――分かっているわ。だから、迷わないで。
その時に対した女は、全てを受け入れるだけだった。ただ淡く微笑み、
――あなたが望み願っていることを叶えて。
己の首を締め上げる腕にほっそりとした手を当て、囁いた。
――愛してるわ。例えあなたが、私を忘れてしまっても……
――おぉぉぉぉぉぉっ!!」
喉から迸る己の叫び声で目が覚めた。激しく鼓動する心臓が、怒号と共に口から飛び出そうなほどに跳ね、息がふいごのように荒々しくあがる。
(今のは……)
夢か、幻か。えずきながら、震える手を持ち上げて視界に映した時、ぎくりとした。その視線の先、荒い息づかいで上下する己の胸板の上に女がもたれかかっていたのである。
――××――
悪夢の中に封じようとしている名前が、口をついて出そうになる。咄嗟に跳ね起きると女は滑り落ちて、勢いよく床に頭を打ち付けた。ごちん、と大きな音とともに目が開き、
「……っつぅ……なんだい、全く……」
頭を押さえながらむくりと起きあがる。違う、××ではない。女は死んでおらず、それどころか全く見覚えのなかった。姿かたちも何もかも、××とはかけ離れていて、見間違えるのも難しいほどだ。
(あの夢を、見たからか)
自分の手で細い首を絞めた夢から目覚めたばかりで、頭が混乱したらしい。あれはもう三日も前の出来事なのに。気づいてみれば周囲の状況も、記憶にある光景とは全く異なっていた。
(どこだ、ここは)
見渡した視界に映るのは、狭苦しく粗末な小屋だ。おそらく長い事放置されていたのだろう、あちこち壁の板がずれて、そこから明るい光がぽつりぽつりと、差し込んでいる。土間には大八車が投げ出されており、その脇に、蜘蛛の巣が張った薪が積んであった。
部屋の中央の囲炉裏には、燃え尽きた灰が残り、それと自分との間に件の女がいる。女はうろんげな眼差しでこちらを見上げてきた。
「ちょいと、あんた。今は正気になってるのかい?」
開口一番、遠慮のない口を利く。改めて見てみれば、全身黒ずくめの格好で、どうも普通の女には見えない。何だこいつは、と思いながら、
「貴様は誰だ。ここで何をしている」
「……いきなり貴様、ときたかい。命の恩人に向かってたいそうな口のきき方じゃないか、えぇ?」
こちらの言い方にかちん、ときたらしく、女の声が尖る。
「何のことだ。戯れ言を抜かすな」
「戯れ言はそっちだろうが。あんた、何にも覚えてないのかい」
「…………」
記憶が無いのは確かなので、つい言葉を無くす。調子に乗ったのか、女はこちらに指を突きつけ、
「あんたが馬鹿みたいに暴れ回るから、山が崩れてその土砂に飲まれちまったんだよ。それでこっちまで巻き込まれて、良い迷惑だ。
土に埋もれたのをあのまま放っておいてもよかったのに、わざわざ掘り起こして、ここまで連れてきてやったってのに。
それを何だい、貴様だの戯れ言だの、お偉い物の言い方じゃないか。こっちは散々骨折ったんだ、せめて『ありがとうございました』の一言もいえないのかい」
こちらが圧倒されるほどに、次々とまくし立ててくる。ややのけぞりながら、記憶をさらってみたが、
(土砂に飲まれた……だと?)
全く覚えがない。だが言われてみれば、自分も女も全身薄汚れていて、動く度に乾いた土がぱらぱらと落ちていく。
(あの状態では、何をしてもおかしくはない。が……)
それが本当ならば、屈辱だ。思わず拳を握りしめ、
「……助けろなどと、頼んだ覚えはない」
吐き捨てるように言う。
あの程度で意識を失うなど、脆弱にも程がある。もっと、もっと、力をつけなければ。強くならなければ。そうしなければ……
「はぁ!? あんた、ふざけんじゃないよ!」
しかしその思考を断ち切るが如く、女は眉をつり上げて叫び出した。
「あんたを助けてやるのにどれだけ苦労したと思ってんだよ! こっちだって大概体を痛めてるってのに、そのでかい図体を運ぶのに、どれだけ時をかけ……あぁぁ!」
怒りの形相で詰め寄ってきた女は、しかしそこで何かに気づいたらしく、がばっと立ち上がった。駆けだして、立て付けの悪い戸を押し開く。目を射るようなまばゆい陽光に顔をしかめながら、女はあぁもう、と頭を抱えた。
「嘘だろ、夜が明けちまってるじゃないかっ。どれだけ寝こけてたんだか……」
言うなり身を翻し、低い梁にひっかけていた着物を取って、
「こんなところでのんびりしてる場合じゃないってのに、よけいなお節介、焼くんじゃなかった」
ぶつぶつ言いながら、腰に荷を巻き付けた。
「あんたなんか助けるんじゃなかったよ、馬鹿馬鹿しい。そのまま、ねねとかいう女の夢でも見て、野垂れ死んじまえ」
こちらを睨み付けて憎々しげに毒づき、くるりと背を向ける。
(――ねね!)
だが、その名前が耳に届いた時、カッと血の気が昇った。
考える間もなく、体が動く。足の下で床板が弾け、細い背中が視界に迫り、
「なっ!?」
ばっと素早く振り返った女を掴んで壁に叩きつけた。ぐわん、と小屋が傾ぎ、板にひびが入ってぎしぎし音を立てる。今にも崩れ落ちそうな有様だが、そんなものはもはや目に入らなかった。
「貴様……何を知っている……」
こみ上げてくる憎悪に声が低く沈む。盛り上がった腕の筋肉にぎりぎりと締め上げられ、女が苦しげに顔を歪めた。かはっ、と喘ぎながら、
「な、に、って……も、知ら……な……」
息も絶え絶えに応えたが、それを聞くまでもなかった。
ねねの名は、この世から全て、消し去らねばならないのだから。
「忘れろ……忘れろ、忘れろ、忘れろ……!」
目の前が真っ赤になり、どくんどくんと血が滾った。両手で女の体を握り、更に力を入れると、みしみしと音を立てて骨がきしむ。「あ……がっ……!」女が喉をのけぞらせ、短い悲鳴を上げるのも無視して、ひと思いに握りつぶそうとした時、
「……ッ!」
女の手首がしなり、銀色の光が走った。
「!?」
真っ直ぐこちらの喉を狙ってくるそれを咄嗟に避けたが、そのせいで力が緩む。女は手を振り払い、高く腕を掲げて、
「宵闇鴉!」
叫ぶと同時に、こちらの肩に鋭い痛みが走る。ハッと見下ろした肩には黒く長い針が数本突き立っていて、動かそうとした途端、雷に撃たれたような激痛が走った。
「ぐぉ、あぁぁぁぁっ!!」
痛みに耐えかねて叫び、女を手放してよろよろと後ずさる。こんな細い針で、何故これほどの痛みに襲われるのか。訳が分からないまま、もう片方の手でそれを抜こうと四苦八苦している内に、女は身を翻して外へ飛び出した。
「ぐ、ううううっ……!!」
あの女は、ねねの名を知る者は殺さなければ。そう思ったが、体は少しも言う事を聞かない。体内で渦巻く激痛と怒りに耐えきれず、握りしめた拳を床板に叩き付けたその時、
みしみしみしっ……どっ、おおおおおっ!!
ぐらぐら揺れたかと思うと、崩れ落ちた梁が背中を打ち、屋根が覆い被さって視界を覆い尽くした。