花のうへの露10

 雲が少しずつ空を覆い始め、遠くから湿った匂いが風に乗ってやってくる。
(遠からず、雨になりそうだね)
 その光景を縁側に座して見上げ、朝顔は目を細めた。冷えすぎて雪にならなければいいが、と足をさする。手厚い看護のおかげで足の怪我は順調に回復しており、こうして、自分で床から這いだして縁側に移動できるようにもなってきた。
 しかし少し冷えると足がしびれて、じくじくとした痛みに悩まされる。それは腹の傷も同じで、自分の手でこっそり手当をしているものだから治りが遅く、今はどちらかといえばこちらのほうが悩みの種だった。
(全く、嫌な痕を残してくれたもんだよ)
 わき腹をさすりながら忌々しげに思ったとき、朝顔の耳が足音を聞きつけた。
(あぁ、右目の旦那が来る)
 もうすっかり聞き慣れたそれに嬉しさ半分、しかし気がかりも半分の心地になる。
 会えるのは嬉しい。無沙汰を紛らわせてくれるし、小十郎が何かと気を遣ってくれるのは有り難い。
 しかし、二日前、伊達政宗のもとに届いた文を思い、この平和な地に何か事が起こるのでは、と心が沈む。
(何事もなけりゃいいんだけど)
 そう思いながら、朝顔はおとないを待った。程なくして廊下の先に小十郎の姿が現れ、
「……朝顔? 何をしてるんだ」
 驚きを声に滲ませながら、そばまでやってきた。あぁ旦那、と初めて気づいたように顔をあげ、朝顔は縁から垂らした足をふらふら振ってみせた。
「見ての通りさ。寝床から庭を眺めるのも飽きちまったんでね」
「まさか、自分で動いたのか。呼べば侍女に手伝わせるものを」
 朝顔一人、しかも布団がめくられたままになっているのを見て取り、小十郎の眉間にしわが寄る。まるで子を案じる母のようだ、と微笑しながら、朝顔は肩をすくめた。
「いつまでも人の手を借りてたら、身体がなまけちまうよ。おかげさまで具合もいいんだ、このくらい平気だよ、右目の旦那」
「……ならいいが」
 節度を守った距離を置いて、小十郎も廊下に座る。端然とした風姿はいつ見ても清々しく、朝顔は心華やぐ思いがした。
(良い男ってのは、女の良薬だねぇ)
 義理堅く、細々こまごまと優しい男に尽くされるというのは、良い気分がするものだ。つい口元が緩めつつ、そういえば、と朝顔は疑問を発した。
「さっき、なんだか妙な音が聞こえたけど、何かあったのかい?」
「妙な音?」
「あぁ。花火だか、爆弾だか、とにかく何か爆発するみたいな……凄い音だったから、音女が驚いて茶をこぼしちまったよ」
 側についていた侍女の名を上げて答えを請うと、小十郎の顔にさっと緊張の色がよぎった。間を置いて、
「あぁ……ついさっき、徳川家康が来ていてな。帰り際に本多忠勝が飛び込んできたから、あんた達が聞いた音ってのはそれだろう」
 徳川家康。聞き知った名にやはり、と胸騒ぐ思いがしたが、朝顔は努めて平静を保った。へぇ、と物珍しげに目を丸くする。
「それはまた、お偉い方がいらしてたんだねぇ。それに本多忠勝といえば、戦国最強と有名なお人じゃないか。ねぇ旦那、本多忠勝ってやっぱり、通り名のように強いのかい?」
「そうだな、直接刃を交えた事はないが、あの強さは桁外れだ。あれに一対一で渡り合える者は、そう多くはないだろう」
「伊達の殿様も大層お強いと聞いてるけど」
「むろん、政宗様が負けるはずがない」
 迷いもなくはっきり、断言する。本多の評判は多く耳にしていたから、こりゃ盲信な、と朝顔はひそかに思ったが、小十郎は言葉を継いだ。
「しかし、そう簡単に勝てる相手でない事は確かだ。ましてや徳川家康も以前とは見違えて、より力を増したようだからな」
「へぇ。そういや、徳川の殿様は最近急に逞しくなっていたねぇ。あんまり格好良いもんだから、娘達がきゃあきゃあ騒いでいたもんだよ」
