花のうへの露25

 太陽は登り切り、頂点に差し掛かりつつある。陽光が差し込む木々の合間をすり抜けるように、朝顔は森の中を跳んだ。足が痛むので、力を加減しながら枝から枝へ飛び移り、先へ先へと進んでいく。
(参ったね、このまま行くわけにもいかなさそうだ)
 奥州を早く出ようと、包帯だらけの体に無理を強いて移動していたが、そろそろ限界が来ている。枝に着地した時、足先から全身に痛みが駆け上ってきて、思わず歯を食いしばる。
国境くにざかいも越したし、もうそろそろ、下でもいいかね)
 そう思いながら眼下の道へ視線を走らせた時、視界の端に影が映った。
「!」
 己と同じく樹上を移動するそれに気づいた瞬間、朝顔は振り返りもせず、その手から素早く針を放った。
「おっと!!」
 影が声をあげ、動きを止める。それを見届けてから朝顔は枝に舞い降りた。背後に向き直り、
「こそこそ人の後をつけてくるんじゃないよ。何の用だい」
 声を張って呼びかける。それに応えて、
「だからいきなり攻撃するのはやめようよ、姐さん。命がいくつあっても足りないじゃん」
 軽快な口調で正面の木に姿を現したのは、昔と同じく、まだらのしのび装束に身を包み、しかし中身はずいぶん成長した佐助だった。指の間の針を得意げにひらひら振ってから、ひゅっとこちらへ投げ返してくる。
「でもどうしたの、姐さん。ずいぶん動きに切れがないね」
「……ちょいとしくじって、身体を痛めちまったんだよ。あんたに針を止められちまうなんて、あたしもよっぽど腕が鈍ったかね」
 走る光をぱしっと受け止めて仕舞い込み、朝顔は肩をすくめた。はは、と佐助が乾いた笑いを漏らす。
「まっすぐ目を狙ってきておいて、良く言うよ……。どっちかってゆーと、俺様の腕が上がったって方が正しいっしょ」
「おや、そうかい。図体がでかくなっても、減らず口がそのままだから、つい昔のつもりになっちまったよ」
「あー、年を取ると、昔の事もつい最近のように感じるっていうねー」
「へーぇ。自分の未熟さを棚に上げて、人を年寄り呼ばわりするとは、ずいぶん偉くなったもんだね、佐助」
「いやいや、とんでもない。なんなら手合わせでもして、俺様の成長ぶりを確かめてみる? 姐さん」
 佐助は腰を沈め、大手裏剣を手にして構える。確かに昔とは違い、殺気を高めるその姿のどこにも、隙がない。あの子供がよくもここまで育ったものだ、と朝顔は目を細めて笑った。やめておくよ、と首を振る。
「あいにく、本当に調子が悪いんでね。そういうお遊びにつき合うつもりはないよ」
「……ふーん?」
 佐助は構えを解き、まじまじと朝顔を見つめてきた。黒装束をまとった体を上から下まで見て、ふんふん、と嗅ぐ。
「血の臭いがするね、姐さん。どっかで一仕事してきたとか?」
「ま、そんなところだね」
 多分傷が開いているのだろう。他人事のように思いながら、肩をすくめる。
「もうしのびは廃業したんじゃなかったっけ」
 前の戦が終わった時、佐助と別れる際には確かにそう宣言した。それがこうもあっさり覆されるとは、朝顔自身も思っていなかったのだ。皮肉なものだと苦笑し、
「この仕事が終わったら、今度こそ本当に、未来ある若者へ道を譲るつもりさ」
「そんな事言って、いつまでも立ちふさがってそうだけどね。……で、次は何をするつもりなのか、聞いてもいいかな? 姐さん」
「あたしの仕事を、あんたに話す必要があるのかい」
「んー、姐さんは結構とんでもない事やらかすだろ? それで、真田や武田に火の粉が飛んでくるとやばいからさ、俺様も姐さんの動きは知っておきたいわけよ。
