花のうへの露36

 奥州を出て後。痛む体を押して朝顔は単身、大阪に入った。
 その狙いは石田三成。だが豊臣亡き後、その遺志を継いで起った石田軍はいまや、一大勢力となっている。もはや、易々と大将の命を奪えるものではない。
 朝顔は怪我の治療をしながら毎日、石田が居住する大阪城を見張った。
(必ず、機会は来る)
 昔同じ陣営にいたからこそ、石田の性根は理解している。
 居合いの腕こそ達人級だが、あの男は大将の器ではない。城に閉じこもって兵の指揮を執るよりも、身一つで戦場へ飛び込む方が性に合っているはずだ。
 現に単身で、奥州まで朝顔を追いかけてくるなどという、無謀をしでかしている。朝顔が豊臣軍にいたのは何年も前の事だが、石田の性格は変わらぬらしい。
(城には大谷もいるはず。あの男の裏をかくのは難しい、なら石田が外に出てくるのを待つしかない)
 覚悟を決めて、朝顔は見張りを続けた。幾日経とうと緊張を解くことなく、雨が降ろうと風がふこうと、ただひたすら待ち続けた。
 そして、今日。銀髪の男が深夜城を出て、足早に街道を進んでいくのを見つけたのだ。
(いける!)
 朝顔はすぐさま後をつけ始めた。石田は一度も後ろを振り返る事無く、迷いのない足取りで先を急ぐ。
(どこへ行くつもりなんだい、こんな夜中に)
 まさかまた奥州へ出向くつもりでは、と危惧した朝顔だったが、
「三成。来てくれたんだな」
 石田が向かった林の中にいたのは、徳川家康ただ一人だった。
(徳川が石田を呼び出したのか。何か罠でもしかけてるのかい)
 こちらの気配を悟られないよう、慎重に距離を取りながら、周囲に意識を向ける。
 しかしいくら探っても、伏兵の気配はなく、居るのは今や、大軍を率いる将となった男二人だけである。
「何の用だ、家康。私には貴様と語りあう事などない」
「そう言うな、三成。わしはお前が呼びかけに応えてくれた事、嬉しいぞ」
 不機嫌さを隠さない石田に対して、徳川は声を弾ませている。どうやら彼らは一対一で語り合う為に、この時間、この場所を選んだらしい。
(呆れた。もうふらふらと出歩けるような、気軽な身分じゃないだろうに)
 相手が兵を率いて討ちにくると、考えもしなかったのだろうか、あの男たちは。他人事ながら呆れてしまうが、まぁそんな事はどうでもいい。
 朝顔はぐっと身を沈め、手中に針を握った。毒を含んだ漆黒の針は、太陽が沈み、周囲に広がり始めた夜にたやすく紛れるだろう。
(今しかない)
 石田は目の前の徳川に気を取られている。この針を打ち込んで命を奪うのであれば、この機を逃すわけにはいかない。
(必ずしとめる)
 氷がごとく冷えていく心中で決意し、朝顔は全身の感覚を研ぎ澄まして、機会を待った。
 そして懸命に非戦を説く徳川に、激昂した石田が切りつけた時、間髪入れず針を放った、のだが――

 ギンッ!
 何十回目かも分からないほど激しく刃がぶつかり、光が飛び散る。
 互いの手を弾き、体が離れる。朝顔は空で体勢を立て直して、木の幹に着地したが、
 ビュオッ!
 風を切り裂いて、眼前に巨大手裏剣が飛来する。
「っ!」
 風切り音を聞いた刹那に体が動き、木を蹴って上方に跳ぶ。後ろに太い幹を切り倒す音を置きざりにし、朝顔は手裏剣が飛んできた方向に向かって、目にも止まらぬ速さで針を次々と投げつけた。きらきらと月光に輝く針の光、その合間をすり抜ける影の気配は、しかしすぐ消え失せて掴めなくなる。
(チッ!)
