わするばかりの恋にしあらねば9

「あなたの姿が見えないと思ってたら、研究所に来てたんですね、九葉。博士にご用ですか」
 こちらの動揺など知る由もなく、彼女は屈託なく問いかけてくる。間を置いた後、九葉はああ、と歩み寄った。
「……あれが治療をさせろ、としつこいのでな」
「それは当然でしょう。撃たれて間がないのに、あなたはあちこち動き回るから。それでは治るものも治りませんよ」
「お前まで説教をせずともよい。自分の体は自分がよく分かっている」
 応えながら近くで見下ろしてみれば、やはり間違えようもない。
 顔を隠す兜は身に着けていないが、彼女がまとっているのはモノノフ影装――特務隊の制服だ。じ、と見つめているとその視線に気づいたのか、
「あ、どうです? おろしたてなんです、似合ってますか?」
「……なぜ、それを着ている」
 つい発した問いかけの声は、意図せず低くなる。まるで叱責するような声音を訝しく思ったのか、彼女は軽く首を傾げ、
「ええと、私が覚えている限りでは、これが一番しっくり来る装備だと思ったんです。
 マホロバに来た時に着ていたものはボロボロで処分されちゃったので、記憶を頼りに説明して、清麿さん……あ、鍛冶屋さんです、清麿さんに作ってもらったんです。
 これ、特務隊の制服ですよね? どのくらい本物と似てますか、九葉」
 そういって彼女は腕を広げて、くるりとその場で回って見せる。
 その仕草も、楽しそうな笑顔も、姿格好も、身に着けた武器も……すべて以前のまま。突然時間が逆戻りしたかのように思えて、眩暈がする。
「……その清麿という者は、腕が立つようだな。本物と遜色ない出来栄えだ」
 それを堪え、強いて平静を装って言う。それならよかった、と彼女は再び正面へと向き直った。
 藍色の瞳が見据えるのは先ほどと同じ、巫女の結界の向こうにいる鬼の大軍勢。その奥を見通すように目を細め、
「それにあの鬼、シンラゴウが私を見逃さないように、正装して出迎えてあげないと。この格好なら、きっと向こうも分かるでしょうね」
「お前にしては珍しく、随分と好戦的だな」
 彼女はどんな任務にも進んで臨んだが、いつも淡々と冷静に戦うだけだった。
 体を動かすこと自体は好んでいたようだが、相馬のように戦いそのものを喜んでいたわけでもなく、鬼を好敵手のように語った事もない。と、彼女は小さく笑った。
「だって、十年前の鬼との戦いに決着をつけるのなら、これほどふさわしい衣装はないでしょう?
 ……あの時は角を一本落としただけで逃がしてしまって、結局横浜を守り切れなかった」
 でも、今度は違う。
 そう呟いて、柵を握る手に力をこめた彼女の瞳に、光が宿る。人形のようにうつろだったのが嘘のように、生き生きとした光が。
「今度は逃がさない。必ず倒して、皆を、マホロバを守る。――そう決めたんです」

 ……不意に、甦る。
『例えどれほどの激戦になっても。九葉、私は必ずあなたを、あなたが守りたい全てを守ります。――そう決めました』
 一夜を共にしたあの日、彼女が口にした誓いを。
 自分を見つめる瞳が、今のそれと同じように、力強く輝いていた事を。

