彼女が街にやってきた 11

 ――あの女が邪魔なんです。
 冷淡な声で告げるそいつに、俺はふふん、と笑った。いきなりずいぶん物騒なこと言うんだな、怖い怖い。おどけて身を縮めると、そいつはむっとして口を尖らせる。
 ――からかわないで下さい。あなただって、このままでいいと思ってはいないでしょう?
 別にぃ、と頭の後ろで手を組む俺。いいじゃん、このままでも。皆毎日楽しそうで、不満を言ってる奴なんて居ないし。むしろ、ずっと続けばいいとさえ願ってるじゃないか。あんたもそんな難しい顔してないで、何も考えずに楽しめばいいんだよ。
 ニヤニヤしながら誘惑してみると、そいつは大きなため息をついて、プイと背を向けた。
 ――もういいです。あなたに相談したのが、そもそも間違いでした。
 吐き捨てて、そのまま立ち去ろうとするので、呼び止める。おい、どうするつもりだ?
 ――このまま見て見ぬふりは出来ません。他の誰もやらないというのなら、私が彼女を排除します。
 それってあんたがあいつを殺すって事? そいつは肩越しに振り返って、ガラスのような目で言った。
 ――そうしなければこの悪夢が終わらないというのであれば、いくらでも。
 きっぱりとした言葉は、それ自体が研ぎ澄まされた刃のようだ。それにばっさり斬り捨てられたような気がして、咄嗟に口を開く。
「待った。それなら俺がやるよ。――あんたは肝心なところで、下手を打ちそうだからさ」

「文化祭? をやるの?」
「ええ、そうなんです。時期が迫ってるんですけど、弓道部で何をしようかってまだ決まってなくて……」
 とある休日の午後。家事が一段落した桜と七海は、居間でおやつを食べながら雑談に花を咲かせていた。
 小さく切ったようかんを口に運びつつ、話題に上るのは、目下準備中の学校行事――文化祭の事だ。記憶に無いながらも学生だったらしい七海としては、その内容に興味津々である。桜の言葉に首を傾げ、
「弓道部なら、皆で打ってるところを一般公開してみるとか? トーナメント形式の大会で優勝者には豪華景品が! っていうのはどうかな?」
「それは多分、あんまりお客さん来ないんじゃないかな……普通に試合みたいだし」
「そうかなー私だったら、一日中見てても飽きないと思う。特別ゲストで士郎君も参加してもらったら、盛り上がりそう」
「あ……そうなったら、私も嬉しいです」
 つい本音がぽろっと出たのか、桜は少し頬を紅潮させて微笑んだ。その笑顔は控えめだが愛らしく、七海はつい見とれてしまう。
(桜さんって綺麗だなぁ……特に、士郎君の話をしてる時が一番可愛い)
 それはきっと、彼女が士郎に心を寄せている為だ。
 短い間でも共に過ごしている内に、桜が誰に好意を抱いているのか、七海にも分かるようになっていた。というか、衛宮家にいる女性陣は大方、彼に恋しているように思えるのだが。
(それも分かる気がするけどね。士郎君って優しいし、大人っぽいし)
 おまけに聖杯戦争の勝利者という事であれば、頼りがいがあるどころではない。異性としても、魔術師としても、彼は人目をひく存在だろう。
(私も何だか気になるような、そうじゃないような……)
 そこまで考えて、違う違うと打ち消す。士郎が気になるのは事実だが、それは彼自身がどうこうというよりも……その先。彼が魔術師として研鑽を積んでいったその先に、『彼』がいるからで――
「……で、うちのクラスは喫茶店をやるんです」
「え? あ、そうなんだ!」
 ぼうっと考え込んでいる内に、桜は別の話題に移っていたらしい。耳に入ってきた言葉で我に返って、急ぎ相づちを打つと、桜が頷いて、
「ええ、皆お揃いの制服も用意してて、結構気合いが入ってるんです。私は部の方がどうなるか分からないから、どれだけ手伝えるかも見えないんですけど……」
 そういって、床に伏せていた紙袋から、丁寧な手つきで中身を取り出し、
「あんまり可愛いから、ちょっと借りて来ちゃいました。ね、これ、いいでしょう?」
 それをふわっと広げて見せた――

 一方。
 商店街から衛宮家へ連なる道を歩きながら、アーチャーは眉間のしわを深々と刻んで、
「……凛。私は君の召使いではないと何度も言ってるのだが」
 隣を軽い足取りで行く、赤い服の少女へ不平を漏らしていた。凛はこちらを見上げ、何よと口を曲げる。
「こっちの買い物に口出ししてきたのはそっちじゃない。やれにんじんは芯の小さいものがいいだの、牛乳は四時からタイムセールが始まるだの……。
 よけいに買い込んで大荷物になったのはあんたのせいなんだから、荷物持ちくらいして当然でしょ?」
 そういわれては返す言葉がない。
