辿るは女神の足跡8

 シャーリィンの我慢が限界を超えたのは、デネリムを経て地図にない村、ヘイブンへ向かう途上だった。
「ゼブラン、話がある。ちょっと来い」
 荷物を降ろし、各々野営の準備を始める中、シャーリィンは一人ぴりぴりした雰囲気でゼブランに声をかけた。
「改まって何かな。愛の告白なら、話を聞くまでもないよ。答えは決まってるからね」
 ゼブランはいつものように軽口を叩いてウィンクまでしてくる。それがまた神経を逆なでするものだから、シャーリィンはきっと鋭く睨みつけ、
「今すぐその無駄口を閉じなければ、一生喋れないようにしてやるぞ。いいから来い」
 半ば本気の口調で言って、先にたき火から離れた。その剣幕に、ゼブランは何事かと注目する仲間達に肩をすくませて見せ、後に続く。
 キャンプは森の切れ目に設営されており、少し歩けば鬱蒼とした木々が目の前に広がる。
 その直前であり、たき火の明かりの淵、聞き耳を立てる皆にも聞こえない場所まで移動すると、シャーリィンはそれで、と腕組みをした。自分より少し上の位置にある顔を見上げ、切り出す。
「お前は私に何を言いたいんだ。はっきり言葉にしろ」
「うん? 君が僕に告白するんじゃないのかい?」
「そんな訳あるか、いい加減にしろ」
 苛々しながらシャーリィンはじろり、とゼブランを睨みつける。
「私はそんな風にじろじろ観察されるのも、嘘やごまかしも大嫌いだ。お前はずっと私を見張り続けている。それは何の意図があってか、今日こそ洗いざらい吐け。そうしなければ、今後共に行動できない」
 切り札をいきなり突きつけると、ゼブランのニヤニヤ笑いが一瞬消えた。ぎくりとするほど真剣な表情がかいま見え、しかしそれもすぐ元に戻ってしまう。彼はハハ、と笑い声を上げて、後ろに手を組んだ。
「参ったね、お払い箱にするって? それは御免被りたいな。僕はこの世界を救う旅って奴が結構気に入っているし、今単独で行動したら、たちまち黒カラスの餌食になってしまうだろう」
「なら、さっさと理由を言え」
「言えばクビは免れるのかな? それがたとえどんな理由であっても?」
「…………」
 嫌な予感がして、シャーリィンはつい顔をしかめてしまった。この質問は、こちらにとって不都合な理由だからこそ出てくるものではないか。少し間を置いた後、
「考慮はする。内容次第だが」
 慎重に返すと、ゼブランがその答えはいいね、と口の端を上げた。
「『内容次第』でどうにでも出来る、うまい返答だ。君も交渉がうまくなってきたじゃないか。後はその性急さを抑えなきゃな、がっついてると相手に足下を見られてしまうよ」
「そんな事はどうでもいい。ゼブラン、話をそらすな。お前は私とまともに会話する気があるのか無いのか、どっちなんだ?」
 にやっと笑い、ゼブランは優雅な仕草で一礼する。
「マスターのご命令とあらばこのゼブラン、いついかなる時も従います。我が剣に誓って、忠誠に偽りはありませぬ故」
「ゼブラン!!」
 カッとなって声を荒げると、こちらの様子を窺う仲間達がざわつくのが伝わってきた。ゼブランは背を真っ直ぐに戻し、お手上げのポーズをしてみせる。
「分かったよ、シャーリィン。ここからおふざけも嘘もごまかしも、一切無しだ。どんな質問だろうと受け付けるし、その結果がどうであれ、君を責めたりはしないよ。それで、聞きたい事って何だっけ?」
「……お前が私に何か含むところがあるなら、それを言え」
 本当に真面目な会話が出来るものだろうか。疑いの眼差しで問いかけるシャーリィン。ゼブランは考えをまとめる様子で地面へ視線を落とした後、静かに語り始める。
「確かに君の言うとおり、僕にはある種の考えがある。だが、それが何かを説明するつもりは無かった。少なくともこうして尋問されるまではね」
「お前はいつもいらない事ばかりペラペラ喋って、肝心なことは黙っているな」
「その方が安全だからさ。今回の件にしても、明らかにする必要があるとは思えないんだ。今のところ、双方にとって都合が悪いと思ってるからね」
 嘘をつかずとも、のらりくらりと言を左右にして真実を言わないのでは、意味がない。持って回った言い回しに苛々して、シャーリィンはゼブランに詰め寄った。眉をつり上げ、
「何も言わないくせに、私にとって都合が悪いと、どうしてお前が決めるんだ、ゼブラン。それは私が判断する事だろう」
 声も高ぶらせて抗議する。ゼブランは苦笑を閃かせ、分かるさと呟いた。その表情から笑みが抜け落ち、そして――例の燃えるような眼差しが、シャーリィンを捉える。
「たとえば僕がこんなふうに触れたら、君は怒るだろう、シャーリィン?」
「!」
 すっと手が近づき、頬に触れる。いや、もしその指先が微かでも接していたら、シャーリィンは即座に払いのけていただろう。
 だが、ゼブランの手は、肌に触れるか触れないかの位置にとどまっていた。
(……何だ?)