 同じように気配を消し、枝に着地した朝顔は音もなく舌打ちした。風魔と戦い始めてからすでに、四半刻がすぎている。
(さすが風魔。石田のついでに倒そうなんて、無理な注文だね)
 朝顔としては風魔など無視して、石田を仕留めに行きたいのだが、相手はそれを許してはくれない。それどころか、気を抜けばこちらが命をとられてしまいそうだ。
(だけど、諦めるわけにはいかない)
 あの男を殺す為に大阪くんだりまでやってきたのだ。例え伝説のしのびが相手だとしても、容易く断念するものか。
 弾む息を音を立てずに整え、朝顔は林の中へ意識を集中した。
(腕はもらった……けど、毒はきかない)
 目も止まらぬ攻防の最中、朝顔は石田用に準備した毒針を、風魔の右腕に打ち込んだ。それは独自の調合で作った毒であり、常人であれば、刺された直後に悶死する劇薬である。刺した瞬間、朝顔は(とった!)と胸中で喝采を上げたほどだ。
 だが風魔は素早く針を抜き、刀で己の傷ごと腕を抉った。どっ、と血が吹き出し、右腕はその場で使い物にならなくなった。だが同時に、毒で全身を冒される危険を切り捨てたのである。全くためらいなく腕を捨てたその果敢さに、さすが、と朝顔は舌を巻いた。
(針はまだあるけど、これは使えないね)
 石田暗殺に用意した毒針は三本。うち一本は最初に弾き飛ばされ、一本は風魔に使ってしまった。最後の一本は、取っておかねばならない。
(何だかめんどくさい事になったもんだよ、全く……っ痛!)
 動いた拍子に、脇腹にずきりと痛みが走る。ようやくふさがり始めた傷をひそかに庇っている事を見抜かれ、先ほど風魔にいい蹴りをもらってしまったのだ。
(ったく、しつこいったらないね、竹中半兵衛の奴)
 この傷は、あの変形刀でいちどきに二重三重にも脇腹を抉られてついたもの。それがいつまでも治らないのはまるで、朝顔の裏切りの罪を許さないという、あの男の呪詛のようだ。
(……そろそろ仕舞いにしないと、まずい)
 頭を貫くような痛みに歯を食いしばりながら、朝顔は目を閉じた。どくん、どくんと血が音を立てて流れていく為、他の音が聞こえにくい。いっそ目を開くかと思いながら、朝顔は木々の葉擦れ、リスが忙しなく動き回る気配、風に撫でられ、かさかさ遊ぶ落ち葉の音も拾い上げ――その中に、ぴちょん、と水滴が落ちる音を聞き分けた。
(血の臭い!)
 意識を向けた先に臭いもかぎつけ、朝顔は素早く跳び、生み出した無数の針を闇の中へと一息で打ち込んだ。ドドドドド! と大地が揺れ、あっと言う間に針が地面を埋め尽くしていく。
(!?)
 だがそこに風魔の気配はなく、針で串刺しになっていたのは、血にまみれた手袋だった。しまった、と思った時にはすでに遅く、背後に烈風が吹き付ける。
「ぐっ!」
 ドサッ!
 瞬間、息が止まりそうな程、鋭い蹴りが背中に刺さり、朝顔は地面に叩きつけられた。すぐ立ち上がろうとしたが、ぐらりと目眩と激痛が襲いかかってくる。
(まずい!)
 風が頭上で渦巻く。巨大手裏剣の刃が風を切る音を聞き、朝顔はもはやこれまでと体を固くした。その刹那、

「風魔、やめろ!!」

 凛とした声が鋭く響きわたり、辺りを圧した。
「!」
 途端、風魔が短く息を飲み、ばっと距離を取った。
(何っ……)
 一声で風魔を退けるなんて。痛む体を無視して起きあがった朝顔は、声の方へ意識を向けた。とたん、なっ、と驚きの声を喉に詰まらせる。
(徳川!?)
