花のうへの露35

 縁があったらまたどこかで会おう。
 そんな言葉を交わして慶次と別れ、山寺を後にした桔梗は、先を急いだ。十分遠ざかったと見てからは薬売りの装束を脱ぎ捨て、しのび姿で進む。
(遅れた分を取り戻さなけりゃ)
 懐には、半兵衛の書がある。最後の降伏を促すこれを敵方へ届けるのが今の任務ではあるが、桔梗はその途上、ねねの菩提寺がある事に気づき、敢えて立ち寄った。
(馬鹿なことをした)
 これが秀吉、半兵衛の耳に入れば、文字通り息の根を止められかねない。もとより秀吉の亡妻など、自分にはなんら関わりのない人物だ。こんなふうに任務の途中で、手の込んだ変装までして探りを入れるなど、普段の桔梗なら考えられない愚行である。
(でも……知りたかった)
 自分でもなぜか分からないが、なぜ秀吉がねねにこだわるのか、知りたくてたまらなかった。その疑問は秀吉と初めて出会った時に芽吹き、いつの間にか己でも抑えきれないほどに大きくなり、桔梗を駆り立てたのだ。
(秀吉様がねねを殺していたなんて)
 線となってとびすさる周囲には目もくれず、疑問の答えに思いを馳せ、桔梗は歯噛みした。
(あんなに取り乱したのは、愛妻を亡くしたからじゃなかったって事かい)
 もしかしたら、自らの手で命を奪ったからこそ絶望に襲われ、己を見失ってしまうのだろうか。だが、すでに何とも思っていないのなら、ねねという名を耳にしても、聞き流せるのではないか。
(強く在るために切り捨てながら……それでもまだ、吹っ切ってないんじゃ……?)
 あるいは。あるいは、天下統一のお題目を掲げながらその実、愛する者のいない世界を滅ぼそうと、その巨腕をふるっているのではないか。
(……だから、あんな真似が出来るんだろう)
 秀吉の手によって身体を引き裂かれ、敵兵だった者達が地を埋め尽くす。血と呻きに覆われた先の戦での惨状を思い出し、桔梗はぞくりとした。一瞬気がそれた途端、着地しようとしていた枝を踏み外し、
「う……わっ!」
 そのまま勢い余って地面に落ちてしまった。
「いつつ……」
 どさっ!! と不格好に着地した桔梗は、打ち付けた尻をさすりながら、
(駄目だ、もう考えるな)
 自分に言い聞かせて、気持ちを切り替えようとする。
(秀吉様が何を望んでいようと、どうこう考える必要はない。あたしは草だ。草はただ、道具であればいいんだ)
 今までずっと心に刻んできた事をもう一度繰り返し、桔梗はきっと前を見据えた。
(与えられた仕事をこなせ。それだけ考えればいい)
 そして地面を蹴り、先に倍する速度で駆け出す。

 だが。その思いは時を待たず、打ち砕かれる。

 ――叩きつけられた荒縄に肌を抉られ、鮮血が飛び散る。
 ――『豊臣になど屈するものか!』男が吠える。
 ――『吐け! 吐かぬか、女!』怒号が耳に突き刺さる。
 ――天井からつり下げる縄が手首に食い込んで、ちぎれそうだ。
 ――『女、豊臣の内情を吐けば、楽になるものを』慈悲を装った男の猫なで声が響く。
 ――(あぁ、死ぬのか)朦朧とする意識の中で、それは甘美な誘惑に等しい。
 ――全身が痛み、したたる己の血で鼻が効かなくなる。
 ――この痛みから逃れられるのなら、いっそひと思いに。
 ――そう思い、願いを口にしようと腫れた頬を動かした時。
 ――『そうだ、語れ女。豊臣を滅する為に全てを吐き出』
 ――身を乗り出した男の言葉は中途でとぎれ、その首が跳んだ。
 重たい水音を立てて、血が吹き出す。その赤い幕は天井まで勢いよく届き、
「貴様程度の雑兵が、豊臣の名を口にするな」
 その合間から一人、痩身の男がゆっくりと、部屋の中央まで進み出る。
 「貴様ぁぁぁっっ!!」「何奴!」「見張りはどうした!」叫び声が飛び交い、今まで桔梗をなぶっていた者達が一斉に切りかかる。だが、
「消え失せろ、目障りだ」
 男の冷厳な声とともに光が走り、新たな血幕が吹きだし、土壁に飛び散る。
「……っ……」
 その暖かい血がびちゃ、と顔に降りかかり、失神しかけていた桔梗はびくりと震え、晴れ上がった瞼を押し上げた。ぼやける視界の中、白銀の光が浮かび上がり、ついで、
(いし……だ……?)
