天下分け目の戦は、東軍の勝利にて幕を下ろした。
総大将を失い混乱状態となった西軍に対し、徳川家康は降伏を呼びかけ、各陣営はその勧告をおとなしく飲む。果たして、日ノ本の頂には徳川家康の名が掲げられ――だが、それも一時のことに過ぎなかった。
というのも、重篤な病に伏せっていたはずの武田信玄が復活し、それに呼応して上杉謙信も戦線へ復帰し、徳川の天下に待ったをかけたのである。
また、第六天魔王・織田信長が滅んだ本能寺に、妹のお市が闇の気配を纏わせて徘徊し、それを再興の礎と担ぎ上げて織田の残党が騒ぎ出す。一方ではなりを潜めていた松永久秀が物言わぬしのびを従え、各地で暗躍している――等々、世には再び、争いが巻き起こる前の緊張が芽生え始めていた。
またも戦の日々が続くことになる――そのような危機感をはらみつつ、しかし今のところの奥州は、争いのない穏やかな日々が続いている。
そして関ヶ原での戦より半年、政宗の負った傷もすっかり癒えた頃。その騒動は、ふとした事から始まった。
「政宗様。今日こそ、この書類を片づけていただきますぞ。この小十郎がおそばにおります故、どこにも逃げられませぬ。ご覚悟めされよ」
「はぁ……あー、All right、そんな何度も念を押すなよ。分かったから、とっとと始めようぜ」
腹心の部下がきりっと顔を引き締め、分厚い紙束をどさっと置いたのを見て、政宗は不承不承頷いた。
政宗は書き物が面倒だとここ数日、小十郎の追跡を逃れ、領内の見回りと称して鷹狩りに精を出していたのだが、とうとう捕まってしまった。
朝、政宗が目を覚まして障子を開けたその前に鎮座して控えていたのだから、小十郎の本気度合いが知れるというものだ。もしこれを振り切ったとしても、おそらく外に逃げられぬよう、万事手配されているはずである。
(仕方ねぇ、腹をくくるしかねぇな)
長い時間座って、何枚も何枚も目を通さなくてはならないのは、性に合わないのだが。はーあ、と気の乗らないため息をつく主に構わず、
「では、ただいま準備いたします」
小十郎は文机を政宗の前に設置し、紙束を置いた。まずは目をお通し下さい、と一番上の紙を渡し、自分は墨をすり始める。
「先日の嵐で倉が壊れたと訴えがありました。倉の中に収めていた米俵の内、半数が雨風で駄目になってしまったので、人手が欲しいとのことです」
「倉の建て直しと……その被害にあった奴の暮らしぶりはどうだ。すぐさま食うに困るような有様じゃねぇだろうな」
「それは問題ありませんが、三河の商家に納める分が足りないそうです。そちらの手配もしなくては」
「これは確かに急がなけりゃならねぇな……OK。ちゃっちゃと片づけるぜ、小十郎」
「はっ。では、お願いいたします」
すった墨に毛先を湿らせた筆を差し出す小十郎。政宗は肩をすくませてそれを受け取ると、腰を据えて仕事に取りかかった。
「……そういえば、最近朝顔はどうしてるんだ?」
黙々と筆を進め、山となっていた書類の束が半分ほどに減った頃。こった肩をこきこき鳴らした政宗がふと尋ねた。再び硯に墨を滑らせながら、小十郎はぴくっと眉を上げる。
「……どうという事もなく、日々平和に過ごしております。近頃は畑によく出るようになりました」
「そうか、よかったな。お前が過保護に家に閉じこめっぱなしにするんじゃないかと心配だったんだが」
「は……それは本人が、客人扱いは落ち着かない、何か仕事をさせてくれと申し立てるので」
「そりゃそうだろ。いつまでも余所余所しく丁重な扱いをされてるばかりじゃ、落ち着くものも落ち着かねぇ」
「仰る通りで。ことに朝顔は忙しくしている方が、性にあっているようで、よく働くおなごだと姉も誉めておりました」
ほう、と政宗は感嘆の声を漏らした。片倉家を影から支える女傑、喜多に認められたというのは、小十郎が連れ帰った怪しげな女、と当初見られていた朝顔が、真実受け入れられたという証拠である。それならば、と政宗は小十郎へ振り返り、
