分で戦ってきた証じゃないか。君はいつだって強く、美しい。誰よりも痛みを知り、他の者が傷つくくらいなら、自分の身を盾にするような、勇敢な戦士だ。その戦いの証を、どうして僕が嫌うと思う?」
「ゼブラン……」
「君はもう少し、僕を研究した方がいいな、シャーリィン。これで引き下がるほど、僕の思いは安いものじゃない。むしろ――他の男は誰も知らない君の秘密を目にして、前より興奮してるよ」
 そういって身を寄せると、その証拠を感じ取ったのか、シャーリィンはたちまち、耳まで真っ赤になった。
「な、だ、ぜ、ゼブラン、お前、それはその、つまり、そういうのが好きなのか!?」
「勘違いしないで欲しいな。どんな事であれ、君に関わるものなら僕はいつでも何でも大歓迎って事だよ。――さて、おしゃべりはこの辺で終わりにしようか」
 慌てるシャーリィンもまた可愛い。
 くすくす笑いを漏らしてゼブランは、まだ何かごちゃごちゃ言おうとする朱色の唇を塞ぎ、ブランデーの香りが混じる甘い吐息を思う存分味わった。
 そして、シャーリィンの背中に手を回して、ずらりと並ぶ小さなボタンを素早く外していき――
 その晩、決戦前の短く慌ただしかった初夜を取り戻そうとするかのように、ゼブランは夜が明ける寸前まで、恥ずかしがり屋の女神に心のこもった奉仕を捧げたのだった。