辿るは女神の足跡11

 結局のところ、ガントレットが待ちわびていたのは、シャーリィンその人だったのだろう。
 皆が泥のように眠って休息を取った後、改めて閉ざされた扉の前に立つと、羽根飾りのついた兜を身につけたガーディアンが現れ、あっさり道を開いた。
 その後、ガントレットとやらが課す試練を彼らは一致団結して乗り越え、炎の洗礼を受けた先で、見事聖灰を手に入れる事が出来た。
 何者にも冒すことの出来ない神聖なる霊廟は、長い時を経たと思えぬほど清浄な空気に満ち、非業の死を遂げた主の花嫁の眠る場所に相応しかった。
 そして、恭しい仕草でそっと聖灰を手にしたシャーリィンもまた、この世の者とは思えない美しさだった。どこからともなく差し込む光がその白い姿を包み込み、まるで光のヴェールをまとっているかのように輝かせる。
 誰もがその姿に見入られ、感嘆のため息を漏らしてしまうほどに美しい、天上の写し絵のような光景に胸を打たれながら、ゼブランは思う。
 シャーリィンこそ、アンドラステのように主に愛された者ではないかと。それ故にこれほど美しく、光り輝いているのだろうと。
 しかし一方で、彼はどうしても、ある考えが頭をもたげてくるのを振り払えなかった。
『君はタムレンを遺跡に置き去りにし、運命に彼の身を任せた。巡礼者よ、君はタムレンを破滅させたと思うかね?』
 ガントレットに入る前、千里眼の門番がシャーリィンにそう問いかけた時。
『お前は十分苦しんだ。もう忘れても良い頃だ。……さぁ行け、シャール。僕はいつまでも君を愛している』
 幻となって現れたタムレンにそう微笑みかけられた時。
 彼女は一体どんな思いで、どんな表情で、
「ああ。私なら彼を救えたと思う。そうできたら良かったと思っている」
「ありがとう、タムレン。……私も、愛しているよ」
 あんなに暖かく優しい声を発したのだろうと思うと、嵐が吹き荒れるように心をかき乱されずにはいられなかった。

「ゼブラン、シャーリィンはずいぶん変わったと思わないか?」
 アリスターがふと声をかけてきたのは、オーズマーでドワーフ達の王位継承問題に巻き込まれた最中の事だった。
 ゼブランは、ドワーフの女性と話し込んでいるシャーリィンから、アリスターへ視線を向け、
「どういうところがだい、アリスター?」
 逆に問い返した。そりゃいろいろさ、とアリスターは肩をすくませる。
「たとえば、今までならあんな風に、人の悩み事に耳を貸す事なんて無かっただろう?」
 地底回廊へ行ったまま行方知れずの息子について訴え、激しく泣き出す母親の肩に触れ、シャーリィンは穏やかに語り続けている。
 今や滅多にフードを被らなくなり、常に表に現れるようになったその美貌は、静かな慈悲を帯びていて、どこか神がかっているようにさえ見えた。
「以前はいつもぴりぴりして、近寄りがたかったのに……あそこまで変わると、ちょっと別人みたいだな」
「確かに。だが逆に考えてみればいいんじゃないか」
「というと?」
「むしろあれが素のシャーリィンで、これまでが普通じゃなかったって事さ」
 膝をついて熱心に話を聞く彼女に慰められたのか、母親はやがて落ち着きを取り戻し、更に息子を捜してこようと申し出られて歓喜している。
 息子の容姿など詳細を聞き出し、必ず手がかりを見つけてこようと約束して、シャーリィンはこちらへ戻ってきた。
「待たせた、すまない。先に進もう」
「全く、いつから慈善事業を始めたのよ? 自分から面倒を背負い込むなんて、正気の沙汰じゃないわ」
 人助けを嫌うモリガンが毒づくが、シャーリィンは構わなかった。
「どうせ地底回廊に行く事には変わりないんだ。あんなに熱心に祈っている母親の心配を一つや二つ解消しても、罰は当たらないだろう」
「くだらない事をしてる暇があるの? それよりアーチデーモンがすぐそばにいるっていうなら、わき目もふらず突進していくべきじゃないの」