 それにほら、豊臣征伐の時に、うちのお館様と渡りをつけてあげただろ? あの時の借りを返すと思ってさ、ね、このとーりっ!」
 顔の前で手を合わせ、どこか芝居がかった口調で頼み込んでくる。それに絆されたわけではないが、
(まぁ……いいか。邪魔にはならないだろ)
 立ちっぱなしもつらいので、朝顔はストッと枝に腰掛ける。そして、動きを止めた途端、じくじくと痛みを訴えてくる全身の怪我に顔をしかめながら、
「大阪へ行くつもりさ」
 さらり、と答えた。

「政宗様!」
 夜が明けたばかりだというのに、伊達屋敷の中は騒然としている。落ち着かなくざわめく者達を押しのけ、朝顔の部屋へ入った小十郎は、そこに政宗の姿を見いだした。
「……小十郎か」
 どうやら負傷したらしい見張りの兵としのびが、うめき声をもらしながら、手当を受けている。これはおそらく朝顔が脱走する際に倒していったせいだろう。
 その部屋の中央に立つ政宗は眉間にしわを寄せて、手にした書から顔を上げた。小十郎を見ると、低い声で語りかけてくる。
「あの女が逃げたらしいな」
「は……面目もございません。先ほど私の前に姿を現したのですが、逃がしてしまいました。この失態の償いは必ず致します。今はまだ国を出てはおりますまい、すぐに追跡を……」
 女の色香に惑わされ、結果こんな失態を晒すとは、不忠に過ぎる。すぐに挽回をせねばと身を翻しかけたが、
「待て、小十郎。これを見ろ」
 政宗が引き留め、書状を差し出してきた。丁寧に折り畳まれた紙束は妙に分厚く、流麗な手跡で何事か、事細かに書き込まれている。
「政宗様、これは?」
 見覚えのない筆跡に眉根を寄せて尋ねると、政宗は渋い顔のまま、
「朝顔からだ。石田について、これでもかとびっしり書いてあるぜ」
「なっ……!?」
 目を見開き、小十郎は慌てて手紙を広げた。焦ったお陰で重なった束がばさりばさりと開き、その端が床にまで届く。
(これは……!)
 息を飲む小十郎の目に飛び込んできたのは、政宗の言うとおり、石田や大谷など旧豊臣勢に関する情報の数々だった。
 石田と大谷麾下の兵がどれほどか(これは豊臣時代のものだと注釈がある)、彼らに味方するもの、敵対するものは誰か、あるいはその拠点である大阪城の図面、兵糧の備蓄量、大砲や鉄砲隊の規模、豊臣軍のもつからくり・天君の設計図など、その内容は驚くほど多岐に渡っている。
「政宗様……これは、どういう……」
 一体いつの間に、こんなものをしたためたのか。あまりにも思いがけない事にほとんど呆然として呟くと、主はもう一通の文を持ち上げて見せた。宛名は政宗となっており、筆跡からしてそちらも朝顔によるものらしい。
「あの女、どうやら一人でやるつもりらしいな。石田とは戦うな、自分が始末をつけると言ってやがる」
「……馬鹿な、それも虚言でしょう!」
 先に顔を合わせた時、朝顔は一言もそんな事は言っていなかった。これもまた、朝顔の騙しの手じゃないのかとつい叫ぶ小十郎だが、政宗は肩をすくめた。
「そいつが正しいかどうかを確認するのは、お前の仕事だろ。どうこう言うつもりはねぇが……」
 そして小十郎の脇をすり抜けながら、ぽん、と肩に手をおく。
「お前にLove letter一つ書かず、こんなもんを残していったあいつの気持ちを、ちったぁ考えてやったらどうだ。……これ以上奥州の民を傷つけさせない、とよ。泣かせるじゃねぇか」
「……っ」
 主の言葉に、小十郎は声もなかった。
(……何をするつもりだ、朝顔……っ!)