 意図が掴めずに困惑するシャーリィンをよそに、ゼブランは空に指先を滑らせる。
 まるで直に肌の感触を楽しんでいるかのように、その手はゆっくりと顔の輪郭を上から下にかけてなぞり、顎でとまったかと思うと、親指が唇を、これもまたぎりぎり当たらない位置で、形を確認するように空を滑る。
「な、……にをしている、ゼブラン」
 触れそうで触れない、しかし限界まで近づいた掌からは確かな温もりが伝わってくる。それが自分の顔を、宙に浮いているとはいえ撫でているというのは、シャーリィンには馴染みのない経験だった。普段ならとっくに怒り出しているだろうに、戸惑って声の力が抜ける。
 対してゼブランは低く笑った。いつもの人を食った笑みではない、どこか暗い、毒を含んだような笑い声。
「君は考えもしないだろう? 僕がいつもこうして君に触れたいと、気が狂いそうなくらい思い詰めてるなんて」
「っ!」
 唐突にゼブランが息を吹きかけて、シャーリィンの耳にかかった白い髪を払いのけたので、全身に震えが走った。急に顔がカァッと熱くなり、心臓がばくばくと鼓動を早める。
「ゼブラン、お前は、ふざけるのも大概に……っ」
 慌てて抗議するが、ゼブランの指が耳の輪郭もなぞるのを感じて、思わずぎゅっと目をつぶってしまう。
 何だ、これはどうした事だ。ゼブランは少しも触れていないのに、どうしてこんなに恥ずかしくなるんだ? 意味が分からない、落ち着け、いつもの手に乗るな。そう言い聞かせるシャーリィンだが、
「おふざけは無しだよ、シャーリィン。僕は嘘もごまかしもしていない。むしろ今は、君が自分をごまかしてるように見えるね」
「な、何だと?」
 その言葉につられて瞼を持ち上げ、ついで後悔した。
 いつの間にか身を屈めて間近まで顔を寄せたゼブランが、その瞳にシャーリィンだけを映している。
 笑みを含んだ優しい、それでいてどこか熱を帯びた、その眼差し。
 それに怖じ気付いて身をすくませる彼女に、ゼブランはゆったりと微笑みかける。
「シャーリィン、君はデイルズとして生を受け、デイルズの仲間と語らい、詩を歌い、失われた知識を伝え合い、美しい自然の中で伸び伸びと過ごしてきたんだろう。
 エルフは二度と膝を屈する事はないと心に刻み、誇り高く生きてきたのだろうね」
 拘束されているわけではない。数歩後ろに下がるなり、突き飛ばすなりすれば、この状況から抜け出せる。
 そうと分かっているのに、シャーリィンの体は麻痺したように動かなかった。語るゼブランの声に影が落ちる。
「だが同じエルフでも、僕は娼婦の息子だ。
 生まれた時からこの方、君が想像もした事もないような汚いもの、醜いもの、おぞましいものに囲まれて生きてきた。
 僕は君が忌避するようなものには愛着さえ覚えるし、一方でそういった環境ではまず見られない、美しく強いものに憧れてやまない」
 それをきっかけにしたかのように。これまで顔の辺りを泳いでいた手が、すっと下がった。
「だから僕は君を見つめてしまうんだ。この美しい体を抱き寄せて、ありとあらゆる手段で味わいたいと願わずにはいられない」