「準備が整えばな、モリガン。今は目の前の仕事を一つ一つ、片づけなければ」
「だから、それを増やしてどうするのって言ってるのよ……」
 ぶつぶつ文句を言うモリガンをなだめながら、シャーリィンはマントを翻して先を行く。皆と共にその後ろに従いながら、ゼブランは再び口を開いた。
「つまりああしてお節介をするのが、本来のシャーリィンなんじゃないかな、多分ね」
「うーむ……そうなんだろうか。まぁ、これまでずっと気を張ってたのは違いないだろうな。
 シャーリィンにしてみれば、タムレンが居なくなって、部族から切り離された上に、人間たちばかりの世界に放り込まれたんだものな。気の休まる時が無かったんだろうな。あんなにきつかったのは、そのせいか」
 半ば独り言のようにシャーリィンを評するアリスターは、語りながらも彼女を見つめ続けている。
 シャーリィンが歩きながらレリアナと語り合い、時折笑顔を見せると――そう、彼女は笑うようになった!――、ほう、とため息までつく。
 そのうっとりした眼差しを認めた途端、何かもやっとした感情がこみ上げたような気がして、ゼブランは反射的に目を背けた。皮肉っぽく口の端をあげ、
「アリスター、よだれが出てるぞ。そんなに物欲しげにしていたら、気味悪がられる」
 揶揄すると、アリスターは「え、あっ?」と慌てて口元を拭い、しかしすぐからかわれている事に気づいて顔を赤らめた。恨めしそうにゼブランへ視線を送り、
「誰が物欲しげだって、ゼブラン。俺はそんな目でシャーリィンを見てはいないぞ」
 あからさまな嘘をつくので、つい失笑してしまった。
「隠す事はないだろう? シャーリィンは以前にも増して魅力的になったんだ。つい見とれてしまうのは当然だし、もっと親密になりたいと願うのも、自然な成り行きだ」
「いや、だから俺は別に」
「本当に? アリスター、君は少しも考えないのか?
 僕は考えるよ、例えばこうだ……シャーリィンを真っ白なシーツの上に横たわらせて、その潤んで輝くエメラルドの瞳に僕の姿だけを映す。白雪の中に咲く赤い薔薇のような唇のとろけるような柔らかさを味わい、かぐわしい香りを放つ白い肌に口づけて刻印を体中に刻みつけた後は、しっとりと汗ばんだ細い足を辿って、泉の――」
「ぜっ、ぜぜぜぶらん! ちょっと待て、それ以上言うな!!」
 熱を込めて語っていたら、耳まで真っ赤になったアリスターがゼブランの口をがばっと手で塞いだ。その大声に、前を歩いていた仲間たちが驚いて振り返る。
「どうした、アリスター。何か問題が?」
 一番前にいたシャーリィンが首を傾げて問いかけてくる。が、もちろん説明出来るわけがない。赤面したままぶんぶんと首を振り、
「い、いや、何でもない、本当に、何も問題ない、気にしないでくれ」
 勢いよく否定する。が、見るからに不審だ、何しろゼブランを押さえ込んだままなのだから。
 シャーリィンは不思議そうな顔で、さらなる問いを発しようと口を開きかけたが、
「あんなのは放っておきなさい、シャーリィン。どうせくだらない話に違いないんだから」
 モリガンがその腕を掴んでぐいと引っ張る。その通り! とぶんぶん頷くアリスターと、ややぐったりし始めたゼブランの様子になお首を傾げながら、シャーリィンは再び前を向いて歩き始める。
 皆が後に続き、その距離が十分離れた時、アリスターはようやくゼブランを解放する。途端、ゼブランはせき込んで、忙しなく呼吸をする羽目になった。
「はっ、はぁ、あ、アリスター、君は、僕を、窒息、させる、気か?」
「す、すまんゼブラン、つい力が入っちまった」
 馬鹿力で押さえ込まれて、危うく昇天するところだった。げほげほと咳をするゼブランの背をさすりながら、
「でもな、あ、あんな事をこんな往来で言い出す奴があるか。もしシャーリィンに聞こえたら、どうするつもりなんだ」
 アリスターはなおもこちらを責めてくる。対して、聞こえやしないさ、とゼブランは乱れて前に落ちてきた髪をかきあげた。どのくらいの声量であれば彼女の耳に届くかくらい、ちゃんと計算している。
