衛宮家の新たな住人となった少女についての調査は、はかばかしくなかった。
まず士郎がネットで学校名を検索してみたが、見つからず。
凛は魔術師協会へ照会の手紙を出し、また遠坂家の権力を動員して、地元警察に届け出があった行方不明者を調べたが、該当者なし。
さらに、キャスターが彼女を外来者だろうと指摘したのを受けて、ホテルを片っ端から当たってみたが、こちらも不発だった。
「協会の方はとりあえず返事を待つとして……今のところ、良い知らせは無いわね」
朝食の席で凛はひとまず結論づけた。その隣に座した七海は「そう……」と沈んだ声でつぶやく。
「藤ねえにも聞いてみたけど、つくみはらって学校は知らないみたいだ。ごめんな、力になれなくて」
表情を暗くする少女を気遣う士郎。申し訳なさそうに謝られて、七海は慌てて顔を上げた。
「あ、ううん、凛も士郎君も、いろいろ調べてくれてありがとう。とっても助かる」
「しかし、まだ未確認の情報があるとはいえ……」
楚々とした仕草でありながら、あり得ない速度で食事を平らげていくセイバーが首を傾げる。
「凛、あなたはかなり手広く調べているのでしょう? それでも全く手がかりがないというのは、いささか奇妙な気がします」
「奇妙って、どういう意味?」
「それは……いえ。何でもありません」
何か引っかかるというように言葉を切り、セイバーは士郎へ視線を送る。「?」その意味が分からず目を瞬く少年の横で、桜が眉根を寄せて口を開いた。
「昨日病院にも行ってみたんですよね、七海さん」
桜の付き添いで、七海は大学病院へ行っている。こくりと頷くも、その顔色は晴れない。
「特に外傷はなくて、心理的なものじゃないかって言われました。ある日突然記憶が戻るかもしれないし、そうじゃないかもしれない、何ともいえないって」
「何それ、ヤブ医者ねー」
「うん、まぁ……。とりあえず日常生活を送っていれば、自分と関わりのある事をきっかけに思い出すかもしれない、とも言われました」
「関わりのある事、ですか。今のところ分かっている点といえば……」
スクランブルエッグを素早く片づけるセイバーの言葉を、士郎が引き継ぐ。
「つくみはらって学校の生徒で、魔術師で、たぶん冬木に住んでたわけじゃない」
「それから、七つの海、ですね」
静かに食事を終えたライダーがぼそり、と呟く。え、と皆が視線を向けると、眼鏡の奥でゆったり瞬きをして、
「凛との連想ゲームで彼女が唯一、自ら発した言葉が七つの海だった。だから七海という名を彼女に与えたのでしょう、凛」
「え、あ……うん、そうだけど」
自分で命名しておいて頭から抜けていたのか、凛は目を丸くした。口元に手を当て、
「そっか、確かにあれ、七海から言い出したのよね……。七つの海ねぇ……あなた、海関係の学校に行ってたとか?」
「さ、さぁ、どうかな……」
問われるもいっこうに覚えがないので、七海は首を傾げるしかない。何しろなぜそんな言葉を口にしたのかも、自分で分かっていないのだから。
そこで話が止まり、一同、うーんと天井を仰いだ。今の時点で分かっている事があまりにも少なく、雲を掴むような話だ。
「せめて、つくみはら学園がどこにある学校か分かればいいんですけどね」
桜がふう、とため息をもらした時、つとセイバーが顔を上げた。
「学校と言えば、一つ思いついた事があるのですが」
「何? セイバー」
「いえ。これだけ探索を行っても情報が得られないのであれば、彼女の記憶を取り戻させる方法を模索した方が良いのではないかと」
「取り戻させるっていっても、どうやって。ま、まさかセイバー、ショック療法とかいわないよな?」
頭を殴ってみればいいのです、などと提案されるのではないかと顔をひきつらせる士郎。対してセイバーはむっと不機嫌顔になり、
「まさか。シロウが今何を想像したかは知りませんが、乱暴な真似をするつもりはありません」
