「アラガキの恋路にカンパ~イ!!」
ガチンとビール瓶をぶつけながら、目の前で祝杯を挙げられ、アラガキはぼっと顔が熱くなる思いがした。美味そうにビールを飲む南部とミヤギに、よしてくださいと懇願する。
「そう改まって言われると、恥ずかしくなります……」
「良い年した男が赤くなってんじゃねぇよ。本当にお前ぇはいつまでたってもネンネだなぁ」
「堅物がようやくいい子を見つけたんだ、これが祝わずにいられるか? 大体、言われるのが嫌なら、最初から俺たちを飲みに誘わなければいい」
「それは、二人には報告しておかないと、と思って」
「それなら黙って祝われておけ。こんな嬉しい事はないんだ」
上機嫌でビールを煽る南部の横で、ミヤギも破顔した。普段微笑を見せるくらいのトレーナーにしては珍しい、こちらもたいそう喜んでくれているのだろう。
(打ち明けるべきか迷ったが……言って、良かったな)
恥ずかしさは変わらないが、我がことのように喜んでくれる二人に、こちらも嬉しくなってしまう。
打ち明けるまで我慢していたビールに口をつけて、喉をしめらせるアラガキに、ミヤギがしみじみと呟いた。
「しかし、急に話があるというから何事かと思ったが、良い話で安心した。しかも相手があの子とはな。今も付き合いがあったとは知らなかった」
「ミヤギさん、あんたはファルちゃんに会った事あるのかい? 美人そうな印象だったが」
「ああ。昔、少しだけな」
目が見えない南部にしてみれば、自分以外から見た彼女の話を聞きたくてうずうずしていたのだろう。
ミヤギの側へ体を傾けて聞く体勢になっているのを目にして、アラガキは内心ぎくりとした。
昔と言われて案じたのは、ファルの過去に話が及ばないかと思ったからだ。何も知らない南部にわざわざ、彼女が話したがらないだろう話題を入れる必要はない。
とっさにミヤギへ視線を向けると、
「――今も昔も、俺はよく知らないが、見た目には雰囲気のある、優し気な娘だったよ。
最近どうもアラガキの夜歩きが増えたと思ったが、まさかあの子とこそこそ会っていたとはな」
ミヤギはさらりと流してくれた。さすが、気が利いている。
ほっと息を漏らすアラガキに、それで? と南部が身を乗り出した。
「付き合いだしたのはいつだ、最近か?」
「二か月ほど前です」
「そんなに黙ってたのか。水臭いな」
「いや、俺も本当に続けられるのか不安だったのと、照れくさくてな。それに、特に以前と何かが変わったわけでもないし」
頭をかきながらいうと、二人が「ん?」という顔をした。ミヤギが眉を寄せて、
「付き合う前と後で、変わりないのか? ……二か月も経ってるのに?」
訝し気に尋ねてくるので、「あ、あぁ、そうだが」首肯した途端、南部がすっとんきょうな驚きの声を上げた。
「ちょっと待てアラガキ、お前ぇいい年して、付き合ってる女にまだ手ぇ出してねぇのか!」
「なっ、南部さん!? 声が大きいです!」
あまりにもあからさまな物言いに、カッと顔が熱くなった。まぁまぁ、とミヤギが南部の肩に手を回してて落ち着かせつつ、
「今の言い方はともかく。アラガキ、本当にそうなのか? それで、大丈夫なのか」
心配そうに聞いてくるので、言葉に詰まってしまった。
「それは、何というか……ファルも別に何も言っては……」
「ばかたれ、女から言わせる男なんぞ最低だろうが。ましてあんな控えめそうな子が、自分は欲求不満ですなんて言えるか」
「よっ、きゅっ……!!」
南部の言葉は直球すぎる、今度こそ絶句した。
火を噴きそうなほど体が熱くなって硬直してしまうと、二人は顔を見合わせ、そして大きなため息をついた。
「……まあ、人には人のペースがある。周りが口出しするのも野暮だが」
苦笑して、ミヤギはテーブルの上に置いたこちらの手を軽くたたいた。
「あの子を守ると決めたにしても、ずっと同じようにしていては、踏み込めないだろう。無理に何かしろというわけじゃないが、遠慮しあってても意味がない。
一度機会を見つけて、腹を割って話すんだな」
「話すなんてまどろっこしい。押し倒しゃすむだろ」
「おっ……」
「はは、皆あんたみたいにはいかないさ、南部さん。アラガキがこうだから、あの子も受け入れたんだろうしな」
そういうミヤギの目には、柔らかないたわりの色が浮かんだ。
(……ファルの事情を、察してくれているのだろうな)
その気遣いを有難く感じて、アラガキは軽く目礼した。まだ頬は熱いままだ。
――そんな事があって、翌日。
いつものようにファルの店を訪れると、今日は先客がいた。
スーツ姿の男と着飾った女、カップルの応対をしていたファルは、アラガキを見てふっと柔らかく微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
と迎えてくれるその笑顔に、いつも胸の奥がぽっと暖かくなるのを感じて、アラガキもまた笑い返した。
