辿るは女神の足跡10

 目覚めは、良くなかった。
 頭がずきずきして、鼻が痛い。まぶたは腫れて重たくなっている。
「うっ……」
 ぼんやり緩慢な頭をもたげると、その下に敷いたマントが目に入る。石の床に手をついて、鉛のように重たい上半身をぐっと持ち上げたシャーリィンは、ゆっくりと辺りを見回した。
 そこはしっかりした石組みの建物の中だった。しんと静まりかえった石室はほのかに暖かい。どこを見ても傷一つなく、ほこりも蜘蛛の巣もない、何かに守られているような、柔らかい空気に満たされている。シャーリィンは魔導士ではないが、この場が大きな魔術の力を帯びている事を感じ取れるように思えた。
 夢うつつに視線を落とせば、シャーリィンのそばにはウィン、モリガン、レリアナとマバリ犬が静かに寝息を立てていた。さらに顔をあげれば、スタンやアリスターも、各々壁にもたれて眠っている。
「――シャーリィン? 目が覚めたのか?」
 そうして順番に仲間たちの姿を眺めていると、穏やかな声が不意に響いた。びくっとしてそちらへ顔を向ければ、見張りの為か、ゼブランが入り口近くに腰を下ろしている。
「ゼブ……ラン……」
 それを見て、シャーリィンは怖じ気付く。不意に頭の霞が晴れ、次々と記憶が蘇ってきたのだ――ゼブランに対して自分が何をしたのかも、全て。
「気分はどう? 覚えてるかな、君、泣き疲れて眠ってしまったんだけど」
「……あ、あぁ大丈夫だ」
 本当は頭が痛いし、目も腫れぼったかったが、言う気にはなれなかった。ぱっと顔を逸らして早口に答えると、ゼブランはそれは良かった、と言って壁にもたれた。
 そのまま話を続ける様子もないので、シャーリィンは落ち着かなくなってもぞもぞと座り直す。
 普段は嫌というほどしゃべり倒すくせに、今は無口に徹するつもりなのか。それはもう、自分とは口も聞きたくないという事だろうか。
(……呆れて、見限られても仕方がない)
 悲しみに我を失っていたとはいえ、先の自分の行動はあまりにも愚かだった。眠っている間に皆が立ち去ってもおかしくないほどに。
(それでもまだ、皆、残ってくれた)
 自分を守るように固まって眠る女たちと犬。敵の襲撃を警戒して武器を抱えて休む戦士達。その存在を、シャーリィンは今初めて、心から有り難いと思った。
 王を裏切り自ら国を率いようとする摂政やアーチデーモンという、途方もなく強大な敵と戦う危険な旅。それを率いるのはこんなに浅はかな自分なのに、彼らは共に旅路を辿ってくれる。
 その誠意を、信頼を、優しさを、今肌身にひしひしと感じる。そしてたまらなく申し訳ない気持ちになる。
「――ゼブラン。そちらへ行っても、いいだろうか」
 静寂を壊すのも恐ろしくて、シャーリィンは消え入るような声音で囁いた。ゼブランは顔をあげ、
「……あぁ、もちろん。どうぞ」
 手を前に差しだし、どこでも好きなように、と周囲を示してみせた。
 ひとまず、無視はされないらしい事にほっとして、シャーリィンは女たちを避けてそっと歩き、ゼブランの元へ近づいた。少し距離を置いておずおずと隣に座る。
 対してゼブランは立てた膝の上に頬杖をつき、シャーリィンに顔を向けた。その表情はいつものように飄々とした笑みを浮かべている。
「ずいぶん派手に泣いたね、シャーリィン。目が真っ赤だ」
「……す、すまない」
「別に謝る事じゃないだろう。あれでだいぶすっきりしたんじゃないか?