じろっとマスターを睨みつけた。
「そ、そうだよな。いや悪かった、セイバー。それで?」
「はい。ですから、彼女が以前行っていた事、存在していた場所に行けば、少しは手がかりになるのではないでしょうか」
記憶をなくす前にやっていた事、居た場所。そういわれても、思い出せないものをどうすればいいのか。黙ったまま首を傾げる七海の前で、セイバーは士郎へ告げる。
「シロウ。学校へ彼女を連れていってみてはどうでしょう」
「へ?」
「七海を学校に?」
凛と士郎が同時に声を上げる。えぇ、とセイバーは頷いた。
「私はよく知りませんが……シロウ、こちらの学舎というものはどれも同じような作りになっているのではありませんか」
「あ、あー……それはまぁ、学校にもよるだろうけど、おおまかな作りはそう変わらない、かな」
「それならば、彼女がいたツクミハラ学園と、シロウ達の通う穂群原学園、細かい点に違いはあれど、似通った箇所があるはずです」
「なるほど。つまり学校見学させれば、元の学校を思い出すかもしれないって事?」
ぱちん、と凛が指を鳴らす。セイバーの提案が気に入ったのか、にこっと笑い、
「いいじゃない、それ。どうせ何の手がかりも無いんだもの、やってみるに越したこと無いわ」
「で、でも……いいの? 私、部外者なのに」
おそるおそる七海が口を挟む。正直、学校を見れば何か思い出すかもしれないというのは魅力的だが、勝手に入り込んでいいものなのか。
不安になる少女に、士郎が笑いかけた。
「とりあえず藤ねえに頼んでみるよ。大丈夫、あの人いい加減なようでいて、しっかり教師だからさ。こういう事情ならきっと、何とか手はずを整えてくれると思う。
ちょうど今学校だろうから、ちょっと聞いてみるか」
そういって腰を上げ、電話をかけにいく士郎。それを目で追っていた七海は、ふと視線を感じて顔を戻した。
「…………」
気づけば、セイバーがじっとこちらを見つめている。
金髪碧眼の美少女にまっすぐ射抜かれ、七海はたじろいだ。ええと、と口ごもりながら頭を下げる。
「ありがとうございます、セイバーさん。学校へ行くなんて、私ぜんぜん思いつかなくて」
言いながら顔を戻すと、ふとセイバーの表情が和らぐ。
「いえ、私は提案しただけです。礼は見学が叶ってから、シロウと大河に伝えて下さい」
「っ……あ、は、はいっ分かりましたっ」
セイバーの微笑はあまりにも美しく、まばゆくて目が離せなくなる。急に鼓動が早くなるのを感じて、七海はあたふたと首を振った。
参った、この家は美人が多すぎて、時々身の置き場がなくなってしまう。
つくづく思うが――こんな美女だらけの中で、唯一男の士郎が、なぜあんなに平気な顔でいられるのか、不思議でならない。
その後はあれよあれよという間に話が進んだ。
七海の境遇にいたく同情している大河は、士郎が電話で問い合わせた一時間後には、学校見学の手はずを整えてくれたのだ。
準備が出来たのならすぐ行った方がいい、と凛に後押しされ、七海は午後いちで穂群原学園の前に立っていた。
「ここが穂群原だけど……何か思い出せるか?」
付き添いでやってきた士郎が、制服姿の七海に問いかける。(学校に行くなら制服を着るのが自然、もしかしたら制服を見知っている者がいるかもしれない、という配慮である)
「ん……」
七海は校門の前に立ち、周囲を見渡した。広いグラウンドと、その奥にそびえ立つ校舎。今は連休中だが、校庭では生徒達が大きな声を上げて、部活動にいそしんでいるようだ。
「……ごめん。何も感じないみたい」
セイバーの言うとおり、学校を見れば何かしら、引っかかるものがあるかもしれないと期待したのだが。しょんぼり俯く七海に、士郎は頬をかいた。
「いや、俺に謝らなくていいよ。困ってるのは君の方なんだから。