「失礼」
狭い店内、カップルの後ろを壁にそって横切り、定位置のスツールに腰を落ち着かせる。
そしていつもの酒を注文し、つまみと一緒に堪能しながら、こっそりファルを観察した。
彼女の様子は普段と変わりない。
髪をきっちりまとめ、華奢な体をバーテン服に包み、穏やかな笑みを浮かべ、邪魔にならない程度に客の相手をしている。
マスターとして働いている時のファルは、控えめながら切れのいい受け答えをして、どんな話題にも当意即妙に応答した。
その様はか弱げな見た目でも凛としていて、以前よりいっそう綺麗に見えてしまうのは――自分の欲目、だろうか。
(二か月。もうそんなに経ってるのか)
視線を前方へ向け、グラスを傾けて思う。
ファルの店を知ってからというもの、アラガキはぐっと夜の外出が増えた。
それを訝しく思ったミヤギに問い詰められたので、南部も交えて打ち明けたのはいいが、改めて時の速さに驚いてしまう。
(二か月も、いい大人が何をしてるのか。……確かにな)
恋も知らない子どもでもあるまいし、いや今どきの子どもならもっと進んでいるか。
きちんと告白をして、受け入れてもらった大人の男女同士。それが二か月、店に通うだけで何もないというのは、傍から見て確かに奇異に違いない。
(俺は、こうしてるだけでも十分なんだが)
もちろん自分だって男だ。
欲がまるでないわけではないが――ことファルに関して言えば、そばにいるだけで満たされてしまって、何かしようという気が起こらないのだ。
ひそやかにジャズの流れる静かな店内。
ファルが醸し出す、優しく包み込むような気配の中でじっくり酒を味わい、時折言葉を交わし、あの青い瞳に自分が映し出される、それだけで幸せを感じた。
分かりやすい愛の言葉を交わしはしないが、お互い気持ちは通じ合ってる。そう思っていた。のだが……。
(よっ………不満、というのは、……いや、どうなんだそれは)
不意に南部の赤裸々な言葉を思い出し、つい顔を手で隠してしまう。
頬が熱を帯びるのは意識してしまうからで、これでは勢い余って告白した時と同じではないかと内心呆れてしまう。
(俺は別段、奥手というほどでもないと思うんだが)
南部ほどあけっぴろげでなく、スマートでもないが、女性との付き合いはそれなりに上手くやっていた、と思う。
しかしファル相手にと思うと、汗が噴き出してくる。緊張してしまう。
考えるのも不遜なのではという気がしてくる。
(俺はファルを特別に見すぎているのか……あるいは、不用意に扱うと壊れてしまいそうな、そんな印象があるからかもな)
自分はメガロボクスに携わる身だから、人並み以上に鍛えている。
一方ファルは見た目にもほっそりとしていて、いかにも繊細だ。
そんな彼女にうっかり触れたら、力が余って怪我をさせそうだという恐れがあるから、手を出そうと言う気にならなかったのかもしれない。
(……奥手というより、臆病なのか。俺は)
それに気づき、自分の情けなさに苦笑いをした時、
「――ごちそうさま。酒も飯もうまかったよ」
「居心地よくて、時間忘れちゃった。また来ますね、マスターさん」
腰を上げたカップルが、にこにこと店主に話しかけるのが目に入った。それを受けてファルはふわりと笑い、
「ええ、ぜひ。お待ちしてます。今日は少し冷えますから、お帰りお気を付けくださいね」
「ああ、ありがとう」
会計を済ませた男の腕に、女が自然としがみついて、頭をもたせかける。
「うーん、でもまだ足りないから、家で飲も」
「飲み過ぎじゃないか。風呂入って寝ないと、明日きついぞ」
「なら一緒に入ろうよぉ」
(ぐっ)
仲睦まじく出ていく二人の会話で酒が気管に入りかけ、アラガキは軽くむせた。
(こ、恋人同士なら、普通だろうが)
今ああいう話を聞くと、あらぬ妄想をしてしまいそうで困る。焦って、けほけほっと咳をしていたら、
「大丈夫ですか、アラガキ」
さりげなく水のグラスをこちらに置いて、ファルが声をかけてきた。
その心配そうな眼差しに下心を見抜かれそうで、アラガキはとっさに横を向いて、大丈夫だと答える。
「少しむせただけだから、気にするな」
「そうですか。……お代わりはいりますか?」
「……いや。俺も帰るよ」
今二人きりになるとまずい気がする。危機感を覚えて、アラガキは立ちあがった。
出口へ向かうのに合わせて、ファルもカウンターから出てきた。扉の前でお互い向き合い、挨拶を交わす。
「きょうはちょっと、はやいね。……おやすみなさい、アラガキ」
「ああ」
付き合い始めてから、ファルはこうして帰りを見送ってくれるようになった。
他に客がいないときに限るが、この時はいつも店のマスターではなく、ファル自身として素の表情を見せてくれるのが、特別な感じがして、いつもぐっとくる。のだが、
(今日はそれ以上……だな)
