あるかなきかの(血界戦線スティーブン&チェイン)
臭い。シャツにも体にも、女ものの香水が染みついていて、鼻が曲がりそうだ。スティーブンはふう、とため息をついて口を曲げた。
(事務所でシャワー借りるか)
ここからなら家にまっすぐ帰るより、ライブラ本部の方が近い。入浴設備も一通り揃っているから、汗を流すくらいは問題ないだろう。
ぶらぶら歩きながら、ぼうっと考える。
どうせならホテルにすべきだったか。
しかしそうすると長っ尻になって解放されなくなるので、それも厄介だ。
今日の相手は、寄越してくれる情報の質は他にないものなだけにスティーブンも重宝しているのだが、あまり執着されるのは重荷で、別れた後はいつも疲れてしまう。
(しかも匂い付けをされるからな)
シャツに顔を寄せるとますます匂い立って、鼻の頭にしわを寄せてしまう。
着替えも置いていただろうかと思いながら、通いなれた道を歩いていたら、
「スティーブンさん、こんばんは」
闇の中から人の形が切り取られて、静かな声が耳に届いた。
「チェイン。……お疲れ様、仕事帰りかな」
「はい。スティーブンさんはどうしたんですか、今日はお休みですよね」
「ああ、まぁ……ちょっとね」
きちんと手続きをとっての非番とはいえ、仕事中のメンバーに会うと気まずい。
しかもこんな女の匂いをぷんぷんさせた状態で若い女性の部下と対峙したら、セクハラと言われそうだ。
スティーブンはチェインから少し距離を置いて立ち止まり、へらりと笑った。
「事務所に忘れ物をして、取りに行こうと思って。君はもう上がりかい」
「はい。あ、報告書は机の上に置いておきました。明日でいいので、確認していただけますか」
「わかった。行くついでだ、それも見ておくよ。君の報告書ならすぐチェックも終わる、ザップみたいに間違いだらけなんて事になってないだろうしね」
「……ありがとうございます」
普段、自分と話す時はあまり感情をあらわにしないチェインは、こうして仕事を労った時だけ、恥ずかしそうに目を伏せる。
そういう表情を見ると、ああこの子はまだ素直なのだなぁと感じて、スティーブンは何かほのぼのしてしまう。
(このまま、まっすぐに育っていってほしいものだ)
まるで親か何かの心境でそんな事を思いながら、それじゃあ、と手を振る。
「疲れてるところをあんまり引き止めちゃ悪いな。帰ってゆっくり休んでくれ、チェイン。ご苦労様」
「はい。お疲れ様でした」
別れの挨拶を口にすると、チェインは軽く頭を下げ、とんっと地面を蹴った。
そのまま身軽に近くのビルの屋上まで跳び、街灯のあかりが届かない夜の中へ、あっという間に溶け込んでしまう。
不可視の人狼は、自分自身を自由自在に希釈する事が出来る。
ヘルサレムズ・ロットを跳ぶ人狼は今、鳥くらい身を軽くしているのだろう。
クラウスや血槌のハマーも、跳躍すれば同じくらいの高さまで到達できるだろうが、重量級で地面にひびを入れ、豪風を伴う彼らと違い、チェインのジャンプはあくまで静かで、頬をわずかに風が撫でるくらいだ。
(……そういえば)
チェインを見送って空を見上げていたスティーブンは、ふと気づく。
(あの子は何の匂いもしないんだな)
常に黒スーツに身を包んだ不可視の人狼は、無臭だ。
人にはそれぞれ体臭があるし、女性なら香水やら整髪料やら化粧品やら、何かと香りがまとわりつくものだが、今触れた風にそういった類のものは一切しなかった。
(潜入捜査を主にしているからか、種族特有のものなのか)
あるいはそのどちらもなのかと思いながら、事務所への道を再び歩きだす。途端に自分から匂ってきた強烈な残り香に苦笑いして、ああだから、と呟いた。
だから、チェインのそばは居心地がいいんだな、と。
女おんなしてないから好意を持ってる的な。