ぱち……ぱちぱちっ……
薪の上で炎が踊り、弾ける。雨で冷え切った空気は、橙色の光に煽られ、暖かさを増しつつあった。しかしそれを感じる余裕もなく、
「ぜー、はー、ぜー、はー……」
桔梗は全身を震わせて呼吸を繰り返しながら、床に突っ伏していた。
(い……今までしてきた、どんな任務よりも、しんどかった……)
鉛のように重い頭を動かして恨みがましい視線を向けた先には、狭い小屋の端から端まで届くほどの巨体を横たえた、例の男が横たわっている。こちらはもう指一本動かせないほど疲れ切っているというのに、呑気に寝ているのが腹立たしくて仕方がない。
(やっぱり、放っておけば、よかった……)
しかし後悔しても、もう手遅れである。
あれから桔梗は周囲を見回って、無人の小屋を見つけた。
土砂降りでどこもかしこも水びだしになった山道の中、乾いた場所で休めるのはたいそう有り難い。すぐに囲炉裏で火を熾し、痛む体を再度看て、とりあえず擦り傷しかない事を確認した桔梗は、男のもとへとって返した。
しかし、それからがまた大変だった。
何しろ男は、たぐいまれなる巨体である。土中になかば埋まった体を掘り出すのは、気が遠くなるような作業だ。
自身も疲れ切っていたので、土をかき分けるのも重労働だ。転がっていた枝や手で土をのけながら、「ちょいとあんた、自分で、お起きよっ」ほとんど毒づくような調子で何度も呼びかけたが、全く目を覚ます気配がない。
(何で、あたしが、こんな事しなきゃならないんだいっ)
成り行きで命を助けられたとはいえ、山崩れがなければ、自分はこの男に殺されていただろう。出会い頭に、面識もない人間に、何の落ち度もなく殺されるなんて冗談じゃない。
(それにこの雪崩だって、こいつのせいだろ、きっと)
嵐で地盤が緩んだ山中で大声を上げたり、あれほどめちゃくちゃに暴れれば、土砂崩れが起きても当然だろう。そう思えば、ますますこの男を助ける理由が無い。自分は先を急いでいるのだ、早くこの山を抜けて、新しい雇い主の元へいかねばならないのに。
(放っておこうか、こんな奴)
無性に腹が立って来て、手を止めたのも一度や二度ではない。しかし度重なる衝撃で惚けた頭はよく動かず、ぼうっと横たわった男を見ていると、先ほどの狂乱ぶりを思い出してしまう。
(怖かった)
眼前にまで迫った男のあまりの大きさに戦慄し、動けなかった。これまで修羅場は数え切れないほど潜ってきたが、あれほど恐ろしかった事はない。桔梗は生まれて初めて、心底、恐怖を覚えた。
(でも……)
心を占めるのは、しかし恐怖ばかりではない。暴力がそのまま具現したような禍々しい男であったにも関わらず、今桔梗はなぜか、僅かばかりの哀れみを感じていた。
(泣き叫ぶような声だった)
目の前に現れる前から聞こえていた声。それは最初、怒りに充ち満ちたもののように思えたが、落ち着いて思い返してみれば、憤怒の中に悲しみを含んでいたような気がするのだ。
(悲しみ……いや、あれは絶望だろうか)
これまで数多の国を渡り、様々な戦の中で死に接してきた桔梗は、絶望に晒された人々の声音を知っていた。心を捨てた自分には久しく覚えのない感情だが、絶望を抱えた者がどんな声を出すのかは、知っていた。
(この男は何に怒って、絶望してたんだろう)
それが何かは知らないが、しかし妙に気にかかってしまう。結果、自分でも疑問に思いながら、止めていた手をまた動かしてしまうのだ。
そうしてやっとのことで男を掘り起こしたが、そこからもまた苦行だった。
ある程度体を鍛えているとは言え、所詮女の細腕、自分よりも二回り、三回りも大きい、しかも気絶した男を抱えていくなど、全く不可能だ。
(ったく、難儀なこった。いいよ、ここまで来たら、最後まで面倒見てやろうじゃないか)
もはや困難な任務に挑戦するような心境だ。
幸運なことに小屋の脇に大八車があったので、桔梗は男をその上に乗せた。しかし乗せた、と一言で言うのは簡単で、巨体は鉛のように重く、桔梗が精一杯引っ張っても、少しずつしか動かない。