ファルを見下ろした途端、まるで初恋を知った少年のように、心臓がどきどきと弾んで、顔が勝手に熱くなってしまう。
普段なら別れを告げてすぐ外へ出るのに、立ち去りがたくて足が動かない。
「……?」
無言で棒立ちする自分を訝しく思ったのか、ファルが首をかしげて見上げた。その様がまた無防備で何とも愛らしい、と思った瞬間、
「ファル。その……触っても、いいか」
ぽろりと本音が零れ落ちた。しまったと口を押さえても、言葉は取り戻せない。
「あ、いや、その今のは」
慌てて取り繕うとした、のだが。
「……うん。いいよ」
きょとんと目を丸くした後、ファル自ら、両腕を広げて受け入れる姿勢になったので、逆に腰が引けてしまう。まさかOKされると思わなかった。
「う……す、すまん」
「なんで、あやまるの? いいよ?」
「いや……」
ファルは何の気なしに言っているが、こんな下心を抱えているなんて思いもしないだろうと、言葉に窮してしまう。
しかし、本人が良いと待ち構えているのだから、今更引けない。
カッと血の気が上った頭にくらくらしながら、アラガキはおずおずと手を伸ばした。
そっと腕を背中に回し、ファルを抱き寄せてみる。
(……やはり、細いな)
腕の中にすっぽり収まったのを見下ろし、動悸が伝わらないか心配しながら、思う。
ファルは背丈こそ、高くも低くもないが、とにかく細い。
元々骨が細いのか、鍛えていないからなのか、あまり食事を食べないからなのか……とにかく、少し力を入れただけで折れてしまうのではと危惧するほどに華奢だ。
肩など薄すぎて、手の中におさまって余ってしまうくらいだ。
(昔もそうだった、いやあの頃よりは肉付きがよくな……い、いや)
無意識に今昔を比べようとした途端、あの日の記憶がよみがえりそうになって、さらに体温が上がった。
今この状況で、一度だけ共にしたベッドの記憶を呼び覚ますのは危険すぎる。
ただでさえ、細くともふんわりとした女性らしい柔らかさや、鼻をくすぐる仄かな香りに幻惑されかけているのに。
(今日はここまでにしないと、俺がもたん)
そう思って身を離そうとした時、ふふっと小さな声が聞こえた。
「ファル? 笑ってるのか?」
見下ろすと、胸元に顔を寄せた彼女が、
「ちょっと、さむかったから。アラガキ、おっきくてあったかくて、きもちいいね」
「――っ」
胸がぐっと締め付けられるような事を、口元をほころばせて、嬉しそうに言うものだから。
ファル、と名を呼んだ気がするが、覚えていない。
気づいた時には、あの鮮やかな青い瞳を見つめながら、顔を傾けて――唇に触れていた。
……どのくらいの間、そうしていたか分からない。
ふわりと触れた唇はあたたかく、柔らかく、かすかに酒の味と匂いがする……これは自分のか。
溶けそうだ、とさえ思うほどに頭がぼうっとして、いつまでもこうしていたいと思ってしまう。
(好きだ)
腕の中のぬくもりも、優しい口づけも、愛しくて苦しい。
胸がいっぱいになって、は、と息を吐き出してようやく離れれば、ファルが閉じていた目をゆっくりと開き、夢うつつに瞬きした。
「…………どうしたの。きゅうに」
耳に届くか届かないかくらいの、本当に小さな声で囁かれ、うっと言葉に詰まった。頬に血の気が上るのを感じながら、
「す、すまん。嫌だった、か」
尋ねるとファルは小さく首をかしげる。
「ううん、そうじゃないけど。きゅうだな、とおもって」
確かに、急すぎる。これまで指一本触れなかったのに、突然抱きしめてキスをするなんて、性急だ。
(南部さんたちに焚きつけられて、カップルにあてられて。俺はバカか)
今更、羞恥と申し訳なさがこみあげてきて、もう一度すまんと呟いた。と、
「あやまらなくて、いいよ。……うれしい、から」
もう一度囁いて、ファルがこちらの背中に腕を回してきた。ふわ、と甘い匂いが香り、また心臓が飛び跳ねる。
「ま、待て、待ってくれ」
これ以上は本当に駄目だ! 理性がなくなる!
思わずファルを引きはがして距離を取り、アラガキは息を吐いた。
ばくばくとうるさい鼓動と一緒に感情が揺れ動いて、どうしようもなくなる。
「きょ、今日は、帰る。すまん、帰らせてくれ。
……頭がおかしくなりそうだ」
あまりにも腰の引けた台詞を口走ってると思いながらも吐露すると、少しの間をおいて、うん、と返事がかえってきた。
そろりと顔をあげれば、
「……またきてね、アラガキ。まってる」
ファルはいつものように、いや、白い頬をぽう、と赤く染めていかにも嬉しそうな、はにかんだ笑みを浮かべていたので――
――その晩、辛うじて店を後にしたが、眠りにつくこともできず、
(何もしなくていいなんて、綺麗ごとをほざいていたのはどこのどいつだ。触れたくて、我慢できそうにない。現金すぎる)
結局、妄想をふりきるため、深夜のロードワークにいそしむ羽目に陥るアラガキだった。