辿るは女神の足跡22

 ひゅう、と夜風が吹き抜け、人々のざわめきがかすかに聞こえてくる。戦の準備にいそしむ気配を聞きながら、シャーリィンはバルコニーに立ち、ため息をついた。
「……あれで本当に良かったんだろうか……」
 思い返してみると、まだ迷いが生じる。
 モリガンの提案を受けて、シャーリィンはアリスターを説得した。事情を詳しく話せないのでかなりしどろもどろになり、また顔も真っ赤になっていただろうから、アリスターからすれば不審きわまりなかったに違いない。
(それでも引き受けてくれたのは、彼の優しさなんだろうけど)
 これで良かったのか。モリガンは勝算がなければこんな手は打たないと言っていたが、儀式が確実に成功するのか、その後モリガンが無事子供を産む事が出来るのかは、誰にも分からない。
(……だめだな、考える事が多すぎて、眠れそうにない)
 明日の決戦に備えて休まなければならないのに。少し頭をひやしてから部屋に戻ろうと、シャーリィンは手すりに肘をついて虚空をぼんやり眺めた。
 篝火の焚かれたレッドクリフ城の周囲は明るく照らし出されているが、前方へ視線を転じれば、目がふさがれたような闇が広がっている。その先、ずっと先にあるはずのデネリムを思い、シャーリィンはぐっと拳を握った。
(いよいよ、アーチデーモンと対決する)
 幾度と無く夢に見た、天をつかんばかりの巨竜。これまではその威圧的な姿を恐ろしい、勝てるのだろうかと怯えていたというのに、今は何も感じない。いや、正確には、奇妙な親しみさえ覚える。
(グレイ・ウォーデンは皆、こんな風にアーチデーモンを近しく感じるものなのだろうか)
 宿敵であり、自身の分身。シャーリィンは近頃、アーチデーモンの存在をそう感じる事があった。あまりにも長い事、夢に見続けたせいか、あるいはこの体にとけ込んだ穢れの血が、少しずつ心を冒しているのか。もちろん、滅する事に迷いなど一片も無いけれど。
(もはや、ただのデイルズに戻る事は出来ないのだな)
 しみじみと実感する。
 この旅に出たばかりのシャーリィンは、タムレンを見つけて部族に帰る事しか考えていなかった。周囲の人間たちを疎み、遠ざけ、ひたすら自分の悲しみにだけ浸っていた、何とも愚かな娘だった。
 それが今や、国中の軍をかき集めてアーチデーモンを倒しにいこうというのだから、我ながら何という変わりぶりだろうと改めて驚いてしまう。
(……この旅が終わったら、私はどこへ行こう)
 アリスターは王になるので、当然デネリムに残るだろう。モリガンは宣言通り、姿を消してしまうに違いない。ウィンはサークルへ、スタンは故郷へ戻り、レリアナは旅に出るだろう。オグレンはフェルシの元へいくだろうし、シェイルは自由を得て好きなところへ出向くかもしれない。そして――
(……ゼブランは、どうするだろうな)
 彼を追ってきた黒カラスのタライセンを退けはしたが、いずれまた見つかるかも知れない。旅の仲間が居なくなれば、ゼブランは彼一人で黒カラスに対処しなければならず、その道のりは決して楽なものではないだろう。だとすれば、
(私が……一緒に行きたいといったら、拒まれはしないだろうか)
 デネリムで互いの気持ちを言葉にしたとはいえ、まだ実感がわかない。あの後からずっと、様々な事件に直面して、二人でじっくり語る時間など少しもとれはしなかったし、シャーリィン自身、彼にどう接していいのかも分からないままだった。
(ゼブランの誓約は、この旅が終わるまでだ。それなら、明日で全て終わる事になる)
 そうなればゼブランは自由だ。彼が何を選び、どう行動しようと、シャーリィンには口出しする権利はない。と思うのだが、もしそのままゼブランが行ってしまったらと思うと、またも胸がずきずきと痛んできた。顔をしかめ、胸を押さえてしまう。
(もし、明日を生き延びる事が出来たら。そうしたら、私は――)
「シャーリィン」
 不意にその声が耳に飛び込んできて、シャーリィンはびくっと肩を跳ね上げてしまった。反射的に振り返ると、たった今考えていたその人――ゼブランが屋内から外に出てくるところで、今度は心臓が跳ねる。
「ぜ、ゼブラン。何だってこんなところに?」
 驚きと動揺で口ごもりながら問いかけると、ゼブランは彼女の隣までやってきて、
「それはこっちの台詞だよ、シャーリィン。まだ寝ないのか? 明日は大仕事だっていうのに」