 それが自軍の将とようやく認識する。
「ふんっ」
 ひゅっと刀が翻り、囚人をつり下げる縄が断ち切られる。支えを失った桔梗はどさりと床に落ちて、力なく倒れ伏した。
「貴様、半兵衛様直々の命を受けながら、この様はなんだ」
 刃についた血を振り払い、石田は苛立ちを込めて見下す。対して桔梗は、しかし答える気力もなかった。自身はもはや時を数える事も出来なかったが、実に三日に及ぶ拷問を受けていたのである。昼となく夜となく責められ続けれ、数多くの修羅場をくぐり抜けてきたしのびといえど、その気力と体力はもはや限界に達していた。
「……半兵衛様は貴様をつれて帰れと仰せだ。この失態の申し開きは御前でしろ」
 今は何をいっても無駄と判じ、吐き捨てた石田は、弛緩した桔梗の体を肩にかつぎあげた。
(……たすかった……?)
 荷物のように乱雑に運ばれながら、桔梗は朦朧と思う。助かった。まだ、生きている。鈍い感覚の中わずかに安堵が生まれた。が、しかし。
 揺れる視界に映るのは、血をまき散らし、手を、足を、胴を、頭を、切り刻まれた死体の数々。
 迷いもなく進む石田の足の下で、踏みつぶされ、血の水音を交えながら骨を砕かれる武者。洞穴のように大きく口をあげ、凄まじい断末魔の表情で桔梗を見上げる小姓。髪ごと背中を切られ、壁にすがりつきながら息絶えた侍女。行けども行けども、老若男女の別もなく死した者ばかりが視界を埋め尽くしていく。
(あ……あ、あぁ……)
 誰一人、生き残っている者がいない。次々と目に映る陰惨な光景に、桔梗は心がきしむのを感じた。
(これが……これ、が……秀吉様の……国……?)
 この者達を殺したのは石田だ。だがこの有様を見たとしても秀吉は眉一つ動かさず、よくやったと労いの言葉をかける事だろう。
『日ノ本に弱き者はいらぬ。この国には必要な物は力、それが分からぬ者は我が自らその身に刻みつけてくれようぞ!』
 弱き者を滅しつくしたこれが、おそらく秀吉の望む世界のあり方だから。
 力なく垂れた己の手が石田の動きに従って大きく揺れ、死体にぶつかる。ぐにゃりとしたなま暖かい感触に総毛立ち、桔梗はぎりっと歯を食いしばった。
(これが……こんな、ものが……あの男の、願うものなら……)
 そんなものは――間違っている。
「あ……あぁ……ああぁぁあ……」
 血が唾と混じり合い、声が掠れる。微かに呻く桔梗に石田は眉をあげ、
「黙れ、耳障りだ。貴様は半兵衛様の慈悲でまだ長らえられるのだ、無駄な体力を使うな」
 鋭く言い放ったが、もはや桔梗の耳には何も届かない。なおも喉の奥から声を絞り出し、あえいだ。
(間違っている……あの男は、間違って、いる……)
 生まれて初めて、桔梗は主を否定し、拒んだ。秀吉を前にしていつも身を震わせていた恐怖が今は嫌悪を伴い、疲弊しきった桔梗の体を覆い尽くす。
(豊臣、秀吉……豊臣は……日ノ本を……亡者の……国に……)
 闇が視界の縁からじわじわと這いだし、目を塞いでいく。不意にわき起こった激情に最後の気力を使いきり、桔梗はそのまま意識を手放した。

 ――過ぎ去った過去を思いだし、朝顔は茂みに潜んだまま、唇を噛んだ。
(あのときの事は、思い出したかないね)
 記憶が蘇る事がないようにと普段は用心深く、心に蓋をしているのだが、
「……貴様に何が分かる! 秀吉様を裏切り、野望を夢と言い繕って天下を狙う貴様に、何が!」
 石田三成の声を聞き、その姿を目にすると、どうしてもあの時の事が頭をよぎってしまう。
(全く、鬱陶しい)
 苦々しく口を歪めつつ、朝顔は気配を消して前方を窺った。
 太陽が沈んだばかりの薄闇に包まれた林の中には、激しく言い争う男達の声が響く。一人は石田三成。伊達政宗によって倒された痩身の居合い使いは、この数週間で全快したらしく、刀を手にする姿は、触れなば斬るといわんばかりの殺気に満ちている。
「わしの話を聞いてくれ、三成!」