「そこはきちんと弁えてはいるよ。でもアリスター、正直に言えよ。さっき僕が言ったような事を、ちらっとも考えたりはしないのかい?」
「…………」
 集団から少し遅れて歩き出したアリスターは相変わらず頬を染め、気むずかしい顔をしながら、
「……そりゃぁ……まるっきり、一度もないかっていえば……」
 ごにょごにょと聞き取りにくいくらいの小声で白状した。だろう? とゼブランは笑う。
「彼女に好意を持ってるのなら、素直にそう言えばいいじゃないか。恥ずかしがって否定なんてしてたら、時間の無駄だよ」
「それは……そうかもしれないが……」
「君は彼女に告白はするのかい?」
「なっ」
 再び、アリスターが大声を出しかけ、今度は自分の口を塞ぐ。またも激しく首を横に振り、
「そ、そんな事するわけないだろう! 俺は、だからシャーリィンをそんな風に思っていないというか、だな」
 声を潜めながら、猛烈な勢いで否定してくる。
 邪な下心を指摘されたのがよっぽど効いたのかと、「魅力的な女性を前にしたら、どんな男だって考える事さ、アリスター。恥ずかしい事じゃない」ぽんぽんと肩を叩いたが、違う、と更に否定が重ねられた。
 アリスターは汗の吹きだした額を手で拭いながら言う。
「俺はずっと男の集団の中で生活してきたから、女性には慣れていない。
 その上、あんなに綺麗な女は見たことが無いからな、好きとか嫌いとかそういう次元の話じゃなくて……つまり、そう、憧れだ。俺は彼女に憧れてる、そういう事だ」
「それがどう違うのか、僕には理解できないな。憧れっていうのは即ち好意で、つまりは君が彼女にもっと近づきたいと願ってるって意味じゃないのか?」
 するとアリスターは苦笑した。
「逆だよ、ゼブラン。彼女は綺麗だ――あんまりにも綺麗だから、どうすればいいのか分からなくなるんだ。
 本当に生身で生きてるものなのか、実は主が地上に遣わせた御使いなんじゃないかと思うくらい、近寄りがたい。俺がそばにいたら、全くもって不格好だなって自己嫌悪するほどだ」
「……それは、また。ずいぶん距離を置いたな、アリスター」
 ゼブランは目を瞬かせ、アリスターの言い分に呆れてしまった。
 つまりシャーリィンが魅力的すぎて、かえって怖じ気付いてしまったという事か。
 だとすればこの、元テンプル騎士団の戦士は、あまりにも純情すぎやしないか。他人事ながら心配になってくる。
「シャーリィンは確かに美しいが、彼女はちゃんと血肉を伴っている、生きた一人の女性だ。ああやって笑いもすれば、愛らしく頬を染めもする、ごく普通のね。そこまで怖がる事はないと思うよ」
「いや、……いや、良いんだ。俺は本当に彼女とどうこうなりたい訳じゃない。
 美しさに心打たれるのは事実だけど、どちらかといえば……そうだな、こんなひどい状況に追い込まれても、決して屈する事無く立ち向かっていく彼女を、尊敬しているってだけだ――同じグレイ・ウォーデンとしてね。だから俺は告白なんてしないよ」
「ふぅむ。その心境はよく分からないな。だって彼女を抱いたらどんな感じか、想像した事があるんだろう?」
「ぐっ……そ、それはその、一時魔が差したってだけで……もうこれ以上、それについて話したくない。勘弁してくれ、ゼブラン」
 心底嫌そうに言われたので、分かったよとゼブランは肩をすくめた。それで話を終わりにしようとしたが、
「俺より、ゼブランこそどうなんだ? シャーリィンに告白、しないのか?」
 気を取り直したアリスターに質問され、ぴくっと眉を上げてしまった。動揺してしまった事がばれない内に、素早く笑みで顔を塗り固め、
「それこそよしてくれ、アリスター。僕が愛を告白するなんて、冗談でも面白くない」
 軽い調子で答えた。相手は訝しげに顔をしかめる。
「なぜだ? お前こそ彼女に惚れてるし、そのう……なんだ、つまりもっと親密になりたいと思ってる訳だろう?