 君は頭の中であれこれ考えすぎて、吐き出す事を知らないみたいだからな。たまにはああして爆発するのも大事さ。
 もっとも、あそこまで行く前に、普段から少しずつ不満を解消しておいた方がいいと思うけどね」
「……そうする」
 以前ならむやみに苛々させられたゼブランの言葉を、今は素直に聞ける。こくんと頷くと、相手は眉を上げて意外そうな表情をし、
「――あぁ、そうした方が良い。そうでなくとも君は厄介ごとを背負い込む運命なんだからな、グレイ・ウォーデン」
 すっと顔を正面に向ける。
 それからまた、沈黙。今度は長い。
 シャーリィンは自分の醜態を思い出せば恥ずかしくて消えてしまいたくて、何も言葉に出来ない。ゼブランはゼブランで、特に語る言葉をもっていないようだ。
 じっと前を見つめるその横顔は、怒ってはいないようだが、無駄なお喋りを拒むように無表情で、少し恐ろしかった。
(だが……駄目だ、私はゼブランにきちんと謝らなければ)
 怯えていても仕方がない。彼を侮辱し、傷つけようとした事を謝罪しなければいけないのだから。
「あ、の――ゼブラン」
 重くのしかかる静寂を振り切るように、シャーリィンは思い切って口を開いた。ん? とゼブランが目線だけこちらに向けるのを認め、
「ゼブラン、すまなかった。私はお前に、ひどい事を言った。お前に剣を向けてしまった。ゼブランは何も悪くない、むしろ……むしろ、私の間違いを正してくれようとしたのに」
 申し訳なさに胸を詰まらせながら、頭を下げる。
「お前が言っていた事は、全部正しい。私は自分の事しか考えず、無責任に全てを投げ捨てようとしてしまった。その結果、皆を危険に陥れた。馬鹿だ。どうしようもなく愚かだ」
「シャーリィン」
「すまないといくら言葉を重ねても、償えるものではないだろうが……私には他に、何を言っていいのか分からない。今はそれしかいえない。ゼブラン、本当に、本当にすまな……」
「そこまでだ、シャーリィン」
 すっと手が前を横切った。不意の事に驚いて顔をあげると、ゼブランの手がシャーリィンの頬に近づき、しかし以前と同じように空に浮いたまま、ゆっくりと輪郭をなでる。
「あ……」
 その手から伝わる温もりを感じて、シャーリィンはどきりとした。真っ直ぐこちらを見つめるゼブランの眼差しは優しく、包み込むように暖かい。すう、と手が顔のそばを滑り降りるのを感じると、頬が熱くなる。
(な、何だこれは……)
 以前と同じように理解出来ない胸の高鳴りを覚えて、シャーリィンはどぎまぎした。その気配を読みとったのか、ゼブランは始まりと同じように、唐突に手を引き、再び頬杖をついた。何事もなかったかのように話し始める。
「さっきウィンにも言ったけど、聞いていたかな? 僕に謝る必要なんて無いんだよ、シャーリィン。何しろ僕はアンティヴァの黒カラスだ。君のタムレンを殺したのも僕だしね、人殺しには違いない」
「でも、それは」
「それに君は僕が全て正しいというが、そうでもない。理不尽な中傷をしたつもりはないが、君だって僕の言葉で、ずいぶん傷ついただろう? あれほど追いつめられれば、斬り付けたくなるのも当然さ。気にするほどの事じゃない」
「馬鹿な、そんな簡単に済ませていいはずがない。全ては私が招いた事態だ。責任を負うべき者がいるとすれば、それは私以外あり得ないだろう」
 するとゼブランはハハ、と笑い声を上げた。責任なんて、と軽く手を振っていなす。
「シャーリィン、何もかもそんなに重苦しく考えてばかりで、疲れないのかい?