 そしてそれに対するのは、徳川家康。凛々しい青年武将へ成長した男は今空手のまま石田の前に立ち、叩きつけられる憎悪の叫びに負けじと声を張った。
「秀吉公が目指していた日ノ本のあるべき姿は、織田信長のそれと同じだ。力で全てを支配しては、いずれ力によって覆される。戦になった時に血を流すのはわしらではなく、民一人一人だ。血を流して失われた絆は、やがて恨みとなって新たな戦を呼び込んでしまう……だが、それでは駄目なんだ、三成!」
「家康、貴様、囀るな!! 軽々しく秀吉様の御名前を口にするな!!」
 徳川の熱弁を、しかし石田は激しい語調で拒んだ。刀の柄を徳川に突きつけ、
「秀吉様の英邁な理想を、魔王の禍々しき野望と同じくするんじゃない! 秀吉様は脆弱なこの国を、世界の列強にも打ち勝つ強きものへと生まれ変わらせようとしていたのだ! だが武田、上杉は矮小な俗物でありながら、秀吉様の天下を汚した! ならば、奴らを余すことなく誅滅し尽く、その首級しるしを捧げることこそが、秀吉様へ報いる唯一の忠節だ!!」
「三成、お前の無念は分かる。お前がどれだけ秀吉公を慕っていたか、わしも良く知っている。だが……」
 必死で食い下がる徳川に、石田は細い身体の隅々にまで怒りを滾らせて叫ぶ。
「黙れェェェェェッ!! あの戦の折り、ただ黙って豊臣が滅びるのを見ていた貴様に、私のこの怒りが理解出来るものかぁぁっ!!」
「三成!」
 喉も裂けよとばかりの絶叫を残して石田の姿が消えた。次の瞬間、がきぃんと鋼がぶつかり合う音が響きわたる。
「ぐっ……うっ!」
 徳川はその手甲で、石田の目にも止まらぬ剣閃を受け止めていた。しかし刀は手甲に食い込み、その下の腕をも噛んで、鮮血をすすり滴らせている。
「三成っ……わしは、お前にこそ、分かってほしいんだっ……」
 ぎりぎり満身の力を込めて刃に抗しながら、徳川が呻く。三成がそれにかみつこうと口を開いた時、
(今だ!)
 息を潜めて機会を窺っていた朝顔は、その瞬間、手にした漆黒の針を勢いよく投げつけた。猛毒の牙は闇の中を僅かな風切り音で飛来し、石田の無防備な首に吸い込まれていき、
 きんっ!
 しかし不意に割り込んできた影によって弾き飛ばされてしまった。
「!」
 それが何か理解するより早く、影はぐんと空を走り、こちらの懐へと一気に飛び込んでくる。
 がきんっ!
 影がぐんと伸びてその先端に牙を光らせる。朝顔は反射的に苦無でそれを受け止めたが、腕がしびれるほどの衝撃を受け、思わず後ろに足が下がる。
(なにっ……)
 全身の力を込めて牙に抗しながら朝顔は影の正体を見極めようとした。闇を見据えるその目が、大きく見開かれる。
「あんたは……風魔!」
 ぎぁん!
 耳障りな音を立て、手中の苦無が弾かれる。無理に勢いに逆らわず、朝顔は素早く後ろへ跳んで距離を取った。苦無の代わりに針を握り込み、朝顔は影――伝説のしのび、風魔小太郎を睨みつけた。ハッ、と短く笑う。
「驚いたね、あんた、石田に雇われてるのかい?」
「…………」
「北条のじいさんに愛想が尽きたのかね。先祖頼みの落ちぶれた家じゃ、あんたの懐を暖める事も出来なかったって事かい」
「…………」
「……やれやれ、相変わらず無口な男だね。昔の仕事仲間と顔を合わせたんだ、酒の一杯くらい奢ろうかと言ってくれたっていいものじゃないか、えぇ?」
「…………」
 戯れ言を並べて反応を窺っても、風魔は微動だにせず、隙も見せない。
(ちっ、変わらずやりにくい奴だ)
 奥州で負った傷はまだ残っているが、やれないことはなかろう。覚悟を決めた朝顔は懐から面を取り出し、それで目を覆った。暗闇に閉ざされた視界に代わって聴覚がさえ渡り、風魔が吐くわずかな息の音さえ耳に届くようになる。
「…………」
「…………」
 互いに語らぬまま、じりっと足を踏み出す。しばらく息も止まるほどに張りつめた空気が辺りを支配し……
 ザッ――!
 二人のしのびは同時に地面を蹴り、その姿が瞬きの合間にかき消えた。