 シャーリィンはあの性格だ、遊びにつきあうようなタイプじゃないだろうし、もし手に入れたいと思うなら、心を込めて思いを告げる他ないじゃないか」
「アー、そういう一連の儀式は誠実な恋人たちに譲るよ。まどろっこしいやり方は僕の性には合わない。楽しめる時にだけ楽しめればそれでいいんだ。そうでないなら最初から手を出すつもりはないね」
 なんて奴だ、とアリスターがなおさら渋い顔をするが、根っからの享楽主義者をとがめたところで無駄だと悟ったのだろう。
 どっちにしても、と頭の後ろで指を組んで、ため息をつく。
「誰が何を言ったところで、結局は無駄なんだろうな。シャーリィンが受け入れるとは思えない」
「どうして? 彼女は主に操を捧げているとでも?」
 ガントレットでアンドラステのイメージが重なった事もあってそう嘯いたが、アリスターは首を振り、
「シャーリィンは今もまだ、タムレンを愛してるんだろうからさ。あれほど深く思ってた相手を、そう簡単に忘れられやしないだろう」
 しみじみとそう言ったので、ゼブランはすっと熱が冷めるような感覚を覚えて、目を細めた。
 その通りだ。失って半狂乱になるほど愛した男を、シャーリィンが忘れるはずがない。彼女はこれから先ずっと、タムレンの面影を胸に、生きていく事だろう。
 彼女の中でタムレンは時を経るにつれて輝かしく、美しく彩られて、生身の男など穢らわしく思えるほど完璧な思い出になっていくに違いない。欠点だらけの生者がどうして、そんなものに太刀打ち出来るだろう。
「――そうだろうな。シャーリィンはタムレンを忘れない。彼を拠り所にしてよそ見もしないだろう。
 そうなればますます、僕はお呼びじゃないな。まかり間違って関係を持ったにしても、逐一死んだ人間と比較されるのは御免だ」
 普段と同じ軽薄な調子に聞こえるように注意しながら、ゼブランは言った。
 「結局は高嶺の花って事か」と肩を落とすアリスターに、今度良い子を紹介するよと笑いかけながら――その実、ゼブランは胸の底でどろどろと淀む暗い感情から、必死で目を背けていたのだった。

 ――私を、タムレンを、助けてくれてありがとう。
 瞳に涙を滲ませたシャーリィンは、ゼブランの頬を包み込みながら噛みしめるように告げた。
 儚いほど美しいその顔を、ワインの香りを含んだ熱く甘い息づかいを目の前にして、ゼブランが爆発しそうなほどの動悸に襲われていたのを、きっと気づきもせずに。
(礼を言われる事じゃない。僕はただ、君を死なせたくなかった)
 そう言い掛けたところで彼女に抱きしめられたので、残りの言葉は吹っ飛んでしまったが……だが、本当にそうだろうか。真実、その通りなのだろうか。
 あの日。
 かつてタムレンだった者が、シャーリィンの前に姿を現した時。
 普段とは全く違う様子で、懸命に語りかけるシャーリィンを見た時。
 皆の前に立ちふさがって押しとどめる彼女の背後で、理性を失い、牙をむいて襲いかかろうとする魔物を認めた時。
 手にした短剣を投げたのは、本当に彼女を守る為だったのか。
 ――これがタムレン。彼女が旅立つ理由になったエルフであり、彼女がこれほどまでに執着する、唯一の男。
 そんな男に対して抱いた嫉妬が、彼への殺意に繋がってはいなかったか。
(僕には分からない)
 千々に乱れる心の内をのぞくたび、ゼブランは困惑し、目を背けざるを得ない。
(これではきっと駄目なんだろうけれど)
 このままではきっと、リナの時のように致命的な間違いを犯す事になりかねないのだろうけれど。
 それが分かっていてなお、ゼブランは自身の中で根付きつつある、理解しがたい激情を扱いかねて、無いものとして目をつぶろうとしていた。
 それ故にあえて彼女に深い関心のないような口振りで、アリスターの好奇心を退けたのだが――しかし。
 ふと視線を向けた先でシャーリィンが振り返って、じっとこちらを見ている事に気づき、ゼブランはぎくりと身体を強ばらせた。
 以前とは逆だ――今度は、シャーリィンがゼブランを意味ありげに見つめる回数が増えている。
(どうして僕を見るんだ、シャーリィン)
 その美しい眼差しと視線を合わせる度に、身の内で激しい熱情と、暗い罪悪感とがせめぎ合い、息が止まりそうになる。
(やめてくれ、そんな風に見ないでくれ)
 体を震わせ、ゼブランは頑としてシャーリィンの視線を無視した。そうして自分を保たなければ、先に口にしたような欲望が駆けめぐり、今すぐ押し倒して、あの目もくらむようほど白く、艶めかしい裸身を、隅々まで蹂躙したくてたまらなくなるからだ。
(ああ……シャーリィン)
 こちらから目を離し、地下回廊の入り口を守るドワーフ達に話しかけるシャーリィンの声を遠くに聞きながら、ゼブランは苦悩のしわを眉間に刻んだ。
 この状態でずっと旅を続けられるとは思えない。遅かれ早かれ、決着はつけなければならないだろう。
 もしその時が訪れた時、自分はどうするだろうか――彼女は、どうするだろうか。
(願わくば、ひどく傷つけるような事にならなければいいんだが)
 そう思いつつ、自分でも何をしでかすか想像出来ず、ゼブランはひそかに重い息の塊を吐き出した。
 早くその時が来てとどめを刺して欲しいような、そうなってほしくないような、複雑な心境だ。考えすぎてなにやら頭が痛くなってきた気がする……。