ひとまず、あちこち見て回ってみよう。外から見てただけじゃ、意味ないしな」
「……うん、ありがとう、士郎君」
そうだ、色々手配をしてくれた人の前で、あまりがっかりするのも失礼だ。気を取り直し、士郎に続いて校門をくぐった時、
「お……お、おおーーーー!? スキャンダル! スキャンダルの匂いがぷんぷんするーー!!」
「!?」
突然つんざくような大声が響きわたったので、士郎と七海はびくっと跳ねてしまった。足を止めた二人の前に、ずざざざーっ!と盛大に砂埃を立てて滑り込んでくる影。
「ま、蒔寺?」
目を丸くする士郎の前で、その人影――日に焼けた青ジャージの少年……いや少女が、びしぃっと指を突きつけてくる。
「スキャンダルの現場を押さえたぜ、衛宮! お前、また新しい彼女作ったな!?」
「えぇっ!?」
唐突な決めつけに七海も声を上げてしまう。違う、と士郎が激しく首を振った。
「スキャンダルじゃない! 彼女は彼女じゃない! っていうか『また』『新しい』って何だよ!?」
「とーぼけんなー、セイバーさんや遠坂まで侍らせて、ハーレムしてるくせに」
「してない!!」
「お嬢さんー気をつけなよーそいつ人畜無害な顔してるけど、とんだスケコマシだからなっ」
「え、えーと……」
あまりにもハイテンションで、話についていけない。ぱちぱち目を瞬かせていると、
「駄目だよ、蒔ちゃん。初対面の人に失礼だよ」
「うむ。申し訳ない、衛宮の知人。それの話は全て聞き流してくれて構わない。どうせ戯れ言に過ぎないので」
彼女の友人達が後から続いてきた。一人はショートカットのおとなしそうな少女、もう一人はライダーにも似た、眼鏡に落ち着いた風貌の少女である。
「戯れ言って何だよ! 地味地味衛宮がまたスキャンダルを巻き起こそうとしてるってのに!」
「違うって言ってるだろ。彼女は……あー、ちょっと訳ありで、うちで預かってる人なんだ」
「あ、えと、七海です。初めまして」
紹介されたので、ぺこりと頭を下げると、相手も口々に自己紹介してくれた。最初に飛び出してきたのは蒔寺、ショートカットの少女は三枝、眼鏡の少女は氷室という。
「……へぇ、学校見学に来たんですか。もしかして転入予定とか?」
記憶喪失云々はややこしい話だ。初対面で話して聞かせるものでもなかろうと、とりあえず当たり障り無く語ると、三枝がほんわか微笑む。
「えーっと、そういうわけじゃないんですが……」
どう言ったものかと首を傾げる七海を、蒔寺が頭の先からつま先までじろじろ見て、
「ふーん、この辺りじゃ見かけない制服だけど、どこの学校?」
と尋ねてきた。七海は一瞬、士郎と視線を交わし、
「……つくみはら学園っていうところなんです。ご存じですか?」
おそるおそる尋ねてみる。
「つくみはら?」
「知ってる? 鐘ちゃん」
「……いや。聞いたことはないな」
三人とも知らない、と首を横に振った。
「そうですか……」
やはり簡単に手がかりは得られないようだ。声のトーンが少し落ちた七海だが、すぐ気を取り直して、
「少しの間、士郎君のところでお世話になりますので、よかったら仲良くして下さい。よろしくお願いします」
にこ、と笑いかける。すると、蒔寺と三枝がぱちくり、と目を見開いて、なぜかうっすら顔を赤らめた。氷室は変わらないが、眼鏡の奥で瞳がすっと細くなる。
「わ……」
「……可愛い」
ぼそ、と呟いたせりふは、七海の耳には届かなかったが。蒔寺がへぇぇ、と感心したような声を上げた。
「衛宮って守備範囲広いのなー。セイバーさんみたいな外国人から、遠坂みたいな派手タイプに、ちょっと大人しめのタイプもいけるんだ」
「だから違うって何度言えば……」
「もう、失礼だってば、蒔ちゃん」
「楓、君は少し感情を隠す術を身につけたらどうだ?」
一同からツッコミを受けても、蒔寺はいっこうに堪えた様子がない。なかなか圧倒されるタイプだが、こういうのもいいな、と七海は微笑んだ。