 普段と変わりない口調で語りかけてくる。「あ、あぁ」側に立たれると尚更どきどきしてきて、シャーリィンは心持ち体を反対側に傾け、明後日の方向に視線を向けた。
「いや、その、ちょっと眠れなくて。少し、頭を冷やそうと思ったんだ」
「そうか。それならワインでも持ってくれば良かったな。……緊張してるのかい?」
「緊張……そういう訳じゃない。ただ、考える事があれこれありすぎて、落ち着かないんだ」
 だろうねと、ゼブランは腰を曲げて、手すりに頬杖をつく。
「今や全軍の兵士が、君を勝利の女神と崇めたてているくらいだからな。期待を一身に背負わされちゃたまったものじゃないだろうね。とはいえ、諸侯会議であれだけ鮮明に印象づけてしまったら、そのイメージも覆しようがないけど」
「……あれは、伯爵がああしろというから……私が望んで演出した訳じゃない」
 嫌な事を思い出し、つい、むっとしてしまう。あの時はイーモン伯爵が呼びかけるまではフードで顔を隠し、目立たないようにして欲しいと頼まれたので、特に疑問に思わずその通りにしたが、
「見せ物にされるのは好きじゃない。あんな小芝居をしなくたって、イーモン伯爵なら上手く事を運んだだろうに」
 珍しい獣のように引き出されるのはたまったものではない。伯爵のやり方に異議を唱えるつもりはないが、次は絶対ないぞと心に誓っていると、ゼブランが笑い声を上げた。
「シャーリィン、君は本当に自分の事を分かってないんだな」
「え?」
 明るい笑い声に引き込まれてついゼブランへ顔を向けたシャーリィンは、どきりとして息を飲む。
 こちらを見つめるゼブランの表情はとても優しく、慈しむように柔らかい。以前とは異なる穏やかな眼差しは、しかし一度視線を合わせると外せなくなるような不思議な輝きを帯びている。
「君が姿を現した瞬間、あの場に居た者は残らず魅了されたはずだ。シャーリィン、君の美しさは、男も女もみんな夢中にさせる――もちろん、この僕も含めてね」
 身を起こしたゼブランは不意に距離を詰め、目の前に立った。遠慮がちに伸ばした手はシャーリィンの頬を包み込み、そっと撫でる。
「……っ」
 その優しい温もりに包まれ、シャーリィンは息が止まった。怖いくらい心臓がどきどき跳ね飛び、体がかぁっと熱くなる。ぶわっと汗が噴き出すのを感じて、
(う、うわ、ちょ、ちょっと待て近すぎる!!)
 シャーリィンはゼブランの手から逃れるように、ばっと俯いた。あまりにも近すぎて、息が出来なくなりそうだ。思わず、間近まで接近した体を少しでも離そうと、相手の胸に手をついて押しのけようとして、
「……シャーリィン」
「ぅわっ」
 不意に身を屈めたゼブランが耳に唇を寄せ、吐息混じりに囁いたので、そのなま暖かさにぞくぞくっと震えてしまった。
「なっ、何するんだ馬鹿!」
 思わずきっと睨みあげたが、ゼブランが妙に嬉しそうな顔で笑っていたので、意表をつかれてしまった。
(な……何て顔で笑って……)
 今まで揶揄するような笑みしか見たことがなかったから、見慣れなくて落ち着かない。なのに、目が離せない。どうしていいか分からず言葉を無くすシャーリィンに、ゼブランは優しく語りかける。
「こうして二人きりになるのは久しぶりだね、シャーリィン」
「そっ、うだった、かっ?」
 焦って言葉が跳ねるのを面白がっているのか、くすくす笑われてしまう。
「あぁ、デネリムの朝以来かな。本当はもっと早くこういう時間を持ちたかったんだが、お互い何かと忙しかったからね。今日を逃したら、もう機会がないかもしれないと思ってたから、必死で探したよ」
「……明日、死ぬかもしれないから、か?」
 その言葉にすっと熱が引き、代わりに恐れが忍び寄ってくる。
 そうだ、アーチデーモンの件もあって自分が死ぬ事ばかり考えていたが、戦う相手は何も竜一匹だけではない。その前にダークスポーンの軍勢に対し、切り込んでいかねばならないのだ。
 恐らくはかつてない激戦になるだろう。多くの者が命を落とし、その中に仲間たちが含まれていても、不思議はない。
(皆が……ゼブランが死ぬなんて、そんな事)
 考えるだけでぞっとする。思わずゼブランの腕を、すがるように握りしめると、彼は眉を上げた。
「いいや、死ぬつもりはない。ブライトはグレイ・ウォーデンが打ち破るものだ。君が勝利する戦いで、僕がみすみすのたれ死にすると思うかい?」