 その言葉が終わるか終わらないかの内に、九葉は柵を握る彼女の手を掴んでいた。
「え、く、九葉? なに……」
 突然の事に驚いて勢いよくこちらを向いた彼女が、柳眉を寄せる。
「九葉、具合が悪いんですか? 顔色が良くないですよ」
 なるほど、そうかもしれない。血の気が引いて、指先まで冷たくなっているから、顔も青ざめているのかもしれない。
 だが、それに構っている場合ではない。九葉は彼女の手を握りしめた。
 自分のそれよりも小さく細く、それでいて、これまでの戦いを物語るように固く擦り切れた掌。指先の一本一本を確かめるようになぞると、その温もりがじんわりと伝わってくる。
 その熱は、彼女が生きている証。彼女が今まさにここにいるのだと言う証だと思うと、胸が締め付けられるように感じられる。
 けれど、それはほとんど奇跡のようなものだ。
 自分が彼女に出会ったのも、十年の時を経て再会を果たしたのも、こうして向かい合い、言葉を交わし合う事が出来るのも――本当に、万の一つの偶然でしかない。
「あ、あの、九葉……ちょっと、手を……」
「――お前は、どうなのだ。体調に変わりはないか」
 無言で手を撫でまわす元上司を不気味に思ったのか、彼女がぐっと腕を引きかけたので、それを留めて問いかける。相手はえ、と目を瞬いた後、
「特に、変わりはありません。ちゃんと仮眠を取りましたから、鬼を迎え撃つ準備は万全ですよ」
 平然と答えたが、それが真実でない事を彼は知っている。
「空間転移。……それが今すぐ起きぬと、言い切れるか」
「え」
「つい最近も、転移しかけたのだろう。クロガネ鉱山での事、聞き及んでいるぞ」
「! 何でそれを……ああ、時継……誰にも言わないでって言ったのに」
 がっくりと肩を落とす。しかしすぐ気を取り直したように背筋を伸ばした。
「確かに鉱山で転移しそうになりましたけど、もう大丈夫です。
 近辺の領域にある穴はもう無いだろうって博士が言ってましたから、少なくともこの戦いのさなかに跳ぶようなことは無いかと」
「だが、完全に無いとは言い切れぬ」
「九よ、いたっ……!」
 彼女が顔が歪むほど、握る手に力がこもる。そんな顔をさせたくはない、手を離さねばと思う一方で、苛立ちが募っていくのを感じる。
 なぜ彼女は、こうも能天気に、空間転移は無いと言い切れるのか。
 どうして彼女は、鉱山での転移の原因を語らないのか――目の前にいるその元凶を、責めないのか。
「……莫迦者」
 声が震える。考える間もなく、握った手を引いて、彼女を抱き寄せていた。わ、と足をもつれさせて胸に飛び込んできた体を腕の中に閉じ込める。
「えっ……く、く、九葉、な、何ですか!?」
 突然の抱擁に彼女の声がひっくり返った。咄嗟に身を離そうとするのを、腕を絡ませるようにして、動きを封じる。
 久方ぶりに身近く感じる人の体温、温もり。さらりと揺れる黒髪から漂う甘い香り、鍛え抜かれ、しなやかで柔らかい体。
(まるで十年前の再現のようだ。お前の姿かたちも何もかも。そして、鬼の侵攻が迫る中、こうしてお前を抱くのも)
 彼女は変わらない。自分も、彼女への思いは変わらない。こうして再会し触れ合える事は歓びに他ならない。
 だが、ここまで十年前と同じ状況が揃ってしまった事に、九葉は恐れを感じずにはいられなかった。
「九葉……あの、どうして、そんなに震えているんですか」
 自分を離そうとしない元上司に戸惑っているのか、彼女が着物に顔をうずめたまま呟く。莫迦者、ともう一度罵って呻いた。
「……お前はまた、消えてしまうのではないか」
「!」
「十年前のあの日、お前は私の目の前で鬼門に飲まれた。いずれこうして再会する事を期待しないでもなかったが……大半は、諦めていた。
 お前はあの時、死んだも同然なのだと。もはや二度と会う事は叶わぬのだと。……そう、思っていた」
「……九葉」
「今また同じ事が起きぬと、なぜ言える。
 あの時のように鬼が鬼門を開き、お前を飲みこんでしまわぬか。
 お前自身が世界との結びつきを失い、いずこかの時へ跳ばされてしまわぬか。それを思うと、私は」
 恐ろしい。心の底から、恐ろしいと思う。
(恐怖など、もはや慣れ親しんだものと思っていた)
 オオマガドキ以降、人々は己を血塗れの鬼と呼んで忌み嫌い、悪夢は繰り返し己を苛み責めた。博士に告げた通り、命を狙われた事も一度や二度ではない。
 ゆえに九葉はとうに、いつ命を落としても悔いのないようにと覚悟を決めていた。
 覚悟を決めてしまえば、人々から向けられる悪意も、悪夢がもたらす恐怖も、全て受け入れ受け流す事が出来た。もはや恐れの気持ちなど無意味と切り捨てさえした。
 だが――今は、恐ろしい。
(もう一度お前を失えば、私は狂うやもしれん)
 それほどに自分の中で彼女の存在が大きくなっている事にも、おののいている。あの夜危惧した通り、一度手にしてしまった彼女を失う事が恐ろしくてたまらない。
 頭のどこか冷静な部分は、何と心弱い事か、ただの女一人に血塗れの鬼がこのざまかと自嘲しているが、もはや致し方ない。
