花のうへの露32

 その日より、五七の桐を掲げて豊臣軍が起った。
 元農民と華奢な軍師、その配下の兵数十名で天下取りの戦に名乗りをあげた小さな軍は、しかし見る見るうちに急成長を遂げた。
 豊臣軍は美濃の稲葉山城を拠点として次々と他国へ侵略し、旗揚げから僅か二月の合間に、近江、尾張の国を掌握してみせたのである。
 破竹の快進撃を僅かな手勢で成した訳は、一つは天才軍師、竹中半兵衛の知略によるもの。もう一つは、豊臣秀吉の圧倒的な力によるものでもあった。
 そしてそれと時同じくして、日ノ本を席巻した魔王・織田信長の滅亡も、追い風となった。
 阿鼻叫喚に彩られた天下統一を目前にしながら、織田信長は、裏切り者の明智光秀もろとも、本能寺にて没したのである。
 恐怖の支配から逃れ得た国々は、諸手をあげて魔王の死を歓迎した。だが、侵略によって荒廃した国々は戦どころではなく、自国を立て直す事に専心せざるを得なかった。
 そして逆にそれこそが、豊臣にとっての強みとなった。魔王と入れ替わりに起った豊臣は、手勢少なかれどその分機動性に富み、志気も高い。そのために弱った国々を倒し、支配下とするのも容易かったのである。

 次々と戦を仕掛け、板切れを倒すが如く敵を平らげていく豊臣の苛烈さに、付き従う桔梗はつくづく感心していた。
(これは本当に、天下を統一しちまうかもしれないね。お頭も先見の明があること)
『今度の仕官先は骨を埋める事になるやもしれん、心せよ』
 そう言われた時は、特に気にかけずに聞き流していたが、本当に豊臣が桔梗の唯一の主となりそうだ。そう感じる理由は、豊臣が飛ぶ鳥を落とす勢いに乗っている事もあるが、何しろ上がいいのだ。
 桔梗の直属の上司は半兵衛であり、何につけても指示が的確で、全く無駄がない。
 なぜこんなことをするのだろうと疑問に思った指示も、実は後々まで見越した作戦の一つで、些細な仕事が後に、自分でも驚くほどの効果をあげる事が、一度や二度ではなかった。
(上が良いと、やりやすい)
 さすが、天才軍師と言われるだけのことはある。桔梗は己の技が的確に使われる事に満足を覚えていた。
 半兵衛は、桔梗を豊臣の駒として十二分に使いこなした。しのびへの蔑みはなく、妙な色目を使う事もなく、冷静に能力のみを重視する彼の姿勢は、桔梗の性にも合っていたのである。
(豊臣は居心地がいいね)
 明日はどこの国にいるかも分からないような生活をしてきた桔梗にとって、それは初めて感じる居心地の良さだった。
 天下を目指す豊臣の行く先は、止むことのない血と戦に埋め尽くされていたが、しのびとしてこれほど充実した日々は、後にも先にも無い。
 体の疲労さえも忘れるほど励み、桔梗は豊臣お抱えの草として、存分にその手腕を振るったのであった。

