feel same way

 ベンチに腰掛け、見上げた空は目に染みるほど、青い。
 今日は天気がいい。暑いと言うほどではないせいか、公園の中は人々が行きかい、誰もかれも楽しそうだ。それを、背もたれに肘を乗せて見るともなしに眺めていたら、
「ジョー」
 低い声が耳に飛び込んできた。顔を向ければ、入り口を越えて、勇利がこちらへやってくる――車椅子に乗って。
「……よお。元気そうだな」
 手をあげて挨拶をすると、目の前までやってきた相手は苦笑した。
「元気ではないから、入院してるんだがな」
「その割に顔色はいいじゃねぇか。もっと病人めいた面してるかと思ったぜ」
「最近は食事をとれるようになった。体重は減ったままだが、少しずつ戻ってきてはいる」
「そうか。そりゃ結構だな」
 そこで会話が途切れた。予想はしてたが、早々に話題がなくなってしまった。
 元よりおしゃべりな質ではない。互いをよく知り合っているわけでもないから、共通の話がない。おまけに会うのは、あの決勝戦以来だ。
(……何を言やいいんだかな)
 ずっとそう思っていたから、勇利が入院して以降、見舞いには来られなかった。どんな顔で向き合えばいいのか、分からなかった。
 それでも一度だけ、手術が終わり、命を取り留めたと聞いた時に一度だけ、赴きはした。だがその時は病室へ入る事も出来なかった。
 ――チャンプを死の淵へ追いやった男。
 あの死闘を終えた後、マスコミは派手に騒ぎ立て、番外地ジムへと押し寄せたし、新聞もテレビもしばらくその話題でもちきりだった。
 メガロボクスの頂点を決める決勝戦で、まさかのギアレス対決。
 史上初の十三ラウンド、血まみれのあざだらけになりながら殴り合いを続けた勇利とジョーの試合には賛否両論。さらにその結果、敗北したチャンプの緊急入院に新チャンプの電撃引退にまで至れば、世間の注目を浴びるに十分すぎる顛末だ。
 押し寄せるマスコミに辟易してジムからしばし雲隠れしたジョーだが、それでも行く先々で、メガロニアの話題を耳にした。いい話も悪い話もどっちも盛んにわめきたてられるので、他人事のようにそれを聞き流しはしたが――
『チャンプを死の淵へ追いやった男』
 そのフレーズだけは、忘れようとしても、脳裏のどこかに焼き付いてしまっていた。
(勇利。あんた、ちゃんと生きてんのか)
 面会謝絶の札がかかった扉を前にして、逡巡した。戸一枚でへだてられているだけなのだから、すぐ目の前に勇利がいて、その気になれば、生死を確認できる。
 だが、ジョーは扉に手を当てるだけで、開けられなかった。
(俺のせいか。……俺があんたを、殺しかけたのか)
 その問いに、背筋が冷たくなる。戸に当てた指先まで冷えていく。
 結局、ジョーは踵を返し、今日この時まで、病院へ足を向けはしなかった。やっと顔を出したのは、サチオ達が語る勇利の近況に耳を傾け、順調に回復していると確信できたからだ。
(死ぬ、ってのはおっかねぇな)
 ちらりと視線を向けると、ベンチの横に車椅子を並べた勇利もまた無言で、空を眺めている。入院生活で痩せたからか、より鋭角的な横顔に見えたが、その眼差しに、リングで見せたあの獣じみた必死さは影も形もない。
(死ななくて、良かったな)
 言うとすればそれ。だが、彼を殺しかけた自分が言うのはあまりにも無責任に響く。これを口にするのは、自分が安堵したいだけだ、と苦笑いした。
(言える事なんて、何もねぇな)
 黙りこくって十分ほど経った後にそう結論付けて、ジョーは腰を上げた。
「勇利。俺、帰るわ」
「もう、か。何か用があったんじゃないのか」
 当然の問いに肩をすくめる。
「いんや、あんたの顔見に来ただけだ。せっかくここまで来てもらって悪かったな。病院まで送っていくか」
「それは大丈夫だ。一人で動けるように、車椅子に慣れておかないとな」
 一人で動けるように。それは退院してからも後、歩けるようにならないという事か。そう思った瞬間胸に痛みを覚えた。罪悪感って奴か、と苦いものを噛みながら、ジョーは勇利に背を向けた。じゃあな、と手を振ろうとして――
「ジョー」
 勇利の低い豊かな声が、足を止めさせる。肩越しに振り返れば、勇利はまっすぐこちらを見据えていた。
 そして、凪いだ水面のような、穏やかな目を向けながら、
「――メガロニア、楽しかったな」
 静かに告げた、ので。
「……!」
 息を飲んだ瞬間――思い出す。

 いつ果てるともなく続く殴り合い。
 目に映るのは相手だけ。
 割れんばかりの歓声も、野次も、コールも、セコンドの応援すら消え失せ、リングの上にただ二人だけになったあの瞬間。
 ついてるよな、と勇利は言った。
 あの試合のさなか、無駄話をしている暇なんてなかったはずなのに、確かに言った。
 ついてるよな。俺たちは出会えたんだ、と。

 ――きゃー、と一際甲高い子どもの声が響いて、ハッと瞬きした。
 刹那、幻視したリングは消え失せ、周囲は平和な公園の景色へと塗り替わる。勇利はグローブをしておらず、立ってもおらず、車椅子に乗って、こちらを見上げている。
 楽しかったな、と告げた勇利は、口の端を上げて微笑を浮かべた。それは試合が招いた自らの不自由を微塵も悔いていない、満足げな表情だ。
『俺はあの試合を心行くまで楽しんだ。お前は、どうだ』
 声にならない声で、そう問いかけられたような気がする。そして今の勇利に罪悪感を抱くのは、誤った感傷なのだとも。
(……敵わねぇな)
 勇利の潔さに内心舌を巻き、苦笑した。ああ、と鼻の下をこすり、
「――あれは、最高の瞬間だった。俺も楽しかったぜ、勇利」
 そう応える。
 それに、分かっている、というように勇利の笑みが深くなったので、心の澱は霧散した。
 同情も、罪悪感も、必要ない。
 自分も勇利も、今あるべき姿でここにいる。
 あの輝ける瞬間を共有できたこと、もうそれだけでお互い充分なのだと、今はっきり理解した。
(俺もあんたも、あの試合の先に生きてるんだな)
 勇利が生死の境をさまよっていると聞いた時から、浮ついていた足元がようやく地面についた気がする。へっ、と笑い、ジョーは正面へ顔を戻した。
「それじゃあな、勇利。……また来る」
 そう告げて手を振る。返ってきた答えは「ああ。またな、ジョー」とそっけなかった。だが、この飾り気のないやりとりが、自分たちらしいのだろう。
 またな、勇利と口の中だけで呟いて、ジョーは公園の外に出て、バイクにまたがった。
 エンジンをかけて出る直前ちらっと視線を向けると、勇利はまだベンチのそばにいて、静かに佇んでいる。その確かな存在感に安堵を覚え、ジョーはギアを入れてアクセルをひねった。
 そして、走り出したバイクが少しずつスピードを増していく中、
(今度見舞いに来るときは、食い物でも持ってきてやるか。げっそりして、幽霊みたいだぜ)
 来る前とは正反対に上向きの気分で、そんな軽口をひそかに叩いたのだった。