 この身に染み着いた主夫業は英霊になろうとも失われる事なく、商店街に出向くとその能力を遺憾なく発揮してしまう。凛につられて入店してしまったのが運の尽きというか、自業自得というか。
「なんなら、今日は皆と一緒にご飯食べてけば? これだけの量なら、一人増えたって問題ないでしょうし」
 アーチャーの両手にぶら下がる、限界まで詰め込まれたビニール袋二個を見下ろして凛が言うのに、断固として首を振る。
「御免被る。私は君と違って、仲良しごっこは好みではない。そもそも、サーヴァントは食事など必要としないのだから、無駄なことだ」
「そんな事いまさらでしょ。セイバーはあの通りだし、最近はライダーも普通にご飯食べてるんだもの。それに」
 前方に近づいてきた衛宮家を手で示し、凛はニヤッと笑った。
「あそこは今もあなたの家でしょう? 放蕩息子が帰りづらいのはわかるけど、照れる事ないじゃない」
 それは地雷だ。ぴくっと眉を上げ、アーチャーは冷ややかに凛を見下ろした。例え彼女であっても、触れてほしくない事もある。
「――凛。君は聡明な魔術師だと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ」
「あら、どうして? 私は間違った事、言ってないでしょ」
 氷のような視線にもたじろぐ事無く、凛は肩をすくめた。門の敷居をまたぎ、その内側でくるりと振り返って、
「あなたがこの家に近づきにくい心境は、何となくわかる気はする。だけど、そろそろあなたの過去と、向き合ってもいいんじゃない?」
 揺らぐ事のない、まっすぐな瞳でアーチャーを見上げる。
「あなたが今この時、この時代に現界していられるのは、途方もない奇跡だわ。平和な時の中であなたはかつての故郷に存在していられる。あなたが無くしてしまったものに、触れられる機会がある」
 その眼差しは、すり減った記憶の中でわずかに残された、忘れがたい少女のそれ。
「凛」
 口にした名は、かつて呼べなかったもの。美しく、凛々しく、かけがえのないその存在。
「……だから、ほら。怖がらずに、歩み寄ってみなさいよ、アーチャー。あなたが大切にしていたものが、今ここにあるんだから」
 そういってニコッと笑いながら誘われたのでは――もはや、断りの文句が出てこない。
アーチャーは口に苦笑を上らせ、小さく首を振った。
「君にはかなわないな、凛。……では、少し寄らせてもらうとしよう。どうせ、あの男が私を追い出そうとするだろうがね」
「士郎はそんな事しないわよ、したら私が怒るわ。いいから仲良くしなさいってね」
「それは到底不可能な命令だな」
 門をくぐり、中へ入る。そしてゆっくり歩を進めながら、アーチャーは辺りを見渡した。広々とした中庭には落ち葉が綺麗にまとめられ、たき火の跡も残っている。塀に囲まれた内側には広々とした母屋と別棟、その傍らに土蔵がある――おそらくはかつての彼が記憶していた通りに。
(記録は確かだが、記憶は断片だ。思い出す事など、もはやかなうまい)
 聖杯戦争の最中、凛が衛宮士郎と手を結んだ時にも外側からこの建物を眺めたが、胸によみがえるものなどほとんど無かった。
 あったのはただ、後ろ暗い歓喜のみ――あの男を殺して、奴隷のくびきから逃れられるという、その好機を前にして、彼は虎視眈々と獲物を狙い続けただけだった。
(私は、衛宮士郎ではない)
 長い年月は彼を別物に変えてしまった。凛が期待したような、懐かしい思い出など、蘇るわけがない。
(だが、それでも――ほんの少しでも、安らぎを覚えるものなのだな)
 凛に続いて玄関へ足を踏み入れたアーチャーは、家の中に漂う匂い――衛宮家独特の、年経た日本家屋の香りに、何とも言えず心和んでしまった。
(不思議なものだ。何一つ覚えていないと思っていたのに)
「ただいまーっ。桜、いるー? 買い物してきたわよー」
 しかし、勝手知ったる他人の家、さっさと靴を脱いであがる凛は、アーチャーの感慨など知る由もない(あるいは敢えて気づかない振りをしているのか)。とたとたと廊下を進み、居間へと姿を消してしまう。
「やれやれ……中まで荷物運びさせるために、私を招いたんじゃなかろうな」
 両手に抱える大荷物を見ると、そんな気がしないでもない。アーチャーは嘆息しながら自身も廊下へ踏みだし、
「凛、君は私を便利な道具か何かと勘違い――」
 居間をひょいと覗いて嫌味を言おうとして……凍り付いた。
「えっ……あ、アーチャー!? うわ、やだ、見ちゃ駄目!」
 そう叫んで少女が勢いよくしゃがみ込む。しかし好奇心に顔を輝かせた凛が、
「何してるの、七海ったら! いいから、立って見せてよ!」
 二の腕を掴んでぐいと立たせたので、少女はひゃああああ、と妙な声を上げながら棒立ちになってしまった。その身には、なぜか――メイド服を纏っている。