 君は確かに道を踏み外しかけたが、結局は無事に戻ってこられたんだ。すぎた事をいつまでもくよくよ考えて、責任の所在を突き詰めるより、今は休んで鋭気を養った方が良い。その方がよほど前向きだ」
 それはそうだ。これでは先ほど泣きわめいていた時と、さほど変わりがない。またも自らの未熟を悟ってさっと顔を赤らめながら、シャーリィンはそれなら、と身を乗り出した。
「見張りは私がやる。ゼブランは眠ってくれ」
「うん? いや、さっきアリスターと交代したばかりだ。むしろ君こそ」
「私はもう十分休んだ。ここまで皆にはかなり無理をさせてしまったから、少しでも疲れを取って欲しい」
 シャーリィンが眠りに落ちた後、無理に起こす事なく皆が休息を選んだのは、おそらく彼ら自身の疲労がピークに達していたからだろう。
 ろくに休まずにデネリムから移動して山道の登攀、放置された広大な寺院の探索とドラゴン教団との戦闘にハイドラゴンからの逃走。聖灰探索が困難を極めるのは分かり切っていた事とはいえ、それでもここ数日は無理がすぎた。
 ようやくその事に思い至り、シャーリィンは更に罪悪感に駆られてしまう。
「お願いだ、ゼブラン。どうか私にやらせてほしい」
「しかしそうは言っても、僕は目が冴えてしまったしな。横になっても眠れそうにない」
 熱心に勧めるシャーリィンに、ゼブランは困り顔で宙を眺めた後、
「……それなら、退屈しのぎの話し相手になってくれるかい、シャーリィン? 正直、一人でぼーっとしてるのはつまらなくてね」
「それでいいのか? 本当に休まなくても?」
「あぁ、大丈夫だ。それに君が見張りにつきあってくれるなら、こんなに楽しい事はないさ。うっかり見とれて、敵が近づいても気づかないかもしれないけどね」
「……分かった。お前がそれでいいなら」
 この軽口に安堵する日が来るとは、夢にも思わなかった。
 ゼブランの軽薄なウィンクを受けて、シャーリィンはおずおずと頷く。そうすることで、息が詰まるような緊張した体の力が、少し抜けたような気がした。

 ともに見張りをする事になったのでひとまず、今自分たちがいる場所について、シャーリィンは改めてゼブランに確認した。
 そこはハイドラゴンから逃れて駆け込んだ寺院の入り口のスペースだ。左手の通路を進み、角を曲がると、更に広い部屋に行き当たった。
 その場には扉が一枚あったが固く閉ざされていて、いくら探しても鍵穴の一つも見つからない。ウィンの見立てでは、それは強力な魔術によるもので、簡単にこじ開けられるようなものではないという。
 眠り込んでしまったシャーリィンを入り口のスペースから動かさず、仲間たちはひとしきり辺りを調べてみた。しかし、鍵となる道具や書き付けなども一切見つからず、手詰まりになってしまった。
『何かしら手はあるとは思うのだけれど……仕方ないわ。ひとまず休んで、シャーリィンが目を覚ましたらまた考えましょう。さすがに頭が回らなくなってきたわ』
 ため息混じりにウィンが探索の打ち切りを提案したので、皆もそれに同調し、入り口に戻って改めて休息する事にしたのだそうだ。
 そこまで話を聞いたところで、シャーリィンの腹が唐突にきゅうう、と鳴った。ごまかしようがないほど大きな音だったので、ゼブランが目を丸くする。
「あっ……」
 シャーリィンは慌てて腹を抱え、これ以上鳴らないようにと力を込めて耐える。しかし、
「そういえばレリアナが、さっき残ったスープを取っておいたけど、食べるかい?」
 そういわれると急に空腹でめまいがして、シャーリィンは差し出されたカップを奪う勢いで手に取り、冷めたスープを夢中で流し込んだ。このところ食事も喉を通らなかったが、いざ正気に戻ると、空腹は耐え難い。
「慌てなくともいい、喉に詰まるよ、シャーリィン。なんならもう少し用意しようか」