 以前見た光景を思い出しながら言うと、小十郎が身じろぎ、目を細めた。
「あんた、徳川に会った事があるのか?」
「ん? いいや、無いよ」
 朝顔はぴりっと背中に痺れが走るのを感じた。これは気をつけねばならない話題だ。間を取るために足をさすりさすり、朝顔は言う。
「せいぜい、遠くから見かけたくらいだね。ほら、ここに来る前に三河にいたと言っただろう?」
「あぁ……」
「右目の旦那も知ってるんだろうけど、徳川の殿様は気さくな性格らしいからさ。時折城下に姿を現しては、その辺の団子屋でみたらし食べたりして、皆と気安く語り合ったりしてたよ」
「なら、あんたの居た茶屋にも来たんじゃないのか。確か団子も作ってたんだったな」
 まさか、あの男と顔を合わせるような下手を打つつもりはない。心中呟きながら、朝顔は首を振って笑った。
「街のはずれにあるような小さい店だったからさ、殿様が足を運ぶようなものじゃないさね」
「本当か? 言葉を交わした事もないのか」
「そりゃそうだろ。いくら気安いお方でも、お武家様にほいほい近づくほど、厚かましい女じゃあないよ、あたしは。
 ……にしても、旦那」
「何だ」
「徳川の殿様の話になると、随分絡んでくるねぇ。何か聞きたい事でもあるのかい? 今言った通り、あたしは何にも知りゃしないよ」
 話題を変えるためにも軽く探りを入れてみると、小十郎はそういうわけじゃねぇ、と否定したが、その目がほんのわずか、動いた。
(おや。含むところがありそうだね)
 普通なら見落としてしまいそうなその動きに気づき、朝顔はさらに気を引き締めた。ここは一つ、探りを入れておくべきだ。小十郎が自分に対して何か疑念を抱いているのなら、早々に暴いておいた方が、お互いの為になる。
「なら、どういうつもりなんだい。世間話にしちゃ、ちょいとしつこかった気がするけど」
 そう思った朝顔は、廊下に手をつき、小十郎の方へ身を乗り出した。不意に距離を詰められたせいか、小十郎がびくっとして、心持ち上体をそらす。
「……どういうつもりも何も、単なる雑談のつもりだが。なら逆に聞く、あんたは探られると痛い腹でもあるのか」
 身を引きつつ、その声は平静だ。そして真理をついてもいたが、易々と首肯するわけにはいかない。
「そういうわけじゃあないさ。ただ旦那が、あたしが徳川の殿様と関わりを持ってるのか、なんて言うから、どうしてそんな事考えたのかと思ってね」
「それは……」
 小十郎は口ごもった。何かを考える目つきを床に向けて沈黙した後、首を振る。
「いや……ただ、俺はあんたの事を何も知らねぇ。だから、気になって仕方がねぇってだけだ」
「……へぇ?」
 朝顔は思わずどきりとして、低い声で相づちを打った。気になって仕方ないなどと、まるで告白のようではないか。
「……! い、いや違う、今のはおかしな意味はねぇ、変な風にとってくれるなよ」
 朝顔の相づちで意味深な言葉になっていると気づいたのか、小十郎が突然慌てて否定する。それまで落ち着いていたのに、言葉一つに慌てふためく態度の差は何とも滑稽で、警戒に張りつめた朝顔の心がつい緩んだ。
(あら、かわいいお人だねぇ)
 笑ってしまいそうになるのを堪え、朝顔はおやそうかい、と呟いた。そして、腕と無事な足を張ってずりっと移動し、身をしならせて小十郎のすぐ目の前に近づく。
「右目の旦那はそんなに、あたしが気になって仕方ないのかい?」
 そして、しっとり湿った声を小十郎の顔に吹きかける。うっ、と呻いて相手はさらにのけぞった。
「よ、よせ、近づくな」
 その頬がカッと赤く染まり、朝顔の肩を掴んで後ろに押し戻そうとする。だが朝顔はその手に触れ、指先から手首にかけてつっとなぞり、着物の袖の中にまで手を滑り入れた。
「っ……!」