 デイルズの胸鎧の下、むきだしのくびれを、ゼブランの手が相変わらず触れないまま撫でていく。だがその手から伝わってくる炎のような熱に煽られ、シャーリィンは得体の知れない感覚が背筋を駆け上っていくのを感じた。
「っ嫌だ……」
 これは何だ。この感覚は。なんだか分からない。怖い。ゼブランが怖い。自分が怖い。足が震える。怯えてかぶりを振るシャーリィンの耳元に唇を寄せたゼブランは、とろりと甘い蜜のような囁き声を、吐息と共に流し込んだ。
「僕は君が欲しい――どうしようもなく、君の全てをめちゃくちゃにしたくなる」
「――っ」
 それがとどめだった。頭の芯がしびれ、何も考えられなくなる。足が勝手に折れ、シャーリィンはその場にぺたんと座り込んでしまった。
(……こ……腰が抜けた……)
 何てみっともない、早く逃げなければ。そう思うのに、立ち上がる事が出来ない。汗が吹き出す、心臓がうるさいほど鳴って息が苦しい。かっかと火照る体を持て余し、呆然とへたり込むシャーリィンの前に、ゼブランが屈んだ。
「う……」
 嫌だ、怖い。とっさに下がろうとしたが、身じろぎも出来ない。おそらくは常になく怯えた表情をしてるだろう自分に対して、しかしゼブランは常と変わらない笑顔になっていて、
「――ほら、分かっただろう、シャーリィン? 真実これがお互いの為にならないって。君は僕を受け入れる用意がないし、僕は僕で君を壊したくないんだ。
 尤も、君がいいというのなら、僕はいつでも準備できているけどね」
 先ほどまでの絡みつくような声音が嘘のように、あっけらかんと言う。その落差に絶句するシャーリィンにもう一度苦く笑って、
「脅かして済まなかったね。君はあまりにも無防備だから、つい意地悪をしたくなるんだ。
 ……さぁ、いつまでも座り込んでいないで、結論を出してくれないか?
 君に『含むところのある』僕を追い払うか、このまま旅を続けるか――言っておくけど、君の了解もないまま、寝込みを襲うような真似はしないと誓うよ。これまで通り、見つめる事だけ許してもらえば、それで十分さ」
「……っ」
 だがシャーリィンの頭の中は真っ白で、何も考える事が出来なかった。この得体の知れない空気に飲まれて、どうすればいいのか分からない。
 ゼブランが自分に対して敵意を持っているのではないという事は理解したが、けれど今向けられている激しい感情を、どう解釈すればいいのか。
 基本的にデイルズは、どんな状況でも激する事は無い。
 シャーリィンは若さ故にこらえ性がないが、それでも部族の中では冷静に物事を考え、気持ちに振り回されたりはしなかった。それは共に育ったタムレンや他のエルフも同様で、このような場面に遭遇した事も無い。
 だから、シャーリィンは混乱する。
「わ、たしは……私は、その……」
 ゼブランからさっと顔を背け、答えを探して無為に呟く。しかし横顔に注がれる熱い視線を感じて、なおさら息が乱れ、
 ドクンッ
 その時突然、血が鳴った。

 頭を横殴りにされたような衝撃に、視界がぶれる。
 体中の血が沸騰し、心臓が破裂しそうな勢いで激しい動悸を刻む。とっさに悲鳴がついて出た、と思ったが、瞬時に干上がった喉からはしゃがれ声も出ない。
(あ――!)