 あっと言う間に平らげて、逆にさらなる飢えに見舞われたシャーリィンを見かねて、ゼブランが干し肉の束や山中でとった果物をごろごろと並べ始めた。
「う……いや、その、……す、すまない」
 それらを前にしてつい喉を鳴らしてしまい、シャーリィンは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
 こんなにがっついて、みっともないのにも程がある。飢えは我慢できないほどで正直体裁を気にする余裕もないが、せめて今、このタイミングではもう少し、怪物並の食欲が落ち着いてくれればいいのに。
 そんな事を考えつつ、シャーリィンはもぐもぐと食事を続けざるを得なかった。
 ゼブランはその様子を眺め、時折自分も摘んでいたが、やがてこれだけじゃ足りないな、と荷物を崩した。中から皮袋と木のカップを二個取り出し、
「シャーリィン、一杯どうだい? デネリムでくすねたワインだ、味は悪くないと思う」
 注いで差し出してくる。
「酔っぱらって見張りが出来なくなったら、まずいだろう?」
「少しくらいなら、いい気付け薬さ。それに君、そんなに弱かったっけ」
「強くはないが……まぁ……そうだな、じゃあ一杯だけ」
 固形物ばかりで喉に潤いが欲しいとも思っていたので、シャーリィンは有り難く受け取る事にした。
 そっと口をつけ、ゆっくり含むと、ぴりりとした辛みが舌に感じられ、小さな火のような熱の塊が、すとんと体の中へ滑り込んでいった。
 この場所は寒風を通さず、ほのかな暖かさが保たれているので冷えは感じないが、それでもワインは体を温めてくれて心地が良い。
 あぁ、と思わずため息をもらしてふと視線をあげると、ゼブランがにやっと笑ってみせた。からかうつもりが見え見えの表情に怯み、
「な、何だ、ゼブラン」
 思わずどもって問いかけると、相手は笑って、楽に座り直した。
「いいや、ただそれだけ食欲があるのなら、今更死ぬ気はないだろうと思ってね。そうだろう、シャーリィン?」
「……もう、あんな事はしない」
 浅ましいほど旺盛な食欲と自暴自棄を同時にからかわれ、シャーリィンは俯いてしまった。恥ずかしくて顔を見られたくないと思ったからだが、
「ああいや、それに安心したってだけだよ、責めてる訳じゃない。落ち込まないでくれ。君の気持ちは分かる気がするしね――僕だって以前、同じ事をしたわけだし」
「え?」
 ゼブランの意外な言葉にぱっと顔をあげた。酒を口に含みながら、ゼブランは肩をすくめてみせる。
「決して敵わない相手に、死を覚悟して、むしろ望んで突き進んでいく。君にとってはその相手がハイドラゴンで、僕の場合はグレイ・ウォーデンだったって事さ」
「……お前はあの時、死ぬつもりだったって事か?」
 それこそ意外に響いて、シャーリィンは目を瞬かせた。
 ゼブランが言っているのは、グレイ・ウォーデン暗殺の任務の事だろう。黒カラスだったゼブランは罠を張って一行を待ち受けて戦い、しかしあえなく敗北した。
 仲間を全員倒され、最後に残ったゼブランは、だが死を望むどころか、命乞いをしてきたのはよく覚えている。
 彼がエルフだった事もあって、シャーリィンは仲間に加えることを許したのだが……あの時のゼブランは、とても死にたがっていたようには思えなかった。
「ああ、そうだよ。麗しいグレイ・ウォーデンに出会うまでは、早く死にたいと思っていた」
 軽口をたたきながら、ゼブランの目がふっと遠くなる。ここではないどこかへ思いを馳せるような表情に引き込まれ、シャーリィンはそろそろと尋ねた。
「ゼブラン、どうして……そんな風に考えていたんだ? 何かあったのか?」
「……」
 ゼブランは目を伏せてしばらく沈黙した後、ワインを飲み干した。もう一杯注ぎながら、そうだな、と呟く。