 ――そうして豊臣に仕えるようになって、幾数年。
 その日、豊臣軍とそれに抗する敵軍が、今まさにぶつかり合わんとする戦場へと桔梗はたどり着いた。
(ちょうど始まるところか)
 戦場を見渡せる樹上で、桔梗は目を細める。
 敵軍はときの声をあげると、今まさに突撃を始めた。地面を揺らし、おうっとおめきながら歩兵が走る。その数、目算ではおよそ一千。対する豊臣は五百ほど。明らかに多勢に無勢であり、豊臣の旗印は今にも、大軍に飲み込まれそうになる。だが、
 ……ずぅぅんっ!!
 不意に地鳴りが響き、敵軍に動揺の波が走った。
(来た……)
 予期していたことだが、やはり身がすくむ。恐れを抱えながらじっと耳をすましていると、地響きの後、ばきばきばきっ!! と凄まじい音を立てて、突如地面が割れた。
 あーっ……ぎゃぁぁぁー……
 不意に現れた地割れに飲み込まれ、兵たちの悲鳴が幾重にも重なる。
 しかしそれだけに収まらず、何の前触れもなく、前線の兵達が宙を舞った。轟と烈風が音を立てて人形のように兵をなぎ払い、戦場を埋め尽くすかと思われた大軍の間に空白を作り出す。
「……居た居た」
 ぽっかり開いたその空間に目をこらした桔梗が見つけたのは、深紅の鎧を身につけた巨漢、秀吉である。
 自軍を下がらせ、たった一人で前線に進み出た秀吉は、以前にもましてその存在感が圧倒的に感じられた。
 兵が子供に見えるほどの巨体から繰り出す拳は、まるで紙切れのようにたやすく地面を叩き割り、兵の一群をなぎ払う。
 腕一本で容易く戦線を下げられた敵は、ならば遠距離からと弓を構えて放った。空から雨のごとく矢が、秀吉に向けて降り注ぐ。が、秀吉が巨腕を左右に撫で払えば、巻き起こる風で矢は方向転換され、かえって敵の頭上に降りかかる。
 ひぃぃ……ああああぁぁ……
 先にも増して悲痛な悲鳴をあげ、バタバタ倒れる兵を眺めながら、桔梗はぶるっと震えた。
(あいっかわらず、凄まじい事で)
 初めて出会った時の秀吉は、我を失った獣が如き恐ろしさだった。豊臣の名を背負い、軍を率いるようになった今ではその力強さが増し、さらに技が洗練されつつあった。それはもはや野放図な暴力ではなく、武を鍛えた堂々たる『力』であり、覇王の名に恥じぬ偉容だ。
(さて……そろそろ良いかね)
 秀吉一人に思わぬ反撃を食らった敵軍は混乱し、てんでばらばらに敗走を始めている。桔梗は枝を蹴って空を舞い、黒い風となって駆けた。
 抗戦の場との距離をぐんぐん縮め、あっと言う間に主の元へとたどり着く。主君の圧倒的な勝利にも一糸乱れず、整然と並ぶ豊臣軍との間に膝をつき、
「秀吉様。半兵衛様より、伝令がございます」
 告げると、腕組みをして悠々、背走する敵を眺めていた秀吉が、こちらを見下ろした。
「桔梗か。申せ」
 歌舞伎役者を思わせる、節のついた独特の低い声が降ってくる。
(落ち着いていれば、聞き惚れちまいそうな声だね)
 場違いな事を考えながら、桔梗は続けた。
「はっ。こちらの戦、追走せずに一度城へお戻りを、との事。使者を出し、再度降伏を促す手はずにございます」
「三度まで、同じ敵に使者を送ると申すか。何故そこまで手をかける」
「半兵衛様におかれましては、相手方のからくり技術者を何としても手に入れたい、との由にございます」
 四国の長曾我部が擁するからくり兵器は、織田信長が取り入れた銃火器のように、近年の戦を大きく塗り替えた。大量破壊兵器は野戦を瞬く間に制し、時には城一つ攻め落とす事さえ可能とするほど、強大な戦力であった。だが一方で、からくり兵器は金食い虫で、作るのにも整備をするのにも金がかかる。
 また、それを扱う技術者も数少ない為、からくりを所持する国はまだ片手にも余るほどしかなかった。
 今回の敵は、いまだ完成には至っていないが、外国とつくにの技術者を数人確保している。
 桔梗がその情報を伝えたところ、半兵衛は俄然乗り気になり、是が非でも技術者の身柄を手に入れたいと切望したのである。
『それに外国の者なら、彼らの国の話を聞きたい。いずれ世界へ打って出る為に、情報を少しでも集めておきたいからね』
 半兵衛が言っていたことをそのまま伝えると、秀吉は愁眉を開き、
「ならば、このまま軍を退く。貴様は半兵衛の元へ戻れ」
 もはや眼中にはないとばかりに敵へ背を向け、自軍に向けて歩き出す。桔梗は頭を下げ、さっそくその場から立ち去ろうとしたが、その時。
「木下、藤次ろーう!!」
「!」
 不意に喚き声が響きわたった。とっさに振り返ると、潰走する敵軍の中一人、群をかきわけて前に出てきた男がいる。火縄銃を構え、
「ねね様がかたき、死ねええええ!」
 ぱあん! 絶叫と同時に銃口が火を噴く。
「秀吉様!」
 さすがにどよめく軍の声を背に、桔梗はとっさに主の前へ出た。眼前に迫った弾丸を、目にも留まらぬ速さで弾き飛ばし、返す刀で相手に苦無を投げつけようとしたが、
(なっ……!?)
 背後からどっと殺気が襲いかかってきて、全身の毛がぞわっと逆立った。身の危険を感じて、考えるより先に体が動き、桔梗は地面を蹴って左方へ跳ぶ。跳びながら振り返ったその視界に映ったのは、
 オ……オオォオォォオオーーーー!!!
 大気を震わせる咆吼をあげて、怒り狂う巨獣だった。
「ひっ……」
 それは悲鳴か、あるいは主の名か。喉の奥で声を詰まらせ、地面に膝をついた桔梗は、その場に凍り付いた。獣は怒号をあげ、地面を抉って前に飛び出す。そして銃を投げ捨て、刀を抜いた男が必死の叫びをあげて走ってきたのを、
「ぬぉぉぉぉぉっ!!」
 真正面から頭を掴み、大地もろとも、叩き付けて打ち砕いた。
(うっ!)
 岩盤の割れる音に混じって、頭蓋がぐしゃりと砕けるのを聞き分けてしまい、思わずびくっとする桔梗。だが、秀吉はそれで止まらない。
「ぐああああああっ!!」
 地に埋もれた腕を引き抜き、弛緩した男の体を振り回し、怒りの炎を宿した目がぎらりと輝かせ、次の獲物を探す。その視線が、蜘蛛の子を散らすように逃げていく敵兵に定まったのに気づき、
「ひ……秀吉様、なりません、お退き下さい!」
 半兵衛の命を思い出し、辛うじて我に返った桔梗が叫んだが、遅かった。憤怒の塊と化した主は空を揺るがすほどの怒号をあげ、地を蹴る。
「秀吉様っ……!」
 掠れた声の制止は、もう届かず――やがて数え切れぬほどの断末魔が、天を埋め尽くして響き渡った。