衛宮家の人々はもちろん皆良い人ばかりだが、士郎の学友はごく普通のタイプばかりで、自分と似た空気を感じる。
(私も学校の友達がいたら、こんな感じだったのかな)
少しでも思い出せればいいのにと話しながら記憶を探ってみたが、しかし以前居たかも知れない友人の影など、少しも思い浮かばなかった。
蒔寺達と分かれた後、士郎と七海はまず職員室へ向かった。
学校見学の手はずを整えてくれた大河と教頭に挨拶と礼をしにいき、あとは士郎の案内で校内を出歩く。
教室。図書室。音楽室。美術室。視聴覚室。理科室、家庭科室、生徒会室……思いつく限り、適当に巡ってみる。
休日のため人少なの校内は、普段とは異なる場所のようだ。あまりにも静かすぎて何か落ち着かないな、と士郎が苦笑すると、
「そうかな。私は何となく、落ち着く気がする……ん、落ち着くのかな。落ち着かないのかな」
七海は何か不明瞭な事を呟いて、首を傾げている。
「七海の学校は、生徒が少なかったのか?」
「う……ん、どうだろう。何だか……これくらいの方が、慣れてるような……でも何か、緊張するような……ごめん、よく分からないや」
無理に思い出させようとするのも良くないだろう。そっか、と話を止めて、士郎は足を外に向けた。
「じゃあ次は、あっちにいってみるか」
「どこに行くの?」
ててっと駆け寄ってきた七海に分かるように指をさす。その先にあったのは、毎度おなじみの弓道場だ。
「失礼します」
「失礼します」
士郎にならってぺこりと頭を下げ、靴を脱いで板間に足を乗せる。
三方を壁に囲まれてはいるが、正面は吹きさらしになっているため、床がじんわりと冷たい。芝が敷かれた空間の先には盛り土があり、ずらりと白黒の的が並んでいた。
そのうちの一つに今、どすっ、と矢が突き刺さる。
「おっ、衛宮か。なんだ、とうとう観念してあたしと勝負する気になったのか?」
その矢を放ったばかりの少女が振り返り、士郎に笑いかけた。美綴、と士郎は手を振る。
「いや、ちょっと寄らせてもらっただけだ。珍しいな、美綴がやってるなんて」
三年になって部活を引退した美綴は、新部長になった桜のサポートで顔を出しもするが、自ら弓を引く事はなかった。
それなのに今は、道着に身を包んで射を行っている。的に刺さった矢の数を見るに、少なくとも三十分ほどはやっていたらしい。
「勉強ばっかりで体がなまってきたから、少しだけね。衛宮は……ん、お客さん?」
士郎の後ろにいる七海に気づき、軽く会釈する。
「初めまして。士郎君のところでお世話になってます、七海です」
「……へぇ? また同居人が増えたんだ。初めまして、あたしは美綴。こいつの元部活仲間だよ」
そういって士郎を軽くこづく。七海も彼へ視線を移し、
「士郎君、弓道やってたの?」
「あー、昔ちょっとな。今はぜんぜんだ」
「そうなんだよなー勝ちっぱなしでとっとと辞めちゃってさ。こっちはリベンジしたいのに、一向に戻ってこなくてずるい奴だよ」
はぁ、とため息をつく美綴。もう一度やらないの、と七海に尋ねられ、士郎は首を振る。
「もうやってる暇ないから。ちゃんと時間がとれないのに、中途半端に向き合うような事はしたくないんだ」
「衛宮はそういうとこ、変に固いよなー。皆もっと適当にやってるってのに」
「まぁ、こればっかりは性分だからな。――悪い、せっかく集中してるところを邪魔したな。そろそろ行くよ」
とりあえず弓道場を見せるという目的は果たしたので、士郎はこれ以上美綴の邪魔をしても、と手を振る。ところが、
「あの。……もしよかったら、打つところ、見せてもらえませんか」
七海が不意にそんな事を言い出した。え、と目を瞬かせる士郎。これまでどこを見ていても、七海は要望など口にした事はなかったのに。
(何か記憶に引っかかる事があったのか、な?)