 対決の場に現れたのは、まぎれもなく徳川の気配だった。迷いのない足取りで歩み寄ってきつつ、こちらへ驚きの声を投げてくる。
「お前は――桔梗。桔梗じゃないか?」
 どうしてこんなところに、徳川が来るのか。よろりと立ち上がった朝顔は手中に針を隠しながら、
「……お久しぶりで、徳川の殿様」
 口調だけは普段通り、返事をする。
 豊臣にいた折り、徳川とは何度か顔を合わせた事がある。しのびであろうと態度を変えず、常にまっすぐこちらの目を見て語りかけてくるこの男が、しかし朝顔はどうしてか苦手だ。
(言葉一つ一つが、どうにも嘘っぽいからかね)
 先ほどの石田の言ではないが、爽やかな語り口に裏があるのではないか、と感じさせる何かがあるのだ、この男には。
「驚いたな、こんなところでお前と顔を合わせるとは。何をしてるんだ、桔梗。なぜ風魔と戦っていた?」
「……?」
 気安く語りかけてくる徳川。そのそばへと移動した風魔の体から殺意が消えたのを感じ、朝顔は眉根を寄せた。
(おかしい。風魔は石田を庇った。石田方のしのびなら、すぐ退散するか、これ幸いと徳川を襲うはず。なのにまだとどまっている上、徳川のこの態度は……)
「……徳川の殿様。風魔を雇ってるのは、あんたかい?」
 相手の質問を無視し、逆に問いかける。すると徳川はいや、と首を横に振った。
「風魔は北条の雇われ者だ。わしは今、北条と同盟を結んでいてな、身辺警護に役立つだろうと向こうが寄越してくれたんだ」
「……へぇ?」
 ならばどうして、石田を狙う朝顔の邪魔をする。石田は今や、徳川の大敵であるだろうに。事態をつかみかねた朝顔は、
(いや、今は徳川に構ってる暇はない。石田を追わなけりゃ)
 これ以上ここにとどまるのは無意味だと判じた。
「会って早々で悪いけど、失礼するよ。ちょいと急いでるもんでね」
 そういってすぐさま立ち去ろうとしたが、
「待て、桔梗!」
 突然徳川が距離を詰めてきて、朝顔の腕を掴んだ。普段ならあっさり避けられただろうが、風魔との戦いで体が痛み、思ったように動かないようだ。
「ちょっと、徳川の殿様。離しておくれよ」
 鍛え抜かれた腕にとらえられては、簡単に逃れられない。苛立ちを抑えきれず、ぶっきらぼうに言ったが、
「桔梗、お前――もしかして、三成を狙いにきたのか」
(!)
 いきなりずばりと目的を言い当てられ、ひやっとした。面をしていて良かった、徳川のあの目と視線を合わせていたら、間違いなく動揺を見抜かれただろう。
「……何だい? 顔を合わせるなり、ずいぶん物騒な事を言うね」
 口元を笑みにゆがめて誤魔化したが、徳川は迷いのない声で言い募る。
「わしは三成と二人で話したい、そのために他の者を近づけないでくれと風魔に頼んでいた。その風魔と戦っていたということは、お前の狙いはわしか三成のどちらかだ。
 そして今、わしを目の前にして易々引き下がるということは……桔梗、お前は三成を狙っているのだろう」
「…………」
 なるほど、風魔が三成を庇ったのは、徳川がそう命じたからか。疑問はとけたが、こうもあっさり目的を看破されるとは。
「答えてくれ、桔梗。お前は三成を倒しにきたのか? 誰がお前に暗殺を命じた?」
 黙り込んでいたら、我が意を得たりとばかりに徳川は言葉を重ねてくる。だが、朝顔はいや増す苛立ちに舌打ちした。
 徳川がここにいる以上、石田はとうに城へ戻ってしまっているだろう。絶好の機会を逃してしまった。失望した朝顔は空いた手で面を取り、
「誰の命だろうと構わないだろ、徳川の殿様。あいつが死ねば、あんただって大助かりなんだから」
 じろりと鋭くにらみ返した。
 目を開放して見た徳川は石田に斬られた腕に布を巻き、土に汚れてぼろぼろの状態になっている。
 おそらくあの後も、小競り合いをしたのだろうが、どうも一方的にやられたのではないかと思われるような格好である。
「あるいは何かい、かつての朋友には拳を向けられないってわけかい? その様子じゃ、ずいぶん手ひどくやられたみたいじゃないか」
 切りつけるように言い放つと、徳川は痛いところをつかれた、と表情を曇らせた。眉根を寄せながら、
「……わしは三成を憎んでいる訳じゃない。ただ、争いに埋没して、本当に大切なものを見失ってはいけないと、それを分かってほしいだけなんだ」