 目をそらす事も出来ないほど恐れが大きくなってしまったのであれば、あとはもう認めてしまうしかなかろう。
「……どこへも、行くな」
 横浜の時は言えなかった言葉が、自然と口をついて出た。半ば懇願するように囁く。
「お前は私と共におらずともよい。それは私には、血塗れの鬼には分の過ぎた高望みというものだろう。――だが、私の手の届かぬ時の彼方まで行くな」
 彼女がこの世からいなくなってしまう事が、どんなにこいねがっても二度と触れられぬ彼方へ消えてしまう事だけが、どうしても耐えられない。
 たとえこの思いが叶わなくても、せめて同じ時、同じ時代を生きていてほしい。そう願いながら滑らかな黒髪に顔をうずめた時、
「……九葉、苦しいです」
 彼女が静かに言ったので、ハッとした。抱擁に力をこめすぎて、彼女は半ば窒息しそうなほど九葉の肩に顔を押し付ける恰好になっている。
 すまぬ、と腕の力を緩めると、彼女はハァッと大きく息をつき、そして不意に手を伸ばしてきて、こちらの顔をぐいっと引き寄せた。
「!?」
 ぎょっとして硬直する視界いっぱいに、彼女の顔が映った。藍色の瞳には、驚き目を見開く自分が映っていて何とも情けない顔をしている。何を、と問いかけようとするより先に、
「九葉。私は、あなたが好きです」
 頬を染め、九葉の目をまっすぐ見つめながら、彼女が告げた。
「!」
 突然の告白に息を飲むと、彼女は「ああ、やっと言えた」とにっこり笑う。
「ずっと、あなたに言いたくて言いたくて、でも状況が状況だから、機会がつかめなくて。言えてよかった」
「……それは、」
「昔の事だ、無用の悶着を引き起こすなんて、言わないでくださいね、九葉」
 勘違いなのではないかと言おうとしたが、先んじられた。微笑んだまま彼女は言う。
「過去の記憶を思い出した、思い出さないなんて、もう関係ないです。
 昔の私はあなたを愛していた。今の私も、私が知る限り、すべてのあなたを愛してる。勘違いでも何でもなく、絶対の自信を持って言えますよ。
 だから何度でも言わせてください――私はあなたが好きです。あなたを愛してます、九葉」
「…………」
 息が苦しいのは、胸が締め付けられるからか。胸が締め付けられるのは、喜びを覚えているからか。声も出せずにいる九葉に、彼女はこつんと額を合わせて囁く。
「……あなたは、九葉? あなたは私を愛してくれてる? ……私を、欲しいと思ってくれてる?」
「!」
 その台詞に、心臓を刺されたような錯覚を覚えた。
 忘れもしない、あの夜。
 最後の最後まで怖じる自分を後押しするように、彼女が甘く囁きかけた台詞。
 今と同じように額を合わせ、心からの思いを込めて告げられた言葉。
(……ああ、そうか。あの時応えられなかった私が、悪いのか)
 不意におかしさがこみあげてきた。
 こんな事まで十年前の再現がなされている。そして過去の自分はあの時、誤った言葉を選んで、それゆえに彼女と引き離されてしまったのではないか。
(私は素直に己の気持ちを口にしなけれならなかった。こやつの思いを受け止め、私の思いを認めなければならなかったのだ)
 九葉は彼女を見た。
 夜空を思わせる藍色の瞳は星が浮かんでいるかのように輝いて、宝石の如く美しい。
 この瞳に、自分はいつから惹かれていたのか。
 もしかしたら初めて出会った時すでに、こうなる事が決まっていたのだろうか。
(お前を失う事が怖い)
 その恐怖はこの先も消えず、抱え続けていくだろう。
 だがそれでもなお、彼女を欲しいと願うこの思いを受け入れてしまわねば、自分はきっと生きながら死んでいくようなものだ。ゆえに、九葉は彼女の瞳を見つめ、
「……愚問だ。私はお前より十年長く、お前を欲している。昔も今も、変わらず……おそらくはこれからもずっとな」
 低く囁きながら、顔を傾けた。
 彼女の長いまつげが触れるのを感じながら目を閉じ――そして、かつて触れた柔らかな唇に再び、己の唇を重ねる。
「――」
 浅いため息が漏れて、彼女が九葉の名を口にする。九葉も彼女の名を呼び、更に深く重ね合わせた。それはあの時のように、それは互いの呼吸を奪い合うような口づけだった。
「んっ……ふ……は、はっ……」
 しばし貪るように唇を重ねた後、乱れる呼吸を飲みこんで、彼女が顔を離す。視線が合うと頬をほんのり赤らめてはにかみながら、
「……九葉。私は必ず帰ってきます」
 今度は自分から、九葉に軽く口づけた。
「だから、あなたは待っていて下さい。私はマホロバへ、あなたの元へ帰ってきますから」
「……そうか」
 さらり、と長い髪を撫でてから、九葉は抱擁をといて彼女を見下ろす。

 彼女が生きて帰る保証など何もない。どれほど望んだところで、現実はたやすく人の希望を裏切る。
 だがそれでも、信じたいと思う。
 彼女の言葉を、その誓いを、信じたいと心から思う。

 ゆえに九葉は彼女に優しく微笑みかけた。そして、
「では私はお前をここで待とう、マホロバのカラクリ使い。――汝に英雄の導きあらんことを」
 激励を口にして、戦場へ向かうその背中を心置きなく見送ったのだった。