「喜多に認められたんなら、いつ祝言をあげてもいいって事だな。小十郎、お前の腹積もりはどうなんだ?」
めでたい話だと顔を緩めて問いかける――が、小十郎はなぜか苦虫を噛み潰した表情でため息をついた。ことり、と墨を置いて政宗に向き直り、
「腹積もりなどございません。政宗様が未だお独りであるというのに、この小十郎が妻を娶るわけには参りませぬ」
断固とした調子で言い切ったので、政宗はげ、と呻きそうになった。これはいけない、とんだやぶ蛇になってしまったようだ。慌てて、
「おいおい小十郎、笑えないJokeはよせよ。俺が結婚していようがいまいが、お前が気兼ねする必要なんて全くないんだぜ?」
そう言い足すが、小十郎は頑として首を横に振る。
「いいえ。政宗様が正室を迎え入れる事なく、
「ス、Stop! Wait小十郎、今はお前と朝顔の話をしてたんだろうが!」
今すぐにでも動き出しそうな小十郎の気配に政宗は焦った。何とか話をそらそうと早口に穂を継ぎ足す。
「百歩、いや千歩譲ってその話を進めるにしたってな、事が成就するまで、しばらく時がかかるだろ。
朝顔はお前の家に入ってからもう半年だが、まだ結婚したわけじゃねぇ。そんな宙ぶらりんの状態で、まだ待たせる気か?」
政宗としては、あの関ヶ原の戦以後、奥州に戻ってひとまずの落ち着きを取り戻したらすぐ、小十郎から結婚の許しを得たいと申し出があると踏んでいたのだ。それが止まっていたのが自分のせいだと言われては、朝顔に合わせる顔がない。
「俺の話はそれとして、お前と朝顔についちゃ、今すぐにでも祝言をあげて構わねぇんだぜ? どうせもう実質、Wifeみたいなもんだろうしな」
「…………」
「おい、小十郎?」
小十郎の渋面が更に厳しくなるので、政宗は面食らってしまった。一体何だこのしかめ面は、あれだけ甲斐甲斐しく面倒を見て可愛がってる女との結婚を主が許すと言っているのに。いぶかしげに目を細める政宗の視線を避けるように小十郎はまた硯へ向き直り、
「……この小十郎、政宗様が身を固められるまで、女人に耽溺するような不徳は致しませぬ。朝顔もそれは承知の上、政宗様がご懸念される事ではございませ」「ちょっと待て小十郎、お前まだ朝顔とヤってねぇのか!?」がちん! びしゃ――っ!!!
驚愕のあまり思わず声を張り上げると、力加減を誤ったのか、小十郎が勢いよく硯の縁に墨をめり込ませ、たまっていた墨汁を前面の畳にぶちまけてしまった。一瞬の硬直後、その顔が見る見るうちに赤く染まっていき、
「ま、政宗様、何という下品な……!! この小十郎、そのような下世話な物言いをするように御育てした覚えはありませぬぞ!!」
カッと鬼の形相で怒号を発したので、
「お……おう、Sorry……驚いてつい、口がすべっちまった……」
政宗はたじたじとなって謝罪してしまった。しかし、
「つい、ではありません、当主たるもの、その言葉には常に気を配らねば……」
と説教が始まってしまったので、これではいけないと強引に話を戻そうとする。これが小十郎の逆鱗に触れるとしても、さすがに今のは聞き逃せない。
「ああ、言葉のSelectは確かにまずかった。だがな小十郎、いくらなんでも、朝顔をないがしろにしすぎじゃねぇか?」
気圧されまいと背筋を伸ばし、改まった口調で言う。小十郎をはったと見据え、
「堅物のお前が連れてきた女だ、周りの連中は特別な相手に違いないとそりゃあ気を遣うだろう。だが、こういっちゃなんだが、身元の知れない女で、しかも見た目もあれだ。お前が色香に迷って怪しいのにだまされてると疑う奴もいるだろう」
「…………」
む、と小十郎が顎を引いたのは、実際そのような事を進言してくるものがあったからに違いない。
「朝顔は目端のきく女だ。そういう空気を感じ取って、周囲にとけ込もうと懸命に努力してるんじゃないか」
「……はい。それはもう、十分過ぎるほどに」
