わするばかりの恋にしあらねば4

「……おい、その辛気臭い顔をやめろ。飯がまずくなる」
「え? あ、ごめん」
 神無に注意されたのは、戦の領域を浄化して後、久音の小料理屋で食事をしていた時のことだった。
 任務に同行した焔、紅月、神無と、料理屋で会った椿とで卓を囲んでいたのだが……どうやら知らず知らずのうちに、しかめ面をしていたらしい。
「そういやさっきからずっと、すげー顔してんな。そいつが口に合わねぇんなら、俺が食ってやろうか」
 すかさず焔の箸が風切焼に伸びてきた、と思ったらその隣に座った紅月がずどむ、とやたら重い音を立てながら肘鉄を脇腹に入れる。
「お行儀が悪いですよ、焔」
「……っ!!」
「ところで、確かに元気がないようですね。どこか具合でも悪いのですか」
 声も無く悶絶する被害者をよそに、加害者が平静と尋ねてくる。焔と紅月はこういう事の積み重ねなんだろうな……と思いながら、そこには触れずに答えた。
「そういうわけではないよ。ただ……さっき会った、軍師九葉の様子が気になっていて」
「あら、何かあったの?」
 その場に居合わせなかった椿に、戦の領域での事を説明すると、彼女は眉をひそめて、
「お頭詮議の為なんでしょうけど、人の事こそこそ付け回すなんて、ちょっと気持ち悪いわね」
「まぁ、それは職務で仕方ないところだと思う。気になるのはそこじゃなくて……話をしていた時、軍師が一瞬悲しそうな顔になった気がして、どうしてかなと」
「……悲しそうな、顔だぁ? おい、そんなのいつの話だよ」
 少し復活したらしい焔が、腹をおさえながら異論の声を上げる。あれ、と思わず首をかしげてしまった。
「えっと、私を指して腹心の部下といったでしょう。それに昔の事だと返事した時、そういう顔を……」
「全っ然見た覚えねぇ。最初から最後まで、えらっそうにふんぞり返ってただけじゃねぇか、あのおっさん。テメェ、目おかしくねぇか?」
 ……そこまで言われると、自信が無くなる。
 確かに軍師九葉は常に辺りを払うような威厳のある振る舞いをするが、あの一瞬。今は無関係だと告げた時、さっと顔に影が落ちたように見えた。
 けれどそれはすぐぬぐい去られ、軍師は何事もなかったように紅月へ話しかけたから、見間違いだったかと考えもしたのだが……。
「仮に軍師九葉がそういう反応をしたのなら、十年ぶりの昔なじみに知らん顔をされるのは、やはりいい気分がしなかったんじゃないか」
 ワイラの尻尾焼きを綺麗に平らげた神無がようやく口を開く。
「……そう、なのかな?」
「どうしました?」
 今の自分には過去の記憶がなく、軍師九葉もこの里で出会った人と同じくらいの印象しかない。それ故にぴんと来ないのだが、神無の指摘は的を射てるのかもしれない。
 けれど何となくしっくりこなくて呟いたら、紅月が小首を傾げてこちらへ視線を向ける。いや、と小さくかぶりをふって、
「……特務隊にいた私がどんな人間だったかは分からない。けど多分、物の考え方や信念――自分が何をなすべきかはわきまえていたと思う」
 すう、と頭の芯が冷える。全ての感覚が急速に遠ざかり、きーん、と甲高い音が耳の奥でなり始め、自分の声さえ聞き取りにくくなる。
(まただ)
 時折襲われる、この感覚。己の役割について自覚するたびに、世界中から自分が切り離される感じ。
 確かなものは何もなく、ただ自分だけが取り残されて生きているような錯覚を覚えながら、うつろに言葉を紡ぐ。
「鬼を討つ。私がなすべきはそれだけ、他の事はどうでもいい」
「……あぁ?」
 自分の前に座る焔が、眉をあげて訝しげに唸る。だから、とふわふわした感覚のまま続ける。
「私にとって鬼を討つ使命以外は無意味だし、それは特務隊にいた時も同じだと思う。そんなつまらない人間を、久しぶりに会ったからといって、懐かしむものかな」
 不意にしん、と沈黙が落ちた。
 はっと我に返ると、皆が言葉を失ってこちらを見つめている。
(しまった、何か場違いな事を言ったらしい)
 この感覚に陥る時はいつも、こんな風に周囲から浮いている自分を自覚してしまう。
「ごめん、変な事を……」
 慌てて謝罪の言葉を口にしようとした時、
「おい、隊長。ちょいと」
 焔が二本立てた指をくいくいと曲げて、近くに寄れと示した。
「? なに、ほむ……ぐはっ!!」
 素直に身を乗り出した途端、いきなり眉間に凄まじい打撃を受けて、後ろに大きくのけぞってしまった。勢いそのまま、椅子からがらがらがっしゃんっと転げ落ち、
「あっ……っ……~~!!!!」
 ついで襲ってきた激痛に、額を手で覆って地面の上で縮こまってしまう。
「ちょ、ちょっと大丈夫!?」
「おい、しっかりしろ」
 ガタガタと立ち上がった椿と神無が急いで自分を助け起こしてくれ、紅月は紅月で、