「あぁ、別に構わないよ。そんなに面白いもんじゃないだろうし、あと五本も打ったら止めるから、それでもよければ」
美綴は快諾する。士郎も「これが何か役立つのであれば」という事で、一緒に同級生の射を見る事になった。
びゅ……どすっ!!
空気を裂いて飛来する矢は過たず中央に刺さる。矢を放った後の姿勢を保つ美綴は微動だにせず、その横顔は凛とした美しさがあった。
「……すごい。かっこいいね、美綴さん」
美綴が射を行う合間に士郎からレクチャーを受けていた七海は、ため息混じりに囁いた。
そうだな、と士郎も美綴へ視線を戻し、
「あいつ武道は何でもござれで、当然のごとく部長やってたし。竹を割ったような性格というか、気持ちいい奴だから、男女問わず好かれるタイプなんだ」
「うん、分かる気がする」
少し話をしただけでも、裏表のない姉御肌な性格らしいのは、見てとれた。
弓道の腕前がどうなのか素人目には判断つかないが、放った矢が全て真ん中を射抜いているのを見れば、熟練者なのは確かだろう。
「そういう人に勝ったんだよね、士郎君」
「ん?」
ふと思いついて呟くと、士郎がこちらへ視線を戻す。
「美綴さんみたいな人に、士郎君、弓道で勝ったんでしょう? それって士郎君もすごい人だって事だよね」
「いや、俺は……まぁ、何年も前の事だ。今なら断然、あいつの方が上手いよ。何しろ三年間毎日やってきたんだし」
「士郎君はまたやるつもり、ぜんぜん無いの? さっき中途半端は嫌だって言ってたけど」
すると士郎がぽりぽり、と頭をかく。
「一生懸命やってる奴のところに、遊び感覚で混じるのはちょっとな。それに――今のうちの状態、見たろ? 正直弓道やってる暇なんてないよ」
「……まぁ、それはそうだね、確かに」
毎日の食事を作るだけでも、相当な時間が必要なのだ。あの家を維持するだけでなく、同居人の世話もしなければならないとなれば、確かに時間はいくらあっても足りまい。
「私もそこに入って来ちゃったし……ごめんね、士郎君。忙しいのに、無理につき合わせちゃって」
またも申し訳ない気分になって謝るが、士郎は屈託がない。
「いや、事情が事情だし、気にしなくていい。それより、何か思い出した事は? さっき射が見たいって結構強く言ってたけど、弓道で引っかかる事でもあったのかな」
「……」
七海は沈黙した。しばしじぃっと、射を続ける美綴を見つめた後、士郎をまっすぐ見据え、
「士郎君。あのね、どうしても嫌だったら悪いんだけど――士郎君の射、見られないかな」
どこか逆らいがたい強さを秘めた声音で、静かに言った。
「え……」と士郎は困惑する。つい先ほど、徒に弓をしたくない、と言ったばかりである。
とうの昔に部を辞めた士郎は完全に部外者で、部員が毎日研鑽を積み重ねている道場に足を踏み入れるだけでも、多少抵抗を覚えるのだ。それなのに、弓をひけとは――
「……駄目、かな」
沈黙する士郎に、七海は気弱な表情になって呟く。
頼りなげなその顔は、彼女がよく見せるものだ。記憶を全てなくした彼女にとって、この何気ない日常ですら、不安に満ちたものなのかもしれない。
士郎が、一刻も早くそれを取り除いてやりたいと願うのは、弱いものに手をさしのべる正義の味方になりたいと、この年まで頑固に思いこみ続けてきた故だ。
――もしそれが、記憶回復の一助になるのなら。自分の小さなこだわりなど、何の意味があるだろう