「君になら話しても構わないだろう。何、よくある話さ……一人の愚かな男が、真実を見誤って、女を見殺しにしてしまったっていうだけのね」
 そうしてゼブランは、落ち着いた口調で最後の任務について語り始めた。

 黒カラスとして驕慢と虚栄におぼれ、血に彩られた怠惰な栄光をほしいままにしていた事。
 その傲慢な態度をあるマスターアサシンに嫌われ、非常に難しい任務をあてがわれた事。
 チームを組んだ仲間二人、タライセンとリナのうち、反発しながらもリナに惹かれていた事。
 しかしその彼女が敵に情報を漏洩し、裏切っていたと知れた事。
 ゼブランを愛している、裏切ってなどいないと必死に懇願する彼女をあざ笑い、タライセンがその喉をかっきるのを、当然のように見守っていた事。
 そして仕事が終わった後、彼女の訴えこそが真実だったと明らかになった事――

「僕は泣きながら訴える彼女を鼻で笑って言ったんだ。それが本当のことだとしても、僕にはどうでもいい、とね」
 ワインのカップをゆらゆら揺らしながら、ゼブランは言う。初めは冷静に、感情を交えずに伝えようとしていたのに、その声は憂鬱に沈んでいる。
「今も思う。なぜもっと彼女の声に、そこに込められた真実の響きに、耳を傾けなかったのだろうと。
 僕があんな鼻持ちならない暗殺者なんかじゃなく、リナを愛した男として彼女に向き合っていれば、もっと違う結末があったんじゃないかと――どうしても、考えてしまうんだ」
「……」
 悲しげな横顔に何もいえなくて、シャーリィンはカップをぎゅっと握りしめた。ゼブランの心境を思うと、胸が痛くて、自分まで悲しい気持ちになってくる。
「タライセンはリナが任務の最中に死んだと嘘の報告をした。その方が自分たちの為になるからだ。
 だが、黒カラスはその判断ミスをとっくに知っていた。そしてそんな事は些細な問題だと、はっきり言ったんだ。お前たちの代わりはいくらでもいる、と」
 目を細め、ゼブランはハァ、とため息をもらす。
「それを聞いた時、空っぽになった気がした。彼女も、自分も、何者でもないように思えて、僕はすっかり絶望してしまったんだ」
 だから、とカップを煽り、唇を嘗めて苦く笑う。
「何もかもどうでも良くなって、誰もやりたがらない任務に志願した。死ぬつもりだったんだ。伝説のグレイ・ウォーデンの一人につっかかって死ぬなんて、暗殺者にしては名誉な死に方だ」
「ゼブラン……」
「……あぁやめてくれ、そんな顔をするのは。言っただろう? 君と出会った時にはそんなつもりじゃ無くなっていた」
 遠くを見つめていた眼差しが今に戻り、ゼブランは再びシャーリィンを真っ直ぐ見据えた。
「君は僕の罪を許し、受け入れてくれた。かつて僕が出来なかった事をしてくれたんだ。
 それだけで僕は十分だと思った。この人の為に、捨てようとしていた命を使おうと誓ったんだ。
 それで過去を帳消しに出来るわけじゃないが、少なくとも無駄死にするよりはましな生き方が出来ると考えたからね」
 柔らかく、暖かく、それでいて悲しみを宿した眼差し。
 シャーリィンにはゼブランが今、傷ついた獣のように見えた。
 森の中で幾度か出会った動物達のように、動けぬほどに傷を負い、ただじっとうずくまる事しか出来ない、哀れで無力な存在のようだ。
「そういう訳だから、僕は君にえらそうな事を言えた立場でもないのさ。たまたま、君と同じような経験をした先輩として苦言を呈しただけで……」
「さっきの言葉は、自分自身に向けたもの、という事?」
 過去を思い返して悩んでも無駄だ、死人の思い出に殉じて命を絶つなんて愚かだ――シャーリィンにぶつけてきた厳しい言葉の数々は、彼自身が過去、自らに投げかけたものではなかったか。
 そう問いかけると、ゼブランは苦笑して、
