花のうへの露21

 桔梗のもとへ頭の文が届いてから、二週間後。鷹通により陣触れがなされ、物々しい空気が城内を包み込んだ。
「今回の初手は、奇襲作戦だ。鳴竹が打って出るより先に、まずこちらが先手を打つ」
 甲冑の着込みを手伝う佐助に頼鷹が語るのは、こうだ。手の者に調べさせたところ(これは桔梗の事だろう)、鳴竹は佐久の城より北方へ兵を伏せ、気取られぬよう密かに進軍させて、一気に城を攻め落とす算段らしい。
 鳴竹に和した友軍はその援護にまわり、こちらの退路を塞ぎ、一兵たりとも逃すつもりはないようだ。しかしそれを翻せば、鳴竹の軍が崩れれば、小国同士が利をもってつながっている友軍はちりぢりになるはずだ、とは桔梗の弁である。
「佐久の城は兵糧はまだしも、水が乏しい故、籠もるのには向いてはおらん。一度籠城戦に追い込まれれば、座して死を待つようなもの。なればこそ、佐久はこれまですべて、野戦で勝ちを得たのだ」
 身につけたばかりの籠手の具合を確かめ、腕を曲げ伸ばししながら、頼鷹は続ける。
「俺もこんな狭苦しいところでじっとしているのは、性に合わんからな。連中が佐久の地に足を踏み入れる前に蹴散らして、かえって向こうの城を落としてやる腹積もりよ」
「またまた……いくら少数精鋭といったって、城一つ落とせるわけないでしょーが」
 分厚い胸板に纏った胴の紐を、背伸びして締める佐助が言うと、頼鷹はかか、と笑った。
「おう、鬼鷹を舐めるなよ、佐助。その気になれば城の一つや二つや三つ、いくらでも落としてやるわ」
「へいへい。じゃあ俺様は、一歩下がってついていかせてもらいますよ。……ほい、終わりっと」
 軽口を叩いて頼鷹の肩に袖をつけて、下がって改めて見る。
 元々体が大きく見栄えの良い頼鷹だが、甲冑を身につけるとなるほど、鬼鷹の名に相応しく、威風堂々として凛々しい。男の佐助も惚れ惚れとするような武者姿だ。
「うむ、よし。佐助は手際が良いな」
 着付けの具合を確かめて、満足そうに頷いた頼鷹は、佐助を見下ろした。そして、
「では次はお前の番だ、佐助」
 にっと笑ってそう言ったので、
「……へ?」
 佐助は何のことかと目を丸くしてしまった。

 朝靄のかかる道中、息を潜めるようにして男達が行く。
 鎧がこすれ合う音がちゃりちゃり鳴り、馬と人の足がじめついた地面に密かな足跡を残していく。
 無言のまま進む軍の中心にあるのは、一際大きい葦毛の馬に乗った頼鷹。常ならば陽気な笑みが浮かぶその表情は引き締まり、鋭い眼光は霞がかった道の先を油断無くにらみつけている。
 その脇を固める近習もまた、険しい表情で歩を進めていたが、中に一人、年若い少年兵が混じっており、その顔は緊張と困惑でこわばっていた。
(あー、まさかこんな事になるとはなぁ……参った、具足ってこんなに動きにくいもんなのか)
 その少年――佐助は、着慣れない鎧でこすれた首をさすり、ため息をもらしていた。
 桔梗の言いつけで、佐助は己の身分をまだ、頼鷹へ明らかにしていなかった。それ故に随行するならば、とこれまた頼鷹から下賜された鎧一式を、身につけざるを得なかったのだ。
(これじゃあいざって時、うまく働けないかもしれないな)