 そうしてもう一度笑ったが、今度は少し影を帯びた微笑みだ。
「どちらかといえば僕が懸念してるのは、その後さ」
「その後?」
「そう。君は間違いなく、国を救った英雄になるだろう。皆が君の勇敢さをほめたたえ、敬意を持って遇するに違いない。そしてそうなれば、元暗殺者なんて怪しい男がその側にいていいものなのか、と思ってね」
「ば、馬鹿を言うな!」
 思いもかけない言葉に、シャーリィンは思わず食ってかかってしまった。ゼブランは元々、自身を卑下する癖があるとはいえ、この物言いはいただけない。
「私は自分のなすべき事をするだけで、英雄になんてなるつもりはない。例え周囲が何を言おうと、私は私のままだ。ゼブラン、お前は、」
 勢いのまま吐き出し、しかし今言おうとした事が急に恥ずかしくなって、シャーリィンは口ごもってしまった。かぁ、と頬が熱くなるのを感じて慌てて下を向き、
「……その、お前は側にいてくれないと、困る。とても困る……私は、とにかく、困るんだ」
 ぼそぼそ、聞き取りにくいくらいの小声で呟いた。するとゼブランは軽く息を飲み、
「……君が困るというなら、お望みのままに」
 シャーリィンの頬に右手を添えて、すっと上向かせた。視界に映ったその顔は、少し照れくさそうだ。それもまた見たことのない表情で、どきっとすると同時に、
(か……わいい)
 いまだかつて男性に対して抱いた事のない感情が芽生え、きゅーっと胸が締め付けられる思いがした。
(な、何なんだこれは)
 ゼブランと話していると、体が妙な反応ばかりして混乱してしまう。突然わき起こった感情に戸惑うシャーリィンを優しく見下ろし、
「ところで、シャーリィン。君に贈り物があるんだ」
 ゼブランが懐から何かを取り出した。すっと差し出したのは、色とりどりの宝石を一連でつないだイヤリングだ。一目見て高価なものと分かるそれに目を丸くし、
「これを私に? ど、どうして」
 シャーリィンは声を上擦らせてしまった。ゼブランが目を細めて口の端をあげる。
「君にあげたいと思ったからだよ。これは僕の初仕事の成果でね、ずっと持ち歩いていたんだが……君のおかげで黒カラスの目をくらませる事が出来たし、それ以外にも色々と面倒をかけてしまったから、そのお礼に」
「お礼……あ、あぁ、そうか」
 一瞬、自分のために用意してくれたのかとありもしない事を考えてしまったので、シャーリィンは恥ずかしくなった。こんないちいち動揺していては、ゼブランだって不審に思うだろう、と腹に力を込め、見上げて笑顔を作る。
「そんな事を気にする必要はないぞ、ゼブラン。私こそ、お前に目を開かされた。お礼を言わなければならないのはこちらなのだから」
「……」
 ゼブランは一瞬押し黙り、それから苦笑する。
「全く君って奴は本当に、苛々させる女だね」
「……えっ。え、何でだっ」
 どうしてそんな反応が返ってくるんだ、理解出来ない。また無意識に不躾な真似をしてしまったのだろうかと焦ったが、ゼブランはくっくっ、と小さく笑った後、しゃらりとシャーリィンの髪を払った。イヤリングを握り込んだ手で耳に触れ、
「僕は君にもらって欲しいんだ。ずっと大事に持っていたけど、これは君にしか似合わないと思う。――今、つけてもいいかな? シャーリィン」
「え……あ、あぁ……?」
 耳に触れる手が気になって上の空で応えると、ゼブランはシャーリィンの耳たぶを指で挟み、壊れ物を扱うように慎重な手つきでイヤリングを取り付ける。
(あ……わ……)
 ちゃらちゃらと澄んだ音が耳元で鳴り、ゼブランの指が柔らかい肌を撫でていく。触れた箇所が熱を持って火照って、シャーリィンは居ても立ってもいられなくなった。恥ずかしくて今すぐ逃げ出したいのに、指の温もりが心地よくて、気持ちがいい。心臓が破裂しそうな勢いで鼓動して息が浅くなり、ぎゅっと握った手のひらに汗が滲む。
(落ち着け……変に思われる……)
 精一杯自制しようとするが、もう片方の耳にゼブランの手が触れた途端、思わずびくっとして「あっ……」と小さな声まで漏れてしまった。
「……思った通りだ。良く似合ってる」
 こちらの狼狽を見抜いているのかどうか、イヤリングをつけ終えたゼブランはシャーリィンの顔をのぞき込んで囁いた。優しい笑みを浮かべた表情にまた鼓動が早くなり、息が苦しい。
「あ、の、私、は……」