 ぞくぞくと震えを走らせ、小十郎が眉根を寄せて息を飲んだ。
(……やだね、そんな顔しないでおくれよ)
 それを見た朝顔は、身体の熱がじわりと上がるのを感じた。少しからかうだけのつもりだったのに、つい、その気になってきてしまう。このまま先に進めたらどうなるだろう、という期待と、それはやってはいけない事だと諫めの言葉を胸に潜めながら、朝顔はさらに身を寄せた。がっしりした太い腕の、緊張に張った筋肉をさすりながら、
「ねぇ……右目の旦那、どうなのさ……?」
 紅潮する小十郎の顔をのぞき込み、その頬に走る傷跡に、唇が触れるか触れないかの近さで甘く囁いた、その時。
(……誰か来る)
 その耳が遠くの足音をとらえた。紛れもなくこちらへ向かっているそれにすうっと気持ちが冷め、朝顔はちぇと舌打ちしたい気分で、身を引いた。
「……なぁんてね、驚いたかい? 旦那」
 するりと手を離し、先と同じ位置に尻を戻した朝顔は、打って変わって明るい笑みを浮かべてみせた。
「う……あぁ?」
 小十郎は頬に血を上らせたまま、硬直している。その様にとうとう我慢できなくて、朝顔はつい、ぷーっと吹き出してしまった。
「旦那みたいな男に気になって仕方ないなんて言われたら、たいていの女は勘違いしちまうじゃないか。頭からバリバリ食われたくなかったら、言葉にゃ気をつけなきゃだめだよ」
 言いながら流し目をくれると、小十郎はハッとして、
「あ、あまりふざけてくれるな、朝顔。こういう冗談は苦手だ」
 ばつが悪そうに視線を避けて呻く。そりゃ悪かったね、とくすくす笑う朝顔。そこへ、
「……片倉様! こちらにおいででしたかっ」
 ばたばた忙しなく走ってきたのは、左馬之介だった。その姿を認めた途端、すっと上司の顔に戻った小十郎は、
「静かにしろ。客人の前でみっともねぇ」
 ぴしゃりと叱りつける。すいやせん、と謝りつつ、左馬之介はちらっと朝顔を見、
「あの、ちょいと急ぎの知らせがありやすんで……」
 言葉尻を濁す。どうやら、こちらには聞かれたくない話らしい。それと察した小十郎は、すぐさま立ち上がった。
「分かった、今戻る。……そういうわけだ。またな、朝顔」
「あぁ、ありがとうよ、右目の旦那。さっきの続きをしたかったら、またおいで」
「っ、だからそういう事を言うなっ」
 からかいの言葉にまた動揺する小十郎が、いちいち可愛い。くすくす笑いながら、朝顔は小十郎達を見送った。
 小十郎と左馬之介は連れだって廊下を足早に歩いていく。角を曲がりお互いの姿が見えなくなったところで、朝顔は目を閉じて、耳を澄ました。聞かれたくない話とあれば、逆に聞きたくなってしまうのが人の常じゃないか。
「……があって……」
「何? 見張りは……」
 特に集中すれば、小十郎と左馬之介の会話を拾うくらいの事は出来る。
「……で……皆殺し……不明で……」
(皆殺しってなんだい、物騒な話だね)
 しかしさすがに全部は聞こえないので、朝顔はいっそう集中した。会話は続く。
「……手がかり……」
「生き残りの……一人……速すぎて……」
「……速い……居合いでも……のか?……」
(居合い!)
 どくん、と心の臓が大きく高鳴り、息が詰まる。カッと目を見開いた朝顔はしばらく、像のように身体をこわばらせていたが、やがて短く、速い呼吸を繰り返し、
「……くっ」
 ぎり、と歯を食いしばった。
 勘違いならいい、関係なければいい、だがそうと思いこんで見過ごせない言葉だ――「居合い使い」というのは。
 動揺しながら、朝顔は再び耳を澄ましたが、二人はもう遠くへ行ったらしく、足音も聞こえなくなっている。
「……」
 耳から手を離し、ふー、と大きく息を吐いた朝顔は顎を上げた。
 暗い曇天を見つめるその眼差しは刃のごとく鋭く尖り、黒々とした闇が感情の色を飲み込んで消し去りつつあった。