 視線。視線を感じる――いや、視線などという生やさしいものではない。それは全てを焼き尽くす業火のような、激しい熱線だった。目の前が暗くなり、闇が弾ける。
 突き落とされた深淵は岩の牢獄、日の光が届かぬ地下の巨大な洞窟の中。
 深く穿たれた谷の底には溶岩の川が煮えたぎり、灼熱の光は、岸壁にせり出した足場に集結した醜悪な怪物達を照らし出す。
 皮膚が崩れ落ちた醜い顔で、殺意に目をぎらぎらと光らせるそれは、各々の手に持つちぐはぐな武器を掲げ、聞くに耐えない叫び声と共に地面を踏み鳴らした。
 大地を揺るがすほどの怒号が地下の空間を満たしたその時、何もかもを食らいつくすような、底知れない悪意に満ちた咆吼が全てを圧した。
 物理的な風をも伴い、岸壁の縁にいた魔物達を溶岩の川へ弾き飛ばしたそれは、全ての怒号を飲み干した魔王の雄叫び。
 幾千幾万のおぞましい二対の目が見守る中、谷と谷を結ぶ岩の橋の上に、天をこするような漆黒の巨竜が降りたった。
(アーチデーモン!)
 これまで幾度と無く夢に見てきたそれは、いつにもまして重厚な存在感で、荒い息づかいすら身近く感じられる。
 眼前にその姿を見据えているが如く、竜の体から発せられる熱にちりちりと産毛が焼かれるように思われた時、竜が長い首をもたげ、ぎらりとこちらを睨み据えた。
 宿敵の姿を認めて、憎悪に燃える縦長の虹彩が閃き、ぞろりと並んだ鋭い牙をむきだしにして――アーチデーモンは約束された勝利を歌うように、空気を振るわせて高らかに吠え滾った。

「……、シャーリィン、シャーリィン!」
「っ!」
 始まった時と同じように、突然ぶちんと映像が途切れる。
 燃えさかる炎が消え失せ、軍勢の轟音も竜の咆吼も聞こえなくなる。目の前にはゼブランの顔があって、彼はシャーリィンの腕を掴んで揺さぶっていたようだ。
「シャーリィン、僕の声が聞こえるかい? 気分は?」
「……今、のは……」
 アーチデーモンだ。いつもは夢に見るのに、目の前にいたかのようにありありとその存在を感じた。しかも向こうもこちらを確実に、その目に捉えていた。あまりの身近さに、命の危険すら覚えるほどに。
(私達は、あれを倒すのか)
 あまりにも圧倒的な恐怖に心が凍る。シャーリィンは、心配そうに話しかけてくるゼブランの声も耳に入らないほど震え上がったが、次の瞬間ハッと顔をあげた。
 鋭く突き刺すような、冷たくおぞましいこの気配は……!
「シャーリィン、ダークスポーンだ!」
 同時に予感を感じ取ったのだろう。素早く立ち上がったアリスターが警告を発しながら、たき火のそばに置いていたシャーリィンの剣を投げつけてきた。
 それをバシッと受け取った時、闇に沈む森がうなり声をあげて盛り上がり、どっと押し寄せる。
「待ち伏せか、しゃれた事するじゃないか!」
 素早く背中の二刀を抜いたゼブランが、切りかかってきたダークスポーンの剣を受け止めて笑い声を上げる。
(アーチデーモンがこちらの動きを見ているのか!?)
 白昼夢にいまだ引きずられながら、シャーリィンもまた鞘を払って、頭上に迫った敵の目を切りつけた。おぞましい悲鳴と血を避けて、腰を落としたまま、ずさっと跳びすさる。
 同時に背後でも、激しい戦闘が起きているのを聞き取りながら、
「ハァァァァッ!」
 気合い一閃、地面をえぐる勢いで突進していく。今にもゼブランの背に矢を放とうとしていた弓兵達の腕をまとめてきりとばし、その場で回って背後の敵に刃を振るった。頭を刎ね、噴水のように吹き出したどす黒い血が視界を埋める。
 その向こうにまた敵影を見つけたシャーリィンは、
「……レサラン……」
 だがしかし、剣戟の音にかき消えそうなほどか細い声を聞き分け、ぎくりと硬直した。
(な、に?)
 耳に馴染んだエルフ語、その声。まさか、馬鹿な、そんな、あり得ない、全身の血の気が引く思いで懸命に否定する。しかし、
「シャー……リィ……ン……」
 血幕の向こうからよろよろ現れたのは、髪が全て抜け落ち、闇に毒されたどす黒い肌、紛れもなく魔物――だが見間違えようもない、
「タム……レ、ン?」
 二度と会うこと叶わないと諦めていたタムレンの、変わり果てた姿だった。