束の間の休息(エージェント・オブ・シールド)

 静かな夜だった。  耳に届くのは涼やかな水音。  水面に映った月が風に揺れて、輪郭を歪ませている。  S.H.I.E.L.Dという巨大な組織が崩壊し、ヒドラが猛威をふるって世界中が混乱に陥っているというのに、この夜はまるで平和そのもの。  平穏な時間の中に身を置いていると、まるでこれまでの事がすべて夢だったかのように思える。 (夢であったのならよかったがな。裏切りにつぐ裏切り、世界の終わり、ちっぽけな自分たちの存在……現実はあまりにも残酷すぎる)  プールのそばに設置された安っぽいデッキチェアに腰掛けたコールソンは、胸中でぼやいた。  ついこの間まで、湯水のように予算をつぎ込んだ、豪華絢爛なバスに乗って世界中を飛び回っていたというのに、今は敵に奪われ、彼も、彼の部下も、この古びたモーテルに身をひそめている。  これまで潤沢にあった資金も装備も何もない、徒手空拳の現状を思えば、夜中にプールを眺めて一人ため息をつくくらい落ち込んでも許されるだろう。 (とはいえ、いつまでも逃げ回っているつもりはない)  身内の裏切りに動揺しているとはいえ、彼のチームの士気は失われていない。  装備の類はかつての環境に及ばずとも、フィッツシモンズ、スカイの頭脳があればどうにでも出来るだろう。そう、それに、 「眠れないの?」  足音もなく近づいてきた、頼もしい武闘派エージェントもいる。肩越しに振り返ったコールソンは頬を緩めて、目で挨拶をした。 「そうだな、少し興奮しているのかもしれない」 「あるいは落ち込んでいるから、でしょう」 「……君は? 見張りの当番はまだだろう」 「…………」  メイはお得意の無表情で歩み寄ってくる。黒い影のごとく立つその姿を見上げると、じっとこちらを見下ろしてきた。 (……いつもの事だが、この目は怖いな)  深夜の海を思わせる漆黒の瞳は、心の裡を全て見透かすようで、時に恐ろしくなる。  そっと目線を外して、コールソンは水面に顔を戻した。メイが腕を組み、そのそばに黙然と立つ。  しばし沈黙が落ちた。水の音だけが辺りを占める。  コールソンもメイも、ただ黙ってプールを見つめ続けていた。  沈黙は苦ではなかった。  少なくともメイとの静寂はコールソンにとって、癒しの空間だ。  彼女がどう思っているか聞いた事はないが、苦痛に思っているのなら早々に立ち去っている事だろう。少なからず、居心地の良さを感じてくれているのならいいが。 「……君の言う通り、私は落ち込んでいるようだ」  ゆっくりと過ぎていく時間の中、ふと言葉がついて出た。メイが静かにこちらを見る気配を感じながら、コールソンは続ける。 「仕方ないだろう。何しろさまざまな事が起きた……本当に、さまざまな事が。  そのうちのいくつかは、気を付けていれば事前に防げたかもしれない」 「過去を振り返ったところで、何の役にも立たない。今出来る事をすべきでしょう」 「その通りだ。明日になれば、皆の前で私はそう言うし、明後日もしあさっても、ずっと言い続ける。……だが今日、今この時だけは、後悔させてくれ」  額に手を当て、俯く。思うのは、これまで仲間として一緒に戦ってきた彼らの顔だ。  全てが嘘だったとは思えない――思いたくはない。  長い時間を共に過ごすことで、彼らの心の中に一片でもS.H.I.E.L.D、仲間たちへの親愛が生まれていたはずだと思いたい。  それでも最後の最後、彼らは裏切った。コールソンたちから何もかも奪い、嘲笑いながら去って行った。 (ギャレットは取り返しがつかないだろう。透視能力者を名乗り、ムカデ計画を推し進めるような男が、今更改心するつもりはないだろう)  だが、ウォードは。  あの人付き合いが下手な、不器用な、それでいて人を思いやる心を確かに持っているウォードは――きっと、心底から悪党ではなかっただろう。 「彼はこのチームにいて、確かに変わっていった。……過ごした時間のすべてが嘘だったとは思えない」  小さくつぶやいた時、肩に軽い重みを感じた。  顔を上げると、手を伸べたメイが、またまっすぐな視線をこちらに向けている。 「私たちの誰も、本当の彼に気付けなかった。彼が変われなかったのは、あなたの責任じゃないわ、フィル。自分を責めるのはやめて」 「メイ……」 「全て自分で背負わないで。恨み言をいうのなら、本人をとっ捕まえてからにしたら? 私も言いたい事が山のようにあるし」  その言葉に、つい苦笑が漏れた。  確かにメイは彼に文句を言う筋合いがある。もっとも文句を言うより先に、まず拳が出るだろうけれど。  コールソンは肩に乗った指にそっと触れ、軽く握った。  微かな、それでいて確かな存在感に、沈み込んだ気持ちが少しずつ浮き上がっていくようだ。 「……戻ってきてくれてありがとう、メイ。疑ってすまなかった」 「…………構わないわ」  返事は変わらずそっけない。けれど手中の指が、応えるように彼の肩をぐっと強くつかんだので、コールソンは微笑んだ。  きらきらと月光に輝く水面に目を細め、この静かな時に感謝して囁く。 「事が落ち着いたら、今度こそタヒチに行こうか」  そこはきっと本物の魔法の国だから、傷ついた彼らの心を優しく包み込んでくれるだろう……。 メイとコールソンの雰囲気がすごく好きだ…!