 嫌だ。怖い。このまま壊れてしまいそうな自分が怖い。ゼブランの瞳に映る自分は泣き出しそうな情けない顔をしていて、みっともない。こんな表情を見られたくない、と思わず後ろに一歩引いた時、
「……こっちにおいで」
 ゼブランがするりと腕を回して、シャーリィンを抱き寄せた。とん、と胸にぶつかり、一瞬以前の時の事を思い出して体がこわばるが、
「シャーリィン……」
 甘くとろけるような柔らかい声に名を呼ばれて、つい顔を上げてしまった。ゼブランはシャーリィンの頬に手を当て、笑みも消した真剣な表情で彼女を見つめている。
「ゼブ……ラン……」
 その眼差しに引き込まれる。引き寄せられる。シャーリィンは魂を吸い取られたようにゼブランの瞳に見とれ、やがてその距離が縮まり、まつげが触れるほど近づいた時、そっと瞼を閉じて――自身の唇に、ゼブランの唇を感じた。
(……ああ……)
 重なる柔らかな暖かさ。僅かに開いた口からこぼれる吐息が唇の上をくすぐり、互いに解け合う。以前の奪い尽くすようなそれとは違う、ふれあうだけの優しい口づけに、心まで満たされていく。
(好きだ。私は、ゼブランが好きだ)
 シャーリィンは今やっと、確信する。この温もりを、自分はずっと求めていた。自身の中で欠けていたものがぴたりと当てはまったような充足感に、指先までしびれるような錯覚さえ覚える。
(ずっとこうしていたい)
 出来ればずっと、こうして側で温もりを感じていたい。その思いから、シャーリィンはゼブランの背にそっと手を回して抱きしめた。ぴくっと腕の下で筋肉が動き、
「……シャーリィン」
 顔を離したゼブランがじっと彼女を見つめる。以前のように怖いほどの熱を帯びたその眼差しを、しかし今のシャーリィンは恐れを感じなかった。いや、恐怖はある。けれどそれにも増して――求める衝動の方が強くなっている。
「……ゼブラン……私は……お前が……」
 吐息がふれあうほど顔を寄せ、シャーリィンは震えながら呟く。渦巻く熱情のせいで舌が回らず、言葉が出てこず、感極まって絶句してしまう。ゼブランはそれを見てふっと微笑み、こつんと額を合わせた。シャーリィンの腰に手を添え、愛でるようにそっと撫でながら、
「シャーリィン……君を僕のものにしてもいいかい?」
 問いかけの形を取りながら、決意を秘めた低い声で囁きかけた。
(あ……)
 さすがにその意味が分からないほど、愚かではない。それにむき出しの肌をゼブランの手が滑るたびに、ぞくぞくと震えが走る――おそらくはある種の期待の為に。
(怖い)
 とは思う。何しろ経験がない。自分の事なのに理解出来ない体の反応にも、未知の恐れを感じる。
 けれど、恐れていて何になるだろう。明日がくれば、自分もゼブランも命を賭けた戦いに挑まなければならない。もしかしたら今日が二人で過ごせる最後の時かもしれないのだ。
 ――それならばどうして、この申し出を拒む事が出来るだろうか。
「…………」
 覚悟を決め、しかし恥ずかしさのあまり目を見ていられなくて、シャーリィンは辛うじて、こくっと首を縦に振った。するとゼブランは小さく笑い、シャーリィンの額に口づけて髪を撫でた。
「……では君の部屋に行こう、シャーリィン。ここはちょっと開けっぴろげすぎるからね」
「う……あ、あぁ」
 すっかり失念していたが、そういえばここはバルコニーだった。
 ゼブランに手を引かれて城の中へ戻りながら、シャーリィンは思わず大きく息を吐き出してしまった。緊張しすぎて胸が痛くなってきた、下手したらアーチデーモンに対する時より動転しているかもしれない。
(どうしよう、がっかりさせてしまったら)
 これまでの話を思い返すにつけ、ゼブランは彼女には想像も付かないほど経験豊富だ。
 以前関係があったと言っていたイザベラは、美人で堂々としていて色気もあって、いかにもゼブランを満足させられそうな女性だったと、こんな時に思い出してしまう。
(……と、とりあえず前置きはしておこう、うん)
 今手を繋いでいるだけで気が遠くなりそうなほど、鼓動が早くなっているのに、これから起こる事に十分な対応など出来るはずもない。どうかゼブランが寛容な態度をとってくれますようにと願いつつ、シャーリィンはひかれるまま歩を進め……

 ――そしてその夜ゼブランと共に、短くも満たされた、例えようもなく幸福な時を過ごしたのだった。