「焔、突然何をするのです、危ないでしょう!」
 二本指で思い切りこちらの額をはじいた焔を捕まえて、しかりつけている。しかし当の焔はけっ、と悪態をついた。
「そいつがあんまりしょーもねぇ事言うからだ、当然だろ。あーぁ、飯がまずくなった。俺ぁ帰らせてもらうぜ。気分悪ぃわ」
 そう言って紅月の腕を振り払い、さっさと出て行ってしまう。焔、と紅月はさらに追いすがろうとしたが、
「べ、紅月……いいから、待って」
 助けてくれた二人の手を借りてようやく椅子に戻り、彼女を制止する。額がずきずきと痛んで仕方ないが、
「私が、よほど不用意な事を言ったんだろうから。焔が気を悪くしたのなら、申し訳ない。後で謝りに行くよ」
 そう言ってとりなす。
「ですが……、いえ、あなたがそれでいいと言うのなら、構いませんが」
「……打たれたところが赤くなってるな。冷やした方がいいんじゃないか。おい、手ぬぐいを持ってきてくれ」
「はい、今お持ちしますね」
 こちらの額を覗き込んだ神無はそういって、何事かと近づいてきた久音に頼んでいる。そして椿が自分の服についたよごれをパッパッと払いながら、
「もう、焔ったらいきなり乱暴な事するわね。そりゃあちょっとは気持ち分からなくもないけど」
 そんな事を言ったので、え、と声を漏らしてしまった。
 正直なところ、焔がなぜ突然こんな事をしたのか分からない。口調こそ冗談めかしていたが、彼の表情は冷たく、本当に怒っている時の顔をしていた。
「……焔は私の何が、気に入らなかったんだろう」
「…………」
 その答えが分かるのだろうかと思いながら問いかけると、また一瞬沈黙が落ちる。紅月と椿は互いに視線を交わした後、
「……おそらく、ですが。焔が怒ったのは、あなたが自分自身を蔑ろにするような事を言ったからではないでしょうか」
「それに周りの事もどうでもいいなんて言われたら、一緒にいる私たちは何なのって思うわよ」
 口々に告げた。
 自分自身を蔑ろに。周りをどうでもいいと。
「あ……あ、あぁ、そうか。そう、だね」
 そうか、確かに鬼討ち以外は無意味だなどと断じてしまえば、マホロバの皆を否定することになる。今この時、一緒に会話を楽しむ時間さえどうでもいいなどと言われれば、不快に思わないはずがない。
「ごめんなさい、そこまで気が回らなかった。そんなつもりはなかったのに」
「別に、それでもいいんじゃないか」
 けれど、冷えた手ぬぐいをこちらに差し出しながら、神無は肯定を返してくる。何よ神無、と口をとがらせる椿に鋭い視線をやって、
「俺は最強を目指している。何か一つの事を極めようとするのなら、他を切り捨てるのは致し方ない事だろう」
 言葉で切り付けるように言い放った。
 すると紅月が、ひっくり返った皿を戻しながら、穏やかに言う。
「最強であるということは、孤高と必ずしも同一ではありませんよ。誰かと共にあればこそ得られる強さもあります。あなたはまだ、それに気づいていないのかもしれませんが」
「…………」
「そうよそうよ。私だって、そのために一番を目指しているんだから」
「え?」
 手ぬぐいを痛む額に当てて顔を向けると、椿は視線を落とし、
「……私がモノノフになったのも、霊山訓練兵で首席を取ったのも、マホロバで戦い続けてるのも。全部、父さんのためよ」
 淡々とした口調で告げた。
「オオマガドキで母さんが亡くなって、必死の思いで私を守ってくれた父さんを、私も守りたかった。力になりたかった。一番を取って、すごいぞ椿って言ってもらいたかった」
「椿……」
 静かな語りで、かえってその思いが強く感じられる。
 今は亡き主計の優しい笑顔を、椿との掛け合いがいかにも親子らしい暖かさがあった事を思い出し、不意に胸が締め付けられた。思わずその肩に手を置くと、ぱっと顔を上げた椿は少し笑って、
「ねえ、前から聞いてみたかったんだけど、あなたはどうしてモノノフになったの?」
 いきなり問いを投げかけてきた。う、と言葉を詰まらせてしまう。
 どうしてと言われても、何も覚えていない。
 大半が失われた中、かろうじて残された記憶の中で自分はすでにモノノフであり、椿のように明確な志願理由など分からなかった。
 こちらの戸惑いに気づいたのか、椿が慌てて手を振り、
「ごめん、覚えてないのよね。じゃあ質問を変える。あなたは何のために戦ってるの、隊長」
「何の、ため?」
 問いを変えてきたので、さらに困惑してしまった。そうですね、と紅月が頷く。
「戦う姿を見る限り、あなたは大変な努力を重ねて、今の人並み外れた強さを得たはずです。
 一言で鬼と戦うと言っても、それは生半可な覚悟で進める道ではありませんし、何の目的もなく続けられる事ではないでしょう。
 ならば、今は忘れてしまっていても、鬼と戦う事にあなたなりの理由があるのでは?」