(な……)
 日本家屋の和室にメイド服。あまりにも異質な存在感に、アーチャーは呆然と見入ってしまった。
 黒の下地にしたそれは裾や袖の部分にたっぷりフリルが舞い、腰の部分はコルセット風にぎゅっと締められ、四角く切り取られた胸元は鎖骨を見せるタイプの真っ白なブラウスがのぞき、楚々とした黒いリボンが膨らみの真ん中にちょんと飾られている。
「や、やだやだ、着替える! 離してったら、凛!」
 顔を真っ赤にしてもがくそのスカートは、フリルで若干丈がごまかされているが短く、ほっそりとした足が太股半ばからまっすぐ伸びていて、何とも目に毒だ。それを上から下までまじまじ見つめて、凛はニンマリ笑った。
「それ、ちょっといいじゃない。こんな服、どこで手に入れたの」
「うちのクラスで喫茶店をやるから、その衣装を借りてきたの」
 少女のそばに立ち、桜が説明する。
「こういう可愛い服着た事ない気がするって七海さんが言うから、せっかくだからって」
「ふぅん、そう。へーぇぇ」
「う……も、もう、そんな顔しないで! 少し試してみただけで、変なのはわかってるから!」
 少しでも視線から逃れようと手を回して隠す少女。凛は楽しそうに笑うと、
「変だなんて言ってないわよ、似合ってるって。ね、そう思わない? アーチャー」
 少女の体をくるっと回してこちらに正面を向けてきたので、アーチャーは危うく変な声を出しそうになった。
(だ、だからファッションショーは女だけでやれと言ってるだろうが!)
「いや……その……」
 心中でだけ叫んで、言葉は実際出てこない。らしくもなく狼狽えたが、
「あ、アーチャー……」
 少女が耳まで真っ赤になって硬直しているのに気づく。眉を八の字にして、恥ずかしさのあまり今にも泣き出しそうになっているその表情を目にしたら、皮肉など口に出来るわけもなかった。
「……あー……わ、悪くはないんじゃ、ないか」
「…………」
 辛うじて評価を絞り出すと、少女は目を瞠ってこちらを凝視し、
「…………アーチャー、こういうのがいいんだ…………」
 ばっと俯いてそんな事を呟いた。途端、肩越しに凛が人の悪い笑顔を覗かせ、
「そうそう、そうなのよ、七海。こう見えてアーチャーってメイド服に目がないの。この格好でおねだりしたら、何でも言うこと聞いてくれるわよ、試してみる?」
 いきなり嘘八百を少女に吹き込み始めたので、
「ちょ、ちょっと待て凛! ありもしない事をさも事実のように語るな! メイド服が好みだなどと、一度たりとも言った覚えはないぞ!?」
 アーチャーは思わず買い物袋を持ったまま、居間へどすどすと踏み込んでしまった。凛は少女の背中に隠れ、
「あら、七海を見たときの顔は雄弁に物語ってたわよ、アーチャー。『なるほど、メイド服も悪くはない。むしろ良い。目の保養だ』って」
「勝手に人の心情を騙るんじゃない!」
「あ、アーチャー、ち、ちち近い近い離れてくださいっ!」
 がーっと凛に詰め寄ったアーチャーは、下から聞こえる声で我に返る。はっと見下ろした先では、凛とアーチャーの間で身動き叶わずパニック状態に陥っている少女がいる。気が付けばぴったり寄り添うほど密着していたので、
「!! うわ!?」
 アーチャーはずざっと大げさなくらい後ずさり、勢い余って座卓にけつまずいた。そのままバランスを崩し、
「アーチャーさん、危ないっ!」
 桜が慌てて支えようとするのも間に合わず、どしんと床に尻餅をついてしまった。おまけに手にした買い物袋も、ぐしゃりどしゃっと嫌な音を立てて勢いよくたたきつけられる。
「わ、あ、アーチャー大丈夫!?」
「ちょっと何してるのよ、もーっ! 卵平気!?」
「う……め、面目ない」
 本当だ、自分はいったい何をしているのだろう。羞恥のあまり自分も顔が熱くなるのを感じながら、アーチャーは少女から視線をそらし、袋を持ち上げて机に置いた。凛と桜がその中身を取り出して点検し始める一方、
「ごめんね、アーチャー。私が変な事してたから……怪我してない? 平気?」
 少女はアーチャーの前に膝をつき、おろおろとこちらを窺っている――メイド服のままで。
「……ひとまず、だ」
 アーチャーは顔を右手で覆いながら、
「その格好は改めたまえ。その……似合う似合わないではなく、落ち着かない」
 ぐったりと懇願した。少女はあっと叫び、「う、うん、そうする! すぐする!」ばばっと勢いよく立ち上がり、急いで居間を出て行った。
 それを見送り、アーチャーは大きくため息をついた。本当に、あの少女が絡むと、どうしてこんなに調子が狂うのだろう。
 ……とりあえず衛宮士郎がこの場にいなくて良かったと思う。あの男にこの醜態を見られたらと思うだけで、情けなくて涙が出てきそうだ……。