 しのびの身上は身軽さであって、こうも防具を着込んでは意味がない。
 武士ほど剣術に優れているわけでも、頼鷹のごとく鍛え抜かれた体を持っているわけでもないのだから、いざ戦となれば命取りにもなりかねないだろう。
(しゃーない、その時は紐を切っちまうか)
 着付けの際も多少紐を緩めたので、いざとなれば紐を断ち切れば、何とかすぐ脱げるはずだ。
 いただきものを即座に破棄するのも気が引けるが、命には代えられない。そこで正体がばれたとしても、それは致し方ない事だろう。
 そんな事を思いながら、佐助は周りに習って黙々と歩き続けた。
 夜も明け切らぬ時分。
 鳴竹へ続く林道は静まりかえり、霞で見通せないのもあって、どこか現世と切り離されたような感がある。これから戦に向かうとは思えないような静寂の世界を歩き続けていると、だんだん集中も途切れがちになっていく。
 戦慣れした頼鷹達はもちろんこの程度で緊張を欠くような事はないが、これが初陣の佐助は気の張りつめっぱなしで、いささか疲労を感じてしまう。
(鳴竹まで、あと半刻ってところかな)
 頭の中に地図を描き、佐助はふっと息を吐いた。しのびの自分であればこの程度の距離、とっくに走破している。どうせならさっさと正体を明かして、斥候として先を行った方が、役立てるのではなかろうか。
 そう思い、佐助はちらり、と頼鷹を見上げた。鞍上の将は厳しい表情を崩さず、まっすぐ前を見据えて黙々と馬を進めている。
(どうせ戦場に行けば、ばれちまうんだ。今ここで俺様がしのびだと知れても、早いか遅いかだけの違いじゃないのかな)
 頼鷹に言ってみようか。自分はしのびだ、先の様子を見てこようか、と。
 だが、今は頼鷹の部下が周囲を固めている。正体を明かすにしても、それを知る人間が多いのは好ましくない。出来れば頼鷹のみに伝えたい、それならば目的地にたどり着いてからの方がいいかもしれない。
 しかしその時、
 ……ひゅっ……
 細く風を切る音が佐助の耳に届いた。
「!」
 考えるより先に体が動き、佐助は頼鷹の馬に体当たりした。
 ヒヒィーン!!
「うぉっ!」
 驚き竿立ちになった馬の上で、頼鷹は足を締め、かろうじて落馬を逃れる。そしてその頭があったところに、風を切って矢が走った。
「なに!?」
「敵襲だ、上に弓兵がいる!」
 それをはじき落とした近習の叫びに振り仰いだ先。左手にそびえ立つ切り立った崖の上に、きらりきらりと光が見え、そうと思った時には矢の雨が頭上から降り注ぐ。
「ぐあああっ」
「うぐっ」
 避ける間もなく矢に射抜かれ、ばたばたと幾人が倒れる。動揺し暴れる馬を何とか御しながら、
「この霞だ、連中が頼りにしているのはこちらの音だけに違いない、速やかに進め!」
 頼鷹が声を低めて指示を出す。しかし部下達が落ち着きを取り戻す前に、再度矢が襲いかかり、
 ヒヒィィン!!
 再度悲鳴を上げ、頼鷹の馬が人を蹴散らし、めちゃくちゃに走り始めた。
「頼鷹様!」
 馬の尻につきたった矢を認め、佐助は叫んだ。あのままではいつか振り落とされてしまう、そうでなくとも隊から離れた頼鷹一人のところを敵に襲われては、いかな鬼鷹といえど、苦戦するに違いない。
(構ってる暇はない!)
