悪い男(血界戦線スティーブン←チェイン)
「……あなたは相変わらずお世辞が上手ね、スティーブン」
こぼれ聞こえた名前は珍しくもなく、それだけなら足を止める理由にはならなかったのだけど。
「世辞なんかじゃないさ。君と一緒にいる時が一番幸せを感じるよ」
続く声が聴きなれたそれだったので、チェインはその場に釘付けになってしまった。
――盗み聞きをしようとそこにいたわけではない。
チェインはれっきとした仕事で、街灯の上から、ターゲットを監視していたのだ。
高層ビルやマンションが乱立するその区域は、望むと望まないと限らず、大小さまざまな声が聞こえる。
必要がなければ普段は無視するチェインだが、正直、興をそそられる掛け合いに時々耳を傾けたりもしてたりする。
だが、その時聞こえてきたそれは。聞いてはいけないものだと即座に判断したのに、動く事が出来なかった。街灯の傍にあるマンション、開いた窓のカーテンの向こうから声は続く。
「ウソばっかり。それならもっと会いに来てくれてもいいでしょう?」
「勘弁してくれよ、忙しいのはお互い様だろ? そんな怖い顔しないで、楽しくやろうじゃないか……」
しゅるり、と布がこすれる音。女の忍び笑い。笑いを含んだ低い声が囁く。
――!
その先を、聞いてはいけない。咄嗟に体が動く。気づいた時、チェインは二ブロック先まで移動していた。
「っ……、駄目だ、ここからじゃ見えない」
舌打ちして元の場所へ向かうべく、屋根を蹴った。
けれど監視に選んだのは、先ほどのマンションから離れた場所だったので、チェインは自分自身に対して、もう一度舌打ちしてしまったのだった。
(……分かってる、分かってるよ。あの人がモテるのは)
仕事を終えたその日の夜。
教授と呼ばれるマスターがいる、いつもの店、そのカウンターに突っ伏して、チェインはため息を漏らした。
耳に残るのは、これまで一切聞いたことのない、スティーブンの甘い囁き声だ。
(プライベートを話してくれないから、何してるのか知らなかったけど……やっぱり、彼女いたんだぁ)
しかも明らかに大人の関係。大人のやり取り。そりゃあ良い大人の男女同士が何もしないわけはないだろうけど、それにしたって。
(はぁ……凹むわぁ)
チェインは別に、上司とどうにかなりたいと積極的に考えているわけではない。
スティーブンのようにスマートな大人の男性が、自分のような子供を相手にするとは思えないし、仕事第一な上司はきっと、オフィスラブ厳禁に違いない。
もしチェインが告白でもしたらきっと、即座に線を引かれてしまう。
そうなる未来が簡単に予想できるから、チェインはその素振りを見せていなかった。
K・Kにはあっさり看破されているけれど、スティーブンはもちろん、他のメンバーは気づいてもいないに違いない。
だから今日あった事を、ライブラの誰かに愚痴るような事は出来ない。
(……人狼の皆も今日は出払ってるし……下手に話したら、エメ姉がびんた張りにいくかもしれないし……)
駄目だ、自分の胸の中に収めておくしかない。
抱えておくにはヘビーな現実に、チェインがもう一度深々と息を吐き出した時、
「あ? 何だ犬女、珍しくダウンしてやがんのか、何か拾って食って腹壊したんか」
「……話しかけてきてんじゃないわよ、糞猿」
心底聞きたくない声が耳に刺さって、チェインは半眼になってしまった。
弱った姿を見せていたら何されるか分からない。毒づきながらパッと体を起こすと、相変わらずだらしのない風体の銀猿が、したたかに酔っぱらった様子でふらふらとこっちに歩み寄ってくるところだった。
どさーっと乱暴なしぐさでチェインの隣に座り、
「おう、駆けつけ一杯たのんまぁ、こいつと同じ奴でいいや」
酒臭い匂いをぷんぷんさせながら教授に注文をする。チェインは思わず自然と、蔑み果てた顔で睨み付けてしまった。最悪な日に最悪が上塗りだわ。
「何でここにくるのよSS、他の店に行きなさいよ」
「ああー? 別にお前の店じゃねぇだろ、俺がどこ行こうが勝手だろうが」
「あんたみたいな銀糞はそこいらの路上でバド飲んで、側溝に落ちてのたれ死ぬのがお似合いでしょ。いっちょまえに人間様みたいに注文して酒を飲もうなんて、十億年早いっての」
「おま、よくそこまで人をけちょんけちょんにいえるなぁ!? さっきまでカウンターに沈み込みそうな勢いでダウンしてたくせに、何なんだよ一体!」
「は? なに? あんたもしかして猿の分際であたしの心配したっていうの? なにそれ気持ち悪い、何が目的なの、あんたに貸す金なんて1セントたりともないわよ」
「貸せよ! もう財布空だっつの! お前が払えよ!」
「払うかこのゾウリムシ! 人の財布目当てで寄ってくるんじゃない!!」
「ごはっ!!」
ぐわしゃ、と手近にあったウィスキーボトルを銀髪に命中させて、チェインは席を立った。やっぱり今日はついてない、こんな日は家に帰ってさっさと寝るべきだ。部屋掃除してないけど、一か月分くらいの汚部屋だけど、少なくともこの糞猿のたわごとをBGMに酒を飲むよりはましだ。
そう決意して、人と異界人が入り乱れる店内をすり抜け、店のドアに手をかけた時。
「……あれ? チェインじゃないか。偶然だな」
「! こっ、こんばんは」
不意に開いた扉の向こうから、スティーブンその人がひょっこり顔を出したので、チェインは咄嗟に声をひっくり返してしまった。ノータイでシャツのボタンをいくつか開けた格好のスティーブンは、いつものように愛想よくにこりと笑う。
「こんなところで会うとは思わなかったな。もう帰るのか?」
「あ、は、はい。……珍しいですね、スティーブンさんがこんなお店に顔を出すなんて」
普段ハイソな暮らしをしてるらしい彼が、こんな場末の酒場にくるとは考えてもいなかったので、気が動転してしまう。早口に言うと、まぁたまにはな、と相手が頬をかいた。
「こういうところは知り合いが居ないから気楽だと思ったんだが……君ならいいか」
そしてぽん、とチェインの肩を叩いてくる。
「君がよかったら少し、付き合ってくれないか」
「え……い、いいんですか」
彼女の事は放っておいて、と言いかけ、慌てて言葉を飲み込む。リラックスした様子なのは、あの後大人の時間を過ごしたからだろうし、飲む時間があるなら彼女と過ごすのが普通ではないのかと思わなくもないが、
「無理ならいいさ。……仕事で少し疲れてね。一人で飲むのも味気ないから、適当な店に入ってみただけなんだ」
スティーブンの、いつもよりけだるげな、何となく色気のある微笑で誘われて、断れるはずがない。
「……あの、はい……おつきあいします」
「ああ、じゃあ行こうか。二時間ばかりで解放するから、そう緊張しないでくれ」
二時間どころか、朝まででも全然大丈夫です。そういったらこの人はどんな顔をするだろうかと思いながら、チェインはさりげなく、スティーブンの視界からクソモンキーを遮断する位置へと誘導していった。
邪魔が入らないように、銀のモンプチは後で外の側溝に埋めてくることにしよう。
あの女しつこくてめんどくさかったわー適当に酒飲んで帰るかーという最低な男の話ですw
チェインはスティーブンを何て呼んでるんですかねー。