「そうかもしれない。だが……あぁ、いや、どうしてこんな辛気くさい話になったんだろうな? つまり僕は、君に謝りたかっただけなんだ。ひどい事を言って済まなかった、タムレンを殺してしまって済まなかった、と」
 駄目だ、謝らないでくれ、とシャーリィンは首を振った。
「さっきウィンが話してくれた。あの時、私がタムレンをかばった時、彼はほとんど正気を失って、私に襲いかかろうとしていたのだと。ゼブランは誰よりも早くそれを察して、とどめを刺してくれたのだと」
「ウーン……よけいな事を、ウィンめ」
「よけいじゃない。私はそんな事も知らずに、お前を恨みに思っていたんだ。あの時も、さっきも、ゼブランは私を助けてくれたのに」
 矢も盾もたまらなくなって、シャーリィンはカップを置き、両手を伸ばした。ゼブランの頬に触れ、ぎくりと緊張するその顔を包み込み、泣きそうな気持ちで見上げる。
「ゼブラン、ありがとう。私を、タムレンを助けてくれて、ありがとう」
「そんな、礼を……言われるような事じゃ……」
 今度はゼブランがどぎまぎして、視線をさまよわせる。当然だろう、これまでシャーリィン自ら、他人に触れる事など無かったのだから。
 だが今、目の前にいるこの傷ついた寂しいエルフを、慰めたい気持ちで、体が熱くなっている。
 シャーリィンは以前森で出会った、足を折ってうずくまるハラにそうしたように、ゼブランの頭を引き寄せ、胸に抱きしめた。
「しゃ、シャーリィン? ええと、その、い、いつになく積極的だな?」
 不意の事に驚いているのか、ゼブランが声をひっくり返す。逃げるように身を引く気配を感じたので、シャーリィンはしっかり抱きしめ直して、
「ゼブラン。お前が私にしてくれた事へのお返しなど、いくらしても足りない。だけど、せめて少しだけでも――力になれたらと思う」
 なだめるように、優しく頭を撫でた。
「自身の過ちに囚われているのは、お前も同じなんだろう。それなら私も、その気持ちが分かる気がする」
「シャーリィン……」
「過ちは消えないけれど、それに囚われていては、死んでいるのと変わりない。リナがどんな女だったのかは知らないが――多分、きっと、お前にそんな風に生きてほしくはないだろうと思う。
 ゼブラン、お前は自分を許して良いんだ」
「……っ」
 息を飲む音が聞こえ、腕の中で体の強ばりが緩む。頭を抱える腕に、ゼブランの手が恐る恐る、触れた。
「……シャーリィン、僕はまだ一度も、リナの為に泣いた事がないんだ。君みたいに泣けなかった。僕にはそんな資格もないと思っていたから」
 ゼブランは小さく呟いた。悲しみに暮れたその声は胸を締め付けるほどに切なく、心許ない。シャーリィンは頭を振って、静かに囁く。
「それじゃ駄目だ。悲しみにばかり沈んでいてはいけないのだろうけど、だからといって過ぎ去った事だと見ない振りをしてはいけないんだ。
 彼女を、リナを愛した事が、紛れもない事実なのだとしたら、お前は彼女の死を悼んでいい。好きなだけ泣いていいんだ、ゼブラン」
 あぁ、とため息混じりの呻きを聞こえる。ゼブランはシャーリィンの腕に目元をぎゅっと押しつけ、
「……それなら、今だけ……少し胸を貸してくれ、シャーリィン。今だけは……リナを……」
 掠れた声で囁くと、やがて声を殺して泣き始めた。細かく震えるその体をしっかり抱きしめたシャーリィンの目にもまた、涙があふれ出す。
 死んだ者は、どれだけこいねがっても帰っては来ない。心に空いた穴は埋まる事無く、空虚に風が吹き抜けていくようだ。
(タムレン、済まなかった)
 自責の念はやまず、胸の内で何度と無くこだまする。
 それでも今、こうして身を寄せ合い、生きている者の温もりを感じていると、悲しみが少しずつ癒えていくように思える。
 互いに深い傷を負った二人は、寄り添い、静かに泣き続けた。それは絶望でも悲しみでもなく、愛する者達を悼み、見送る為の鎮魂の涙だった。