 佐助は覚悟を決め、走った。水切りの石のごとく飛び飛びに地を蹴りながら、手中に握り込んだ小刀で素早く紐を切り、次々と鎧を脱ぎ捨てていく。
(ごめんな、出番も待たずに捨てちゃってさ)
 がらんがらんと音を立てて後ろに転がっていく鎧に謝りながら、佐助の目は先を走る頼鷹の姿のみを捕らえている。冷たい霞を切り分けるように駆け、
「頼鷹様、無事か!?」
 ついに横へ並んで名を呼ぶと、腕の筋肉を盛り上げ、全力でもって馬を押さえようとしている頼鷹が、驚きの声を上げた。
「佐助、お前か? こんなに足が速かったのか、知らんかったぞ!」
「んな事いいから! 早くそいつをどうにかしないとやばいでしょうが!」
 なにを悠長な、と思わず声を荒げてしまう。しかし暴走馬の上にいながら、頼鷹はあろうことか笑って、
「案ずるな、じゃじゃ馬の扱いには慣れておるわ!」
 ぐい、と大きく手綱を引き絞った。鼻面を引っ張られ、馬はなお苦しそうに首を振った。
「どーう、千影ちかげ、どーう!」
 さらに胴体を締めて、胴間声で興奮する馬を圧する頼鷹。びりびり空気を震わせる大声に馬はびくんとし、しかしそれで我に返ったのか、徐々に速度を緩めはじめた。暴走が収まりつつあるのを見て取った頼鷹は林道をぐるりと方向転換させ、来し方に向けて道を走らせる。
「佐助、皆はどうした、無事か」
 馬の尻に刺さった矢に気づいて労りの眼差しを見せながら、頼鷹は脇を走る佐助に問う。知らないよ、と佐助は答えた。
「俺様は頼鷹様の後をすぐに追ったから。まさか全員倒れたってことはないだろうけど」
「当たり前だ、俺の部下だからな」
 言葉は強いが、語調は苦い。頼鷹は道を戻りながら、くそっと唸った。
「何であんなところに伏兵がいたんだ。鳴竹に悟られぬよう、十分に注意を払ったというのに」
(そういえばそうだ。どうして待ち伏せされてたんだ?)
 頼鷹の言葉に、佐助も疑問を抱く。先手を打つべく、鷹通はこっそり戦の準備を進めていたし、その間、鳴竹の動向にも特に注意を払っていたはずだ。すべて手抜かり無く、慎重に進められていたはずなのに、なぜ奇襲を受けたのか。
(まさか、どこからか情報が漏れた?)
 この戦の世、どこに間者が潜んでいるかわからない。桔梗と佐助はその辺り気を配っていたが、見落としがあったのだろうか。
「とにかく一度退かねば。こちらの動きが知れているのなら、奇襲などかなわぬわ」
 佐助と同じ考えに至ったのか、頼鷹はきっぱり言い放った。確かに、これでは罠の口に兎が飛び込むが如くだ。佐助は馬を早めようとする頼鷹に、
「頼鷹様、そういう事なら、俺が先に行って様子を見てきます。もう帰り道も塞がれてるかもしれない」
 そういって止めた。む、と速度を緩めた頼鷹は改めて佐助を見下ろす。
「佐助、お前はしのびか」
「……はい」
 そりゃ普通の人間に馬と並んで走るなんて芸当は無理だろう、ばれてしかるべきだ。さてどんな言葉が降ってくるかと身構えたが、
「……そうか」
 頼鷹は一つ頷いただけで馬を止めた。「とっとっ……頼鷹様?」行きすぎて地面をこすりながら足を止め、振り返る。頼鷹は汗だくの馬を労るように首へ手を置きながら、佐助をじっと見つめていた。
「――ならば行け、あいつらを連れて戻ってこい」
「頼鷹様。……俺は、」
「お前には、俺の側でやってもらいたい仕事が山のようにあるでな、早く戻って来いよ」
「……っ」
 穏やかな言葉をかけ、それとは正反対に精悍な笑みをニッと浮かべてみせる。迷いのない笑顔にどきりとして、佐助は息を詰まらせた。
 正体を言わず、騙していたのに、しのびなんて怪しげなものなのに、咎め立ての一つもなくお前を使うという。
(……この方を、無事に帰さなければ)
 こんなところで死んで良い人じゃない。己の命をかけてでも、守らなければ。
「了解!」
 己の胸中にこみ上げる感情に突き動かされるように、佐助はその場から駆けだした。
 早く、早くあの人の元へ戻る。ただ一心にそれだけを思い、疾風となって駆けた。辿った道はすぐに尽き、佐助は先ほどの襲撃場所へたどり着いた。
 だがそこで見たものは。

 つい先ほどまで共に歩いていた兵達が皆倒れ伏し、絶命している光景と。
 その中にただ一人立つ、黒の装束に身を包み、黒の無面で顔を隠したしのびの姿だった。

「えっ……姐、さん……?」
 どうしてここに、桔梗がいるのか。それも、戦いの時だけ纏う面を身につけて。
 驚いて思考が麻痺した佐助の耳にその時、
 パァー……ン……
 乾いた破裂音が、遠くから響き聞こえた。