彼女が街にやってきた 13

 始まりは、闇。前にも、後にも、上にも、下にも、何もない。そこは無の空間であり、例外としてそれを認識する、微かな自我だけが存在していた――……ゼ、コ……二――自我は闇を浸食し、少しずつ無を有に置き換えて、やがて目覚め、あどけなく這いずり始める――な……しは……――そうして開いた瞳に映ったのは、見たことのない場所だった。否、自身に見覚えのある光景など何もない。なぜなら――……わたしはナゼ、コこにいる……――繰り返される日々。平和な日常の裏側に隠された、本当の世界。安寧に溺れるのは簡単だ、だが自分は気づいてしまった――私がいるべき場所はここじゃない――自ら駆け回り、また金色の王者からヒントを得て、世界の裏側へ足を踏み入れる――アナタノ名前、七海ッテイウノ、ドウ?――無機質な青い線で縁取られ、暗闇の中にぽっかり浮かんだ、非現実的な空間。だが今、これこそが自分にとっての現実なのだと知っ――デは、彼女はまスたーかもしれナいト?――奇妙な人形と共に奥へ、ひたすら奥へと走る。これが本物の世界なのだと、それなら進んだ先にきっと答えがあるはずだと信じて――食べられるいやだいやだいやだなぜこんなだって私は――そしてたどり着いた先にあったのは、無数の死体と、ばらばらに砕かれた人形の残骸。その中でぽつんと立った人形がこちらへゆらりと向き直り、次の瞬間――神父は囁く。思い出したまえ、君があるべき世界を。その手は彼女の頭蓋を掴み、きしませ、林檎を握りつぶすようにあっさりと、痛みを感じる時も与えずに粉々に砕き、――視界が砕ける、否、闇に浮かんだステンドグラスが粉々になって光の滝と降り注ぎ、その奥から現れた赤い影が人形を弾き飛ばして、彼女の前に立った。両手に白黒の剣を携えたその男は彼女を見下ろし、開いた口から何か言葉を発して、

 ――ッ!
 どくん、と心臓が跳ね、体がのけぞってけいれんする。めまぐるしく入れ替わる光景に頭がついていかない、ただ頭が砕けた痛みを幻視して、七海はがばっと起きあがった。
「あっ……は、はぁ、はぁ、はぁ……!!」
 心臓がきりきり引き絞られるように痛み、目の前が白黒に明滅して目眩がする。それまで呼吸を止めていたのを取り戻すように激しくあえぎ、七海は額に手を当てた――大丈夫、頭は無事だ。
「は……はぁ、う……」
 砕け散る痛みは夢で見たものを錯覚しただけにすぎない。もしあれが現実なら、自分は生きてはいないはずだが、吹き出した汗を拭いながら周囲を見渡しても、何の異常もない。カーテンが閉められ、時計の針が進むコチコチという音だけが響く、彼女以外は誰も居ない部屋の中だ。
「あ……は……」
 七海はからからに乾いた喉をおさえ、しわぶきを漏らした。何かにせき立てられるように切迫した夢を見たせいか、体がだるい。
(水を……飲みたい)
 ぼんやり思い、ベッドから足を下ろす。緊張にこわばっていた体で多少ふらふらしながら部屋を横切り、ドアまでたどり着いてノブに触れようとした時、
 ――こんこん。こんこん。
 不意に向こう側からノックされ、びくっと硬直してしまった。
(神父様?)
 夢のせいか、とっさに黒ずくめの男を思いだして、寒気が背中を駆け上る。だが、そんなはずはない。ここは教会ではない、衛宮家だ。あの神父がいるわけがない。それに、
 ――コンコン。
『七海? ねぇ、まだ寝てるの?』
 ノックと共に聞こえてきたのは、なじみ深い少女の声だ。
「あっ……お、起きた、ちょっと待って!!」
 七海が慌ててドアを開くと、身支度を整えた凛がぎょっとして一歩後ろに退いた。
「何だ、びっくりした、もう起きてたの?」
 あまりにも素早く出てきたので驚いたらしい。それから七海がまだ寝間着姿なのを見て取り、苦笑する。
「その様子だと、今目が覚めたばかりみたいね。疲れてたんだろうけど、そろそろお昼になるから。いい加減、起きた方が良いと思うわよ」
 言われて見た時計は、確かに十二時を差している。七海の血の気が引き、ついて頬が熱くなった。居候なのに、こんな時間まで寝過ごしてるなんて、厚かましいにも程がある。
「え……ええっ!? うわほんとだ……ご、ごめんなさい、すぐ行く!」
 慌てる七海を面白がるように笑い、凛が焦る事はないと答える。それに対して更に言葉を重ねようとした七海は、
 ――ッ
 一瞬視界が二重にぶれ、凛の声もだぶって聞こえて顔をしかめた。どっと心臓が自身の存在を主張するように大きく鼓動し、カァッと瞬間的に体が熱くなる。
「痛っ……!」
 針で刺したような痛みが手先を麻痺させ、その場に崩れ落ちそうになる。
「七海!? どうしたの!」
 よろめいた彼女を、凛がさっと支える。その細い体にもたれ、七海は空気を求めて大きく深呼吸した。焼ける。脳が焼ける。体が熱い。手が動かない。苦しい。だけど嬉しい。そうだ、これは肉体を持つものの実感だ。積み重ねた記憶の中で、どうしても得ることが出来なかった、実体の伴った痛みだ。
「七海、七海しっかりして! とりあえず横になって、今看てあげるからっ」
 必死に呼びかける声。それが耳に入り、七海はぼんやりと顔を上げた。
 心配そうにこちらをのぞき込む、黒髪の少女。自分は彼女を知っている。そう、知っているのだ。
 黒髪で、綺麗な少女で、厳しい事も言うけれど、こちらが困っている時には仕方ないわねと手を貸してくれる、腕利きの魔術師――
「……凛」
 七海は凛の腕を握り、名を呼ぶ。その美しい響きの名を、自分は何度、感謝を込めて呼んだだろう。
「凛」
 かみしめるようにもう一度その音を舌に乗せ、七海は微笑んだ。萎えかけた足をまっすぐにしてしっかり立ち直し、
「凛、大丈夫。もう何でもないから、心配しないで」
 穏やかに答える。凛は疑い深い眼差しを向けながら、
「遠慮しなくていいのよ、七海? あなた、本調子じゃないでしょう。具合が悪いなら、よくなるまで休んでて構わないんだから」
 心から労ってくれた。本当に大丈夫だからと首を振り、七海は凛をまっすぐ見つめた。
「ねぇ、凛。今日は何月何日だったっけ」
「え? ……十月九日だけど」
「そう。十月九日なんだ。九日。――私が衛宮君の家に来た次の日、だね」
 そしてなかば予期していたその答えを、静かに、じっくりと、かみしめるように繰り返したのだった。