それはそうだろう。元しのびという、あまりにも不審な身の上でありながら、あの喜多に認められたというのなら、朝顔はきっと控えめながらも献身的に日々を過ごして、人々の信頼を勝ち得るように努めているに違いない。
しのびとしてではなく、一人の女として片倉家に尽くす。それは決して容易い事ではないはず。それなのに逃げ出さずにいるのは、
「朝顔はお前の為にそうしてるんだろう、小十郎。お前の為に、周りの連中に気に入られようとしてるんだろう?」
「…………」
ぐっと眉根を寄せた小十郎が視線を下げる。こんな事は政宗が言わずとも、共に暮らす小十郎の方がよほど感じているはずだ。それなのに、
「よく働く気だてのいい女だと認められた、それはいい。だがそのままでいいのか? ただの召使いでなく、お前の側女としての役目を与えられるでもなく、ましてや妻でもねぇ……そんな中途半端な状態に留め置かれて、あいつがどんな思いをするか、考えたのか?」
「……朝顔は承知の上、と申し上げました」
膝の上で拳を握りしめ、小十郎が低く答える。
「俺は政宗様を何よりも優先する。政宗様の御為ならばこの命を捧げ、死に至ろうとも悔いはしないと。朝顔を大事に思う気持ちは変わらないが、いざという時俺が選ぶのは政宗様であると。
……片倉の家に入る前にそのように語り、朝顔も受け入れました。婚姻についても、……その、互いの結びつきについても、今のままで構わぬと申しておりました」
「……」
この説明に嘘はないだろう。朝顔が穏やかに微笑みながら、小十郎の決意を受け入れる様が容易に想像できて、政宗はふう、とため息をついた。
(全く、世話の焼けるCoupleだぜ)
小十郎も朝顔も、お互い責任感が強すぎる、と政宗は思う。小十郎は政宗を、朝顔は小十郎を守ると、魂にかけて誓いを立てている。だから時に、自身の願いなど脇に置いて忘れてしまうのだ――愚直に過ぎるほどの忠誠心の故に。
「……お前の覚悟は分かってる。それについちゃ、今更取り下げろというつもりはねぇ」
沈黙を挟んだ後、政宗は口を開いた。それまでの強い語調を和らげ、静かに言う。
「だがな。――お前はいつまで、朝顔を日陰者にさせておくつもりだ?」
「……っ!!」
雷に打たれたように体を震わせて、小十郎が息を飲む。瞳を見開き、無防備な驚きを見せる竜の右目に、政宗は優しく笑いかけた。
「あいつを日の当たる場所に引っ張り込んだのはお前だろう。それなら早く、心の底から憩える居場所を作ってやれ。そいつはきっと、お前の為にもなる」
「政宗様……」
かすれた声でつぶやき、居たたまれないというように小十郎は俯いてしまう。仕方ない奴だと苦笑して、政宗は文机に体を向けた。
「今日はもう帰っていいぞ、小十郎。今言ったことを道々、よく考えておけ」
ひらひら手を振ると、小十郎は失礼致します、と沈んだ声で退室した。
それからほとんど間をおかず、小十郎が手配したらしい小姓がやってきて、畳にしみこんだ墨汁をせっせと片づけるのを横目に、政宗はそれにしても、と頬杖をついた。
(よく半年も同じ屋根の下に暮らして、我慢できたもんだ。とっくの昔にできあがってるもんだと思ってたんだがなぁ)
常々、小十郎の忠誠心は度を超す時があると感じていたが、まさか恋女房に手を出す事さえ控えているとは、考えもしなかった。
あれだけ小十郎を恋い慕っている、全身色気の塊のような女を前にして半年間、小十郎がどれだけ禁欲を己に戒めていたのかと思うと、いささか異常ではないかと案ずるほどである。
(ま、これで首尾よくまとまって、小十郎が朝顔に夢中になってくれりゃ、少しはこっちへの攻勢も緩むってもんだろ。あいつがどれだけ骨抜きになるのか、見物だな)
そんな意地の悪い事を思って、くっくっと笑う政宗を見て、小姓は不思議そうに首を傾げる。それに構わず、上機嫌の独眼竜は口笛を吹きながら、残りの仕事に精を出すのだった。