 苦しげに、切々と言葉を綴る。朝顔にはそれが、ただの泣き言にしか聞こえない。ハッ、と鋭く笑って腕を振り払い、
「分かってほしいってなんだい、あんたがどう語ろうが、石田にとっちゃあんたはただの裏切り者だ。どんなきれい事をさえずろうが、あの男が聞き入れるわけないだろ」
「だからといって、最初から言葉での語り合いを諦めるわけにはいかない」
 弱気の声が転じ、強気を帯びる。徳川はまっすぐ朝顔を見つめて言う。
「刃を用いて争えば、否応なしに人は傷つき、絆が失われていく。それより、言葉で語り合い、相手を理解することで絆をつなぐ事が出来れば、無駄な血を流さずに済むだろう」
 この男は、なんと綺麗な言葉を好む事か。机上の空論にすぎない言葉に朝顔は苛々した。
「絆、絆って馬鹿の一つ覚えみたいにいうんじゃないよ。そんなのは結局、あんたが自分の考えを相手に押しつけてるだけじゃないか。
 どれだけきれい事を並べたところで、あんたは結局豊臣を見殺しにしたし、石田とだってわかりあえないまま、どうせ殺し合う事になるんだ。あんたのやり口が、これまでの武将連中とどう違うって言うんだい」
「……桔梗」
 苛々しながら鋭く糾弾すると、徳川は戸惑った様子で目を瞬いた。急所をつかれて激怒するかと思ったのに、間抜けな反応だ。と思ったら、
「……お前はずいぶん変わったな、桔梗。以前はそんな事を言わなかったのに」
 不意に徳川がふっと微笑んだ。
「なっ……なんだい、気持ち悪い」
 同じ事を佐助にも言われたが、徳川に指摘されるとどうにも気持ちが悪い。まるでこちらが善人であるというかのように、嬉しげな笑顔を向けられるせいか。
 徳川は腰に手を当て、要するに、と続けた。
「戦の世に疎んじているのは、お前も同じということだろう、桔梗」
「……まあ……そうだけど……」
 なぜだ、素直に同意したくなくなるのは。
「それなら物は相談だが……桔梗、お前さえよければ、わしのもとへこないか」
「……は?」
 何を言い出すか、この男は。ぽかんと口を開いた朝顔に、徳川はにこにこ笑いかけてくる。
「お前が三成を狙ったのは、あいつを止めたいからだろう? わしもこれ以上の争いは、望むところではない。お互いの利益は一致してると思わないか?」
「……それは……まぁ……」
 徳川が言わんとしていることを理解しはじめた朝顔は、眉間のしわを解いた。なるほど、目的が同じなら、手を組んだ方がいいということか。
「お前の腕は十二分に承知している。もし力を貸してもらえるのなら、わしは必ず、皆が笑って暮らしていける、太平の世をもたらしてみせる。――わしと共に来ないか、桔梗」
 そういって、徳川は汚れた手を服で拭った後、差し出してきた。あまたの戦で傷を負ったその手は大きく、力強く、逞しい。それを見下ろし、朝顔は目を細めた。
(徳川の理想なんてのに、同調するつもりはない。――が)
 この男につけば、いずれ、石田三成のそばへ行く事が出来るかもしれない。
(単身であの男を狙うのは無理がある。ならば、確実に石田の命を奪える位置にいたほうがいいんじゃないか)
 信念は理解出来ないが、徳川家康に力がある事は、朝顔も認めざるを得ない。
 人をまとめる力、引き寄せる力、そして敵を打ち砕く力。それらをもってすれば、この男はいずれ、石田軍と対峙することになるだろう。
 石田の命を奪い、全てを終わらせるには、その時が絶好の機会になるに違いない。
「……分かった。そんなに言うなら、あんたにつくよ」
 熟考の後、朝顔は大きく頷いた。「そうか!」と顔を輝かせる徳川に、ただし、と言葉を継ぐ。
「あたしは誰にも仕えない。あんたの陣営に入っても、好きにやらせてもらうよ」
 もう誰であろうと、しのびとして主を持つ気はない。この条件が飲めないと言われたら物別れだ。そのつもりできっぱり言い放つと、徳川は目を丸くした後、
「あぁ。それがお前の考えなら、わしは尊重しよう。ただ三成の命を狙う事、それだけは諦めてくれるか」
 穏やかに言う。
「三成との決着は、わしがつけなければならない。そう思っているからな」
「……しょうがない。承知したよ、徳川の殿様」
 まるきり嘘の承諾をして、朝顔はパン、と徳川の手を弾く。ありがとうと嬉しそうに笑う徳川の後ろから、音もなく風魔が姿を消していた。