その僅かな距離をじりじり、じりじりと進め、気が遠くなるような時間をかけて男を荷台に押しあげた時には、腕がすっかり痺れて動かなくなっていた。しかも太陽はとっくに沈んで、辺りは闇の幕に覆われている。
(うう……寒い……)
服が乾くまでの間、としのび装束に着替えたはいいが、夜気は刺さるようで、冷え切った体には堪える。もはや気力のみを頼りに、桔梗は重い大八車を何とか動かし、やっとの事で小屋に戻った。
そして男を床に投げ出し、すっかり消えてしまった火を、もう一度熾して倒れ込んだのが、冒頭の状態である。
(あぁもう……何もかもどうでもいい……)
疲弊した体はずしりと重く、あちこち痛んで少しも動かない。このまま意識を手放してしまいたい、と思ったが、しかしぐぅと腹が鳴った。
(……勘弁しておくれよ)
こんな時に、空腹にまで気づきたくなかった。一度自覚してしまえば、腹と背がくっつきそうなほど飢えている気がして、吐き気さえこみ上げてくる。
「あぁもう……」
気持ち悪いわ、体が痛いわで動くのも億劫だったが、食べなければ更に動きがとれなくなるだろう。桔梗は仕方なく、床を這って自分の荷物のところへ向かった。
腰にくくりつけていた荷は、土砂崩れに巻き込まれた時に穴が開いている。いくつか無くなってもいたが、ほとんど無事だ。前にくくりつけていたので、これもあの男に庇われていたおかげだろう。
(確か、まだ丸薬があったはず……)
痺れる指先で中を探り、物を引っ張り出す。ぼろぼろ床に散らばる中に薬包を見つけた。開いた紙の中にある黒い丸薬を一つつまんで、強い臭いに顔をしかめながら、こりこりと歯でかみつぶす。
(さすがに今ばかりは、もっと旨いものが食べたいね)
携帯食は栄養豊富で、一粒食べれば一日保つほどだが、味は度外視されている。乾いた喉に無理矢理飲み下すのは苦行に等しいが、桔梗は我慢した。
ともあれ食べなければ、何も出来ない。そう思った時、男にも食べさせようか、という考えが頭をよぎった。
(さすがに……あれだけ暴れまわりゃ、腹も減るだろうし……)
空腹は人を苛立たせる。くちくなれば、目覚めた時に少しは、穏やかな会話が出来るかもしれない。
(よし……)
我ながら何とも気楽な見識だと思いはしたが、試してみるのは悪くなかろう。少しだけ気を持ち直した桔梗は、丸薬を手に体を起こし、膝を擦って、男のもとへ近づいた。
改めてみると、男はどこかの農民か何かのようで、身にまとっているのは粗末な着物だ。それも暴走故かあちこち破け、ほとんどぼろ布の様相だ。しかしその下には、農民というには相当に鍛え抜かれた体が露わになっていた。
(立派なもんだね……成り上がりの侍か、何かか)
乱世に乗じて、上をけ落とし、己が一国の領主にならんと野望に燃える者も少なくない。それは侍に限らず、農民であればなおさら、不当に搾取される事に憤り、無能な国主の首を取ろうと、思いもかけない力を発揮する事がある。
(お武家様って顔じゃあないね)
のぞき込んだ男の顔は、こうして見るとなかなか引き締まった男前だ。しかし、無骨な中に品を宿す武家衆とは異なり、野性味に溢れて険しく、見ようによってはそれこそ猿にも見える。
(まぁ、どこの誰でも、いいんだけどさ)
桔梗は男の口を割って開き、丸薬を放り込んだ。顎を抑え、喉が嚥下して確かに飲み込むのを見届けて手放した時、その口が動き、
「……ねね……」
か細く、頼りなげな声が漏れ出た。ともすれば聞き落としてしまいそうなそれを捉え、桔梗は眉根を寄せる。
(ねね? 名前……女の名、かね)
優しげな名前は、この男が紡ぐには似合わない。夢で愛しい女にでも会ってるのかと思ったが、
(……いやもう、どうでもいい、疲れたよ……)
短い間に様々な事が起きて、心底疲れて、思考をすぐに放り出した。
(火の番を、しなけりゃ)
頭の片隅でちらりと考えたが、ふああ、と大きなあくびが出て吹き飛ぶ。気力も尽きたか、まぶたが重たく落ちてきて視界は闇に染まり、そのまますとんと意識が消えた。