 混乱して全身がわななき、力を込めたその手中で、文がくしゃり、と音を立てる。

 日が頂点に達し、昼飯とばかりにりすが木の実を抱えて駆け抜けていく、その脇で。
「……えぇ? じゃあ姐さん、一人で殴り込みかける気なのか?」
 話を聞いていた佐助が素っ頓狂な声をあげて身を乗り出す。朝顔は肩をすくめて、
「そうだよ。何かおかしいかい」
「おかしいかいって、そりゃあ……」
 途中で言葉を飲み込み、佐助はまたもまじまじとこちらを見つめてくる。好奇心と驚きに充ち満ちたその眼差しに耐えかね、あんまり見るんじゃないよとそっぽを向くと、
「なんか……本当に変わったなぁ、姐さん。昔だったら任務でもないのにそんな事、しやしなかっただろうに」
 しみじみした口調でそんな事を言う。それには、(同感だね)と朝顔も秘かに思った。確かに『桔梗』であれば、己の感情にのみ突き動かされるなど、あり得ない事だ。
 しゃがみこんだ足に頬杖をつき、ふぅん、と口を曲げる佐助。
「坊主憎けりゃ袈裟までって奴か。姐さんがそんなに豊臣嫌いだったとはね。豊臣を滅ぼしただけはあきたらず、残党も一人残らず狩るつもりだったりして」
「まさか。そんな事してたら、きりがないじゃないか。それに」
 目を細めた朝顔の脳裏によみがえるのは、あの日の事。
 ――血にまみれた石田三成の、己の主以外を認めようとはしない冷たい瞳。
 ――死に瀕して全てをあきらめた己の目に映った、死体の山。
「あの男が作り出すのは、死の世界だけだ。そんなもの、誰も望んじゃいない」
 そんなもの、決して認めてはならないのだ。すう、と頭が冷えて、冷たい殺意が手足にまで満ちていく。
「石田三成だけは、誰かが止めなきゃならないんだ。その誰かをあたしがやれば、戦にならずに被害は最小限に抑えられるってもんじゃないか」
「……姐さん、あんた……」
 こちらの覚悟を察したのか、佐助が目を見開き、言葉を失った。しばし沈黙が落ち、さわさわと優しい葉擦れの音だけがゆっくりと積もっていく。風に揺れた枝の合間から陽光が差し込み、気まぐれのようにしのび達を照らし出しては過ぎ去った。
 やがて佐助が立ち上がり、ぽりぽりと頭をかいた。
「……まぁ、姐さんが石田を殺したいっていうなら、止めやしないよ。うちの大将も、あいつには悩まされてるからね」
「武田の殿様が?」
「あ、違う違う、真田の旦那の方だよ。お館様はほら、今病で伏せってるんだけど、石田は主の仇は殺すって公言してるもんだからさ。
 『お館様の命を奪おうなどと、不届き千万! 石田殿の宣戦布告はこの真田源二郎幸村が、正々堂々お受け致す!』って大騒ぎさ」
 わざわざ声色まで真似て、武田の若大将の言葉を告げる佐助に、そりゃそうか、と朝顔も納得した。
 豊臣秀吉の息の根を止めた武田信玄を、石田は骨の髄まで恨み抜いている。その信玄の弟子である真田にしてみれば、とても見逃せぬ敵に違いない。
「真っ向勝負すりゃ、大将の気は晴れるだろうけど、正直ちょっと分が悪い。石田だけならまだしも、今は毛利や小早川が向こうについてて、どうやっても大合戦になりそうだからね。そうなる前に、姐さんが石田を止めてくれりゃ、それに越したことはない」
 その辺りの打算的な計算も出来るようになったらしい。しのびらしい言い分に、朝顔は口の端をあげた。
「ならあんたは、真田の旦那がこれ以上暴走しないように、抑えておくんだね。始末は全部、あたしがつけるからさ。……話はこれで仕舞いだ。そろそろ行くよ」
 立ち上がった朝顔はそのまま跳び去ろうとしたが、姐さん、と佐助が声をかけてくる。
「前の時はどさくさに紛れて、聞き損ねたけどさ。……姐さんがどうしてそこまで豊臣が嫌いなのか、聞いてもいいかい?」
「…………」
 朝顔は背を向けていた事にほっとした。今の自分はきっと、憎しみと悲しみとで、かなり複雑な表情になっているに違いない。
 自分が手塩にかけて育ててきた弟子に、そんな顔を見せたくはない。
「……それほど大層な理由じゃあないよ。ただ……」
 説明しようとしたが、不意にこみ上げてきた懐かしい感情で、言葉が詰まる。それを払うように朝顔は頭を振り、
「ただあれ以上、心を捨てさせたくなかっただけさ」
 それだけ言い残して、枝を蹴る。
(早く……早く、止めなきゃならない)
 固く決意し、痛む身体を押して、先へ、先へと進もうとするその胸に去来するのは――最後に仕えた主、豊臣秀吉の威風堂々たる、それでいてどこかもの悲しい姿だった。