障子をすべらせて開いた先には、床で身を起こす巨漢と、美女にみまごうほど端正な顔立ちの美青年がいる。そして巨漢の方がこちらを見て、
「……貴様は……!」
瞠目して絶句した。その様子に、美青年――竹中半兵衛が柳眉を潜め、
「秀吉? 彼女を知っているのかい?」
交互に見比べている。動揺の気配に包まれる室内に対し、廊下に座した桔梗は、鉄壁の無表情を保っていたが、
(まずい。まずいまずいまずい、まずいよ)
その心中は焦りに焦っていた。
遅れて城について数日、ようやく対面を許された主――今この時より、豊臣秀吉と名乗る事を定めたらしい男が、目の前にいる。しかしそれがまさか、山中で人外の化け物がごとく暴れ、挙げ句に桔梗を殺そうとしたあの男だったとは。
(参ったね、これじゃいきなり首どころか、殺されかねないじゃないか)
桔梗が秀吉に毒針を打ったのは、否定しようのない事実だ。殺されると思った瞬間、桔梗もまた相手を殺すと決めて、猛毒の針を打ち込んでいた。
(相手が誰か知らなかった、暗殺しようなんてつもりは無かったと言ったって、聞いちゃもらえないだろうね)
じ、とこちらを見据える男の目は険しく、身から立ち上り始めた気に息が詰まる。
(どうする。契約に従って命を捨てるか、逃げるか)
惑いながら、待つ。
睨みつけるまま黙して語らぬ秀吉。その反応を待って黙す半兵衛。二対の刺すような眼差しを受けながら、ぴんと背筋を伸ばして座す桔梗。
緊張に張りつめる空気は、それだけで身を切り刻むように思えるほどだったが、
「……そうか。貴様、しのびであったか」
ややあって、低く空気を震わす声が、秀吉の口から発せられた。厳めしい顔つきも恐ろしいが、しかしその声音には、意外な事に怒りの色は無い。
「道理で、ただ者ではないと思うたわ」
「……は」
話の先が読めず、桔梗は短く答えるに留める。
「秀吉」
「半兵衛、待て。この女については今話す」
どういう事かと疑問を声音に乗せて、半兵衛が名を呼ぶ。それに制止の言葉を返し、秀吉は射るような眼差しを桔梗に注いだ。
(やっぱり、怖いお人だ)
その目に凝視されると、あの暴走ぶりを思い出して、肌が粟立つ。緊張して身構える桔梗に秀吉は語りかけた。
「一つ聞く。あの時の我の言葉を、貴様は覚えているか」
「…………」
一瞬とぼけようかと思ったが、どうやら冗談の通じる御仁ではなさそうだ。仕方なく応と頷くと、秀吉の太い眉が寄り、威嚇する獣がごとき険相となる。
「それを、誰かに物語りはしておらぬだろうな」
桔梗の利きすぎる耳には酷なほど、低く強く響く声で念を押してきた。気の弱い者なら、咆吼にも似たこの声で気を失うのではないか。
(殺されるかもしれない)
長くしのび稼業をしていて初めて、恐怖とともに死を身近く感じる。背中に冷や汗が滲むのを感じながら、
「……いいえ、秀吉様。お会いした日の事は何一つ、誰にも語りはしておりませぬ。半兵衛様へもご報告致しておりませぬものを、一体どなたに語りましょう。秀吉様が特に秘せと仰られるのであれば、この桔梗、例え死すとも口には致しません」
桔梗は己を叱咤し、声を張って答えた。恐れのあまり、つい饒舌になってしまうのを情けなく思いながら、僅かに足を動かす。
(いざとなれば、逃げる)
勝手に契約を破棄すれば、頭にどんな咎めを受けるか分からない。しかし、存在そのものが恐怖であるこの男の怒りを、まともに浴びるくらいなら、多少の折檻の方がまだましだ。桔梗はそう覚悟したが、
「ならば、よい」
不意に秀吉の身から吹き出していた殺気が収まり、興味を無くしたように視線が外された。
「……話がよく分からないが……良いのかい? 秀吉。もし彼女に何か落ち度があるのなら、解雇しても構わないんだよ」
半兵衛の言葉に、秀吉は否、と首を振った。
「その女は使えると貴様が判断したのであれば、それで構わぬ。無用になれば、切り捨てればよい。それまでは我らの為、しのびの技を役立てればよかろう」
「……君がそういうのなら、僕は構わないけどね」
半兵衛はまだ判然としない様子だったが、秀吉の言にひとまず納得する事にしたらしい。先ほどまで好意的だったが、今は疑心を潜ませた眼差しを桔梗に向け、
「では桔梗、君は下がりたまえ。追って用を言いつけるよ」
冷たく突き放す。桔梗は無表情を保ったまま、平伏して障子を閉めると、すぐさまその場から歩み去った。
(あぁ……命が縮んだ)
人気のない廊下を、明かりもないのに迷いなく歩みながら、胸を押さえる。掌の下で壊れそうなほど心の臓が弾み、体も熱く、耳のそばで鼓動がうるさい。
(あれが新しい主人だなんて、とんでもないね)
これまで仕えてきた者達がみな小者に思えるほど、圧倒的な存在感だ。もし桔梗が下手を打てば、その時秀吉は何の躊躇いもなく、この命を握りつぶすに違いない。
(魔王もたいそう恐ろしいお人だと聞いてるけど、秀吉様も負けちゃいないんじゃなかろうか)
今はまだこの小さな城の仮主にすぎないが、いずれ大きな力になっていきそうだ。頭の見る目は確かだ、と改めて思う。
(おお怖い、せいぜいお役目に励まなきゃならないね)
思わずぶるっと身震いして、桔梗は自分の体を抱きしめた。しかし一方で、心に引っかかる事がある。
『一つ聞く。あの時の我の言葉を、貴様は覚えているか』
秀吉は自分に打たれた毒針より、桔梗の素性より何より、己の言葉についてこだわりを見せていた。二人が語った言葉など、ほとんど無いに等しいというのに、なぜか。
(あの時の言葉で、意味がありそうなものといえば……やっぱり、『ねね』かね)
思い当たるのはそれしかない。寝言で呟いていた女名を桔梗が口にした途端、あの男は激昂して襲いかかってきたのだ。人一人殺す事も厭わぬほどに、それは忌まわしいものなのか。
人の理性を失い、何もかも破壊しつくそうと暴れ回るほどの絶望は『ねね』に関係あるのだろうか。
(いや……どうでもいい事だよ)
仕事に関わりのない事だ。ましてや秀吉自身から口外無用と念を押されているのだ、それを無視して機嫌を損ねるような危険は犯したくない。
(……ねね、か……)
だがその名は、何故か消し去る事が出来ない。桔梗はふっとため息をついて肩を落とし、後ろを振り返った。既に遠ざかった秀吉の居室は、もう見えない。
(それがあのお人の、弱みなんだろうか)
あれほど強大な力を持ち、天下をつかみ取ると豪語する偉丈夫の、弱点なのだろうか。
そう思うと少しだけ、恐怖の心が落ち着くような気がして、桔梗は腕を掴む手の力をやっと緩めた。