「鬼と戦う、理由……」
「…………戦う理由か」
 おうむ返しする自分。何か思うところがあるのか、神無も噛みしめるように呟いている。物思わし気な横顔は、サムライとして生きてきた過酷な人生を思い返しているのだろうか。
(私にはそれがない)
 過去は遠く、ほんの欠片しか残されていない。
 自分自身が何者なのかさえあやふやなのに、戦う理由など求められて分かるはずもない。
「……ねぇ、隊長」
 黙り込んでしまった自分に、椿が優しく声をかけて、膝の上に置いた手をそっと握った。私ね、と微笑みながら続ける。
「里に来て間もなくて、近衛でも何でもないあなたが一番に名乗りを上げて、私と一緒にアマツミツツカと戦ってくれた事、とても嬉しかった。
 あなたにとってあれはただの鬼退治だったのかもしれない。それでも、嬉しかったのよ」
「……椿」
 ぽんぽん、と励ますように手の甲を叩いて、椿の手が離れる。紅月も大きくうなずき、
「あなたが思っている以上に、マホロバの皆はあなたを気にかけています。そんな風に人から信頼を寄せられているのだから、自分の事はどうでもいいなどと、言ってはいけませんよ。それは、皆の信頼を裏切っているようなものなのですから」
「…………」
「……俺も帰る」
 がたん、と神無が腰を上げた。見上げると彼はふっと顔を背け、
「……お前についていけば、面白い事が色々ある。あまりふぬけた面を見せるな。特に食事中はな」
 言い捨てて出て行ってしまう。
「もう、他に言いようがないのかしら、神無ったら。焔もそうだけど、男連中は乱暴すぎるわよ」
 ぷりぷりと怒る椿に、それも彼らの優しさなのでしょう、と笑いかける紅月。また楽し気に談笑を始める彼女たちを、
「…………」
 自分はただ、黙って見ている事しか出来なかった。

 食事を終えて仲間と別れ、家に戻ると夜になっていた。
 装備を解き、寝巻に着替え、寝床を整えて横になる。
 普段なら三つと数える間も無く眠りに落ちるのだが、今日はどうしてかなかなか寝付けない。いや、どうしてかというと、
「……まだ痛い……」
 焔に弾かれた眉間が、まだずきずきと痛みを放っているのだ。仕方なく起きて、水に浸した手ぬぐいをしぼって、額に乗せる。
「ああ……少し、楽になったかな」
 寝床で上体を起こし、手ぬぐいで覆った視界は真っ暗で、何も見えない。痛みが少しずつ引いていくのを感じながら、先の会話を反芻する。
(私が鬼と戦う理由、か)
 そんな事は、考えていなかった。
 鬼を倒すという命題だけが自分の中で大黒柱のように屹立しているから、それの理由を求めもいなかった。
 だが、言われてみれば、なぜ自分はこうまで鬼討ちに固執しているのだろう。
 力があるから、向いているから。それはあるだろう。モノノフ以外の職についている自分など、想像もつかない。
 戦う技は体の芯にまで刻み込まれていて、鬼と戦っている時は自分でも意識しないような動きをしている時があって、多分戦うこと自体も好きなのだろう。
 けれど、それだけなのだろうか。
(私も、椿のように……鬼と戦う理由があるのだろうか)
「……っ!」
 そう思った途端、頭にずきりと痛みが走って息を飲んだ。手ぬぐいをおさえ込んでしばらく身じろぎもしないでいると、やがて痛みが潮のように引いていく。
(駄目だ、思い出せない)
 これまで何度か記憶を取り戻せないか試みてみたが、大抵こうやって断念している。博士によれば、ある日突然蘇る事があるかもしれないから諦める事はないということだが……。
(いい、とりあえず今日は寝よう。頭が回らない)
 太いため息をつき、手ぬぐいを乗せたまま横になる。朝になればこの痛みも楽になっているだろうと期待して目を閉じ、やがて訪れる睡魔に身をゆだね――

「……!!?」
 不意に、飛び起きた。
 寝入ってから大分時間が経ったのか、少し開けた障子の隙間から、うっすら朝焼けが見える。まだ目覚めるには早い明け方、普段ならもう少し寝ているはずなのに、
「な――!」
 思わず叫びそうになったので慌てて口を手で押さえ、ばくばくと跳ねる心臓の音を聞きながら、荒れる呼吸を何とか飲みこもうとする。まさか、何かの間違いだと今見た夢の内容を思い返し、
「……~~~!!」
 そのせいでカーッと頭に血が上ってくらくらしてきた。
(な、な、なんなの、何なの今のは!!)
 信じられない。ありえない。だが、頭の片隅では冷静に受け止めている自分がいる。
 すなわち、それはお前の記憶なのだと。
 すなわち、実際にあった過去の事実なのだと。
「…………ほ、本当に?」
 疑問に答えてくれる相手はいない――今、この場には。
 まだ落ち着かない鼓動に胸をおさえながら、顔を上げる。その目に、部屋の隅にひっそりと置かれた文机が入った。