「……分かった」
迷った挙げ句、士郎は腰を上げた。
「美綴にちょっと聞いてくるよ。ただし、実際には打たない。構えだけで勘弁してもらいたいんだけど、いいかな」
それがせめてもの譲歩、士郎の弓道に対する距離の取り方だ。七海はぱっと顔を明るくして、
「うん、お願いします、士郎君!」
ぺこり、と頭を下げた。
弓道には射法八節といい、弓を射るために八段階の基本動作がある。
士郎は息を整え、静かに弓道場に立った。久しぶりの弓場だが、まるで毎日立っているかのように、心が凪いでいく。これはきっと、魔術の修行で培った集中力のおかげだろう。
背丈を超す弓と、架空の矢をそれぞれの手に持ち、腰に当てると、足踏み。的に向かって両足を開く。
続いて胴作り、弓を正面に据える。弓構え、矢をつがえる。打ち起こし。弓矢を持った両拳を上に持ち上げ、続いての引き分けで弦を引く。静まりかえった道場の中にキリリ、と弦を引き絞る音が微かに響き――
びゅっ!
会で狙いを定め、空の弓は離れで空に飛び出した。まっすぐ的に吸い込まれていくイメージを頭に描きながら、士郎は残心で気息を整えた。すっと体の力が抜け、手を腰に戻す――
「おー、さっすが衛宮、綺麗なもんだ」
見学に回った美綴がぱちぱち、と手を叩いた。
「その調子で、今度はあたしと勝負を……?」
してくれよ、といつものお願いを口にしようとした時、美綴の隣にいた七海が立ち上がり、
「え。……うわ!?」
士郎のもとへ駆け寄ると、突然前髪をぐいっと押し上げた。そのままじいっ、と至近距離で穴が空くほど見つめられ、
「え、七海、ちょっ、何……」
一瞬でパニックに陥る士郎。これまで七海とこんなに接近した事はないし、勿論触れられもしなかった。
地味な印象があった七海は、しかし間近で見ると目がつぶらで肌は滑らか、まるで良くできた人形のように整った顔立ちをしていて、目が離せなくなる。
(ま、ま、待った、これは勘弁してくれ、恥ずかしい!!)
かぁぁと顔が熱くなるのを感じて士郎は咄嗟に逃げようとしたが、
――アー、チャー?――
ぽろり、と七海の口からこぼれた名前に、硬直した。
(な……アーチャーって……)
なぜその名前が出てくるのか。彼と赤い弓兵の因縁を語って聞かせた事はないのに。
「どうして」と微かに口を動かすが、七海は応えない。彼の声など耳に入らない様子で、ただ真っ直ぐに士郎を見つめてくる。
「……えーっと、何してんの? お二人さん」
そのまま硬直してしまった七海と士郎を見かねて、美綴がごほんと咳払いをする。それで我に返った七海は、
「あっ……ご、ごめん、士郎君!」
やはり頬を紅潮させてばっと後ろに退く。何してんだろう本当にごめんね、とぱたぱた手を振る七海。士郎は前髪を押さえ、
「いや……いいけど……」
何か狐につままれたような気分で、そう呟く。心の中では今すぐ、どうしてアーチャーと自分を重ねたのかと尋ねてみたかったのだが――
「何だ、あんまり衛宮がかっこいいんで、惚れちゃった? 七海さん」
「え、いえ、あの、違います! そうじゃなくて、えーっと、……良くわかんないです……」
慌てふためいて言い訳をする少女はいつも通りだ。
美綴がいる前でサーヴァントの話をする訳にもいかず、士郎はひとまず疑問をごくりと飲み込んだ。
何だかよく分からないが――彼女はなぜか、アーチャーを